書くことについて
文章を書き続けて、結構時間が経った。
言葉を連ねていると、神経がとても研ぎ澄まされ、やたら過去のことを思い出すようになったのだが、これはいったい何なんだろう。
書く題材を探しているのか、それともただ思い出に浸りたいモードになっているのか。
書くことは、奥深い。
そもそもなぜぼくが、文章をこのnoteで書き始めたかというと、若松英輔さんの著書『悲しみの秘義』を読んだからだ。
人がなにか行動を起こすときには、何かきっかけというものが必要だが、この本は明らかにぼくの背中を押してくれた。
それまで、恥ずかしながら、ちょくちょくノートやパソコンで、物語やエッセイみたいなものを書いていた。とても人に見せられるレベルではないし、見せるつもりもなかった。
よくできたなというものは、恥を忍んで、数人の友達に見せ、成仏させていた。人に見せれば、言葉たちも生まれてきた意味がある。
友達だから、「つまらない」「読むに値しない」そんな厳しい感想を突き付けられることはないが、自分で書いたものを人に見せるのは、かなりドキドキする。
いくらけなされる可能性が少ないといっても、その文章には自分が色濃く出ているので、それは人にじろじろと裸を見られているのと同義である。
穴があったら入りたいとは、こういうときに使うのか。ひとり、心の中で合点した。
若松英輔さんは書くことについて、こう言っている。
想いを書くのではない。むしろ、人は、書くことで自分は何を想っているのかを発見するのではないか。書くとは、単に自らの想いを文字に移し替える行為であるよりも、書かなければ知り得ない人生の意味に出会うことではないだろうか。
書くことで、自分の想いを知る。
自分が書いたものを読み返すと、不思議な気持ちになることが多々あった。
これってほんとうに自分が書いたのか?という疑問だ。
まるで他人が書いたような、そんな距離を自分の文章に感じる。いや、他人が書いたのか。そう思ってしまうくらい、自分で書いたはずなのに自分のものではないような感じ。
でも、それは間違いなく自分の書いた文章で、若松英輔さんのおっしゃる通り、「ぼくは、こんなことを想っていたのか」と自分でもびっくりするような発見があった。
それで、ぼくはもっと自分の想いを知りたいと思って、文章を書き続けることにした。
書くことは自分を知るための営みなのだ。
この文章を書いている間も、こういう経緯で自分は書き始めたのかということが整理できて、楽しい。なんとなくそうだろうなと思っていたことにちゃんと背骨が入る感覚、ぴしっとする。
これが、文章を定期的に書こうと思った経緯だが、ではなぜ、その文章を公開しようと思ったかというと、これも若松英輔さんの言葉が関係している。
若松英輔さん、好きだな。読んだことない人は、ぜひ一読して欲しい。
言葉は、書かれただけでは未完成で、読まれることによって結実する。読まれることによってのみ、魂に語りかける無形の言葉になって世に放たれる。
書くことだけでは、完結しない。読まれることによって、言葉は血を通わせる。
いままでみたいに、ほそぼそと書いて、たまに友人に見せて、満足しようと思っていたのだが、考えががらりと変わった。
こんなこと言われたら、見せるしかない。より多くの人の目に触れる場所に。ぼくの若松英輔さんに対する信頼は、全財産が入った財布を預けるほどに高い。
といっても、自分で書いた文章を見せるのは、恥ずかしい。けど、最近は、そこら辺の感覚が麻痺してきたのか、恥ずかしい気持ちもだいぶ薄れてきた。
変わりに、公開した後に、「こう書けばもっと伝わっただろうか」と後悔の念がふつふつと湧き上がる日々である。
書くことは、奥深い。これからも書き続けてみます。
Twitter:@hijikatakata21
最後まで、読んでくださってありがとうございます!