見出し画像

相反する2つの想い

なるべくなら目立ちたくない。

自分はここにいるよと叫びたい。

相容れない2つの想いが、心のなかで常に主導権を争っているような変な子どもだった。

引っ込み思案だけど、誰にも気づかれないのは嫌だという。まぁ、かなりのわがままだ。わがままボーイである。

授業中に、先生にあてられて答えるという経験は、誰しもが通る道だが、ぼくはその状況がとくに苦手だった。苦手を通り越して、あてられそうな日は、学校を休みたかった。

先生がその日の気分で、ランダムにあててくるときは、なるべく存在を消した。あのときのぼくは、たぶん空気に近かった。「気配を消す選手権」でもあろうものなら、相当、上位に食い込んだことだろう。

先生にあてられそうになったとき、だいたいの生徒は目をそらす。

ぼくも、御多分に漏れずそうしていた。しかし、あるとき、「先生も人だから意地悪な気持ちが働く。目をそらさず、堂々としていたら逆にあたらない」と耳寄りな情報を得て、早速、実践してみたら、見事にあてられた。噂はまったくあてにならない。

一方、席順で、順番にさされるときは、明日ぐらいにあてられるなと気持ちの準備ができたので、いくぶん気持ちが安らいだ。

しかし、準備というのは、終わりがない。当日になっても、準備が足りなかったのではと、ソワソワしてしまう。

たまに気まぐれで、席の順番どおりではなく、窓側の席からとか、スタートが一番後ろの席からということもあり、そういうときは、もうお手上げだ。顔面蒼白である。

今日はあてられない大丈夫な日だったのに、急に自分が答えなければならないかもというプレッシャーにあわててしまう。

自分ではどうにもできないので、地獄の時間がはやく過ぎるのを祈るしかない。しかし、そういうときに限って、やたら時間は長く感じた。

目立ちたくない人間だったので、発言しないことほど、心休まるときはなかった。先生が質問して、誰かが答える、それを傍から見ている自分。この時間が長いほど、平和は続く。それは、穏やかな春の一日といった感じだ。

そんな春の気分で、授業を受けていて、誰かが先生の質問に答え、正解する。自分も同じように正解だったときは、心のなかでガッツポーズ作るくらいうれしかった。

もし今日、先生からあてられても、余裕だったなとすこし調子に乗るが、実際にあてられるなると、この答えで合っているのだろうかと不安になるのだから、現金なものだ。

テレビで見るクイズ番組に似ている。視聴者としてテレビを見ているときは、ノープレッシャーで、気軽に答えをだせるが、いざその場に立ったら、普段通りのポテンシャルを発揮できなくなり、自分の答えに自信をもてなくなってしまう。

あのころのぼくは、圧倒的に自分の答えに自信も持てなかった。

たとえ、「ぼくも、その答え、知ってました」と心のなかで、先生に訴えかけたところで、先生が超能力者でない限り、伝わらないだろう。

褒められるのは、発言者だけである。

発言しないと、自分の気持ちは相手に伝わらない。そんなことをぼくは、狭い教室のなかで知った。

知ったけど、そのまま放置して、しばらく見ないふりをしてきた。存在を示したくても、言葉を持っていなかった。

臭いものには蓋アンド蓋。さらに、その蓋の上に、重い石を置いていた。

ぼくは、いま、ようやくあのころの自分にケリをつけようとしている。

自分が感じたこと、気付いたこと、見たことをインターネットの片隅でこうやって発信している。

正解がない世の中で、自分なりの答えを見つけようとしている。

それは、長年、閉じ込められてきた「ここにいるよ」という叫びが起こさせた、切実なるクーデターなのかもしれない。

#エッセイ #コラム #日記


☆ツイッター(@hijikatakata21)もやっています。よかったら、フォローをお願いします。

最後まで、読んでくださってありがとうございます!