意味のないことでも書いてみる
「トマト、なんで嫌いなの?」
と、興味津々で聞かれたことがあった。
ぼくは咄嗟に「赤いから」と答えた。
なんでそんな風に答えたかわからない。なぜなら、ぼくがトマトを嫌いな理由は、「赤いから」ではないからだ。やはり、味と食感。
むしろ赤は好きな色で、ぼくが愛してやまないカープは、赤を基調にした球団だし、スラムダンクの湘北高校だって赤だし、ガーナのチョコレートのパッケージも赤だし、ほかにもいろいろありそうだが、とにかく嫌いな色ではない。
普通に答えちゃ話が途切れてしまう、そんな危惧があったのかもしれない。ぼくの「赤いから」という答えを受け取った同級生は、真に受けたのかどうかわからないが、その思わぬ回答に興味を持ってしまい、矢継ぎ早に聞いてくる。
「じゃあ、イチゴは?」「じゃあ、リンゴは?」
どれも好きである。ぼくは内心まいったなと、ため息をついた。なんだか撤回する空気でもなくなってしまい、それから、給食でトマトがでるたびに、赤いから嫌いなんだよねと念押しされ、その都度、ぼくは苦笑いを返した。自分が蒔いた種だからしょうがないが・・・。
その小ブームは、まもなく鎮火した。中学生のころの飽きっぽさは尋常ではない。すぐに違う話題にとって代わられる。ブームというのは、始まりがあれば終わりもある。
しょうもない嘘をついて、それを取り繕うのって、本当に大変だなと身をもって感じたぼくは、それからなるべくたいした答えじゃなくても、正直に言おうと胸に誓った。
ぼくは、子どものころ好き嫌いがかなり多かった。
オムライスが出てきたら、チキンライスに入っている玉ねぎとグリーンピースをひとかけらも残さず、ご飯のなかから取り出したり、ハンバーガーを食べるときは、ピクルスと玉ねぎのみじん切りもきれいに取り除いてから食べていたりと、かなりの偏食家っぷりを発揮していていた。
徹底して、嫌いな食べ物は食べないというエピソードは、探れば山のように出てくる。
しかし、偏食も始まりがあれば終わりもある(ぼくの場合)。その当時食べられなかったものは、ほとんど食べられるようになった。
野菜をほとんど食べなかったぼくだが、いまや野菜ファーストである。積極的に食物繊維をむしゃむしゃと食している。
人は変わるものである。
けれど、トマトだけはいまだに苦手だ。ピザとか、トマトスパゲッティなど、火を通したという条件下のもとでなら食べられる。
しかし、生のトマトだけはどうしても無理だ。もちろん「赤いから」という理由ではない。
なんだか本当に意味のない、他人にとってどうでもいいことを書いてしまったのだけど、ひとつだけ言えるのは、この文章は間違いなく、ぼくの見たことや記憶、感じたことを書いているということだ。
他の人には書けない。スケールはかなり小さいが。
若松英輔さんもこう言っている。
その言葉を書くことで、世に生みだすことができるのは自分自身だけなのである。(『悲しみの秘義』)
とりあえず意味があろうがなかろうが、書いてみる。意味を見出すのは、読んでくれた人であって、それを書けるのは自分しかいないのだ。そうやって肩肘張らないで、これからもやっていけたらいいなと思う。
ちなみにこのnoteに書いてあることは、
「ねぇねぇ、こんなことがあったんだよ。聞いて聞いて」と、5歳児が母親の服の袖を引っ張っているようなスタンスで書いているので、特に得るものはないと思われる。けど、たまに「いいこと」「ためになること」を言うかもしれない。
これからもよろしくお願いします。
Twitter:@hijikatakata21
最後まで、読んでくださってありがとうございます!