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コロナと人の品性

「ゴールデンウィーク、なんも予定ないなぁ」

とちょっといじけ気味でしたが、予定ができました。

今朝ポストにはいっていた地域の新聞をみると、JAMフェス2021の広告が一面に。これだ、と瞬間的に思った。

『野外フェスなんて、日焼けしたくないから』と友人の誘いを断った25の自分よ、30になってお前はひとりで参戦しようとしているぞ。


このご時世にも関わらず、という感覚よりも、“あんなにも興味がなかった君が”という気持ちでわたしは今己の変化に驚いている。

勿論コロナ禍なので、入場者数の制限や会場レイアウトを調整するなど工夫して開催するらしい。新聞には主催者事務局の思いが書いてあった。

「もうフェスを止めたくない。次に向かう何かを創らなければならないという強い思いから」

ちなみにこのフェス二年ぶりになるとのこと。
アーティストの人たちも、彼らのたぶん一番の元気の源とやりがいであるライブやコンサートが出来なくてフラストレーション溜まりまくってるだろうから、このフェスは彼らにとっても楽しみで仕方ないんだろうなぁ、と推測する。

世界から選手をまねくオリンピックでさえも開催しようとしてるわけだし、フェスは屋外だし、どうかバッシングうけないでくれと勝手ながら思っている。無事開催されますように。そして勿論ここからクラスターとかコロナ感染者が発生しないようにと願う。


緊急事態宣言があけた途端人が沖縄に集中しちゃったように、押さえつけられていた衝動を発散したくなるのが人間。わたしも当然前より外出も減ったけど、やっぱりたまにははじけたい。どこか行けるのなら行きたい。

でもこの衝動は“かっとなって怒りで人を殴りたい”みたいなものよりとてもゆるやかな衝動だから、コントロールできるはず。でもそれを理性の力で押さえられないというのは、怒りの衝動とはちがうメカニズムではたらいてるのかな?

怒りの衝動をもしおさえるのなら

①『ムカつく!いらいらする!許せない!!』血は上り沸騰し続ける
②『我慢できない!殴りたい』

③『いや、ここで殴ったらさすがにまずい。人を傷つけるのはダメだ』(理性)
④なんとか押さえる(収束)

となるのだろう。ざっくり。

“コロナだけど、自粛生活飽きた!旅行行きたい!クラブ行きたい!”みたいな衝動の場合

①『はじけたいぜ〜今の生活飽きたぜ〜』
②『旅行行きたい。我慢できない!』
③『でも今コロナでみんな自粛してるし、感染者減ってないし、家にいるべきじゃないかなあ』(理性)

④『とはいえ、他の人も外出てるじゃん。っていうかなんかもうコロナって重症化する人少ないし、良くない?』

⑤確かに、ま、いいか。旅行行こう!

理性もはたらくけど、それに対して「こういう見方もあるよ」「こういう事実もあるよ」といくらでも他の見解をひっぱってこれる状態、つまり言い訳できるから理性も負けてしまうのだろうか。
怒りの衝動で、“人を傷つけるという行為がよくない”というのは道徳で習った範囲だ。
後者の場合も、自分が外出することで、間接的に誰かがコロナにかかる、もしかして死んでしまう、という結果は同じなんだけど、その確率の低さなのか“直接的に自分が関与してない”からなのか、どうもこっちについては判断がゆるゆるになってしまうらしい。


でもこういう曖昧な問題についての考え方にその人の品性があらわれるよなぁ、とわたしは気づいている。
気づいているのに、わたしは品良くなれていないのだ。


そう考えるとコロナは人の品性と人格をあぶりだした出来事とも言えるんだろうな。


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