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『コンビニ人間』課題本読書会・延長戦振り返り

◆はじめに

 9月11日(日)の朝に、学生時代からの知り合いと毎月行っているオンライン読書会に参加した。今回はその振り返りを書こうと思う。この日の読書会は、以前に紹介した『コンビニ人間』を課題本とする読書会の延長戦に当たるものであった。

『コンビニ人間』のあらすじは、リンクを貼った記事で書いたのでそちらに譲ることにして、ここでは延長戦の内容と、その内容を踏まえ個人的に考えたことに絞って書いていくことにしよう。

 延長戦は、一風変わった会であった。読書会というのは通常、本の感想や考察を話し合ったり、登場人物の人となりや作品のメッセージなどについてテキストを紐解くなどして考えたりするものである。ところが、9月11日の読書会では、話し合いの内容は本そのものからどんどん飛躍していき、最終的には社会政策談義のようなものになったのである。

『コンビニ人間』という小説を巡る話が、なぜ/どういう政策談義を導いたのか。その謎を解き明かすようにして読書会の内容を振り返るところから、話を始めることにしよう。

※この先、『コンビニ人間』の内容に関する記述が度々登場します。ネタバレ厳禁という方はここでそっと記事を閉じてください。

◆読書会振り返り①:白羽のような人間とどう向き合ったらいいのか?

 一風変わった読書会のきっかけは、前回チャット参加となっていたメンバーが口にした、「白羽のような人間と向き合った時、自分たちはどうしたらいいのか?」という問いだった。

 白羽というのは、『コンビニ人間』の主要人物の1人である。30代半ばの男性で、主人公・古倉恵子が勤めるコンビニにアルバイトとして入ってくるが、初日からコンビニ店員をバカにする素振りを見せる。それでいて仕事ぶりはいい加減で、勤務態度も悪い。挙句の果てに問題行動を起こし、短期間でバイトをクビになる。

 その後、家賃を滞納し身の置き所を失くした白羽は、コンビニの近くで偶然古倉と再会する。古倉に連れられるままにファミレスに入ったところで、彼は、社会が自分を苦しめる、就職しろ、就職したら嫁をもらって子孫を作れと追い立ててくると喚く。古倉はその話を聞いてから、自分も彼も普通になれるならその方が良いのではないかというように、彼に「婚姻届けを出しませんか」と持ち掛ける。古倉を「中古」「ババア」と面と向かって罵っていた白羽は、古倉の提案に対し「狂ってる」と言い放つが、古倉が帰ろうとすると「いや、でも」と優柔不断な態度を見せ始める。最終的に、「僕を世界から隠してほしい」という条件を示し、古倉の提案を受け入れる。

 古倉と同じ部屋で暮らし始めた後、白羽は仕事をすることもなく、先の言葉の通り、ひっそりと身を隠し続ける。やがて古倉は、男性と同居したというだけで周囲の人々の態度が一変したことに混乱しコンビニを辞めるが、それでも白羽は働こうとはせず、謎のバイタリティを使って古倉の仕事探しに勤しむ。

 要するに白羽は、真っ当に仕事をするだけの能力がないか、あってもそれを仕事や自活のために使おうとはしない人間であり、そんな自分を変えようとは露ほども思わず、社会や周囲の人間が自分を苦しめるとばかり言う。そのうえ周囲を見下し、暴言を吐き倒している。早い話、途轍もなく厄介なヤツだ。

 そんな厄介な人とどう向き合えばいいのか——先のメンバー発したのはそのような問いだった。この問いを発した背景には、動画サイトでしばしば見られる、奇行に走りがちな投稿者を視聴者が面白がって叩く風潮への違和感があったという。どうして茶化したり叩いたりするのだろう、そっとしておけばいいのに。先のメンバーはそう感じていた。

 しかし一方で、そういうおかしな人たちを放っておくだけでいいのかという疑問も抱いていた。彼らを放置することもなく、むろん嘲笑することもないとしたら、自分たちの取るべき態度はどのようなものになるだろう。

 『コンビニ人間』の中には、普通でない人を普通に「治す」という表現がしばしば登場する。自分たちも小説に出てくる人たちと同じように、彼らを「治す」ことになるのかもしれない。しかし、「治す」というのは、彼らを「異常」だと決めつけることと表裏一体だからだ。完全ではない人間が、別の人間を「異常」を決めつけ、おこがましくも「治す」ことなどできるのだろうか。——先の問いには、およそこのような意味が込められていた。

 だが、この問いに対し他のメンバーが返した答えは、厄介な人とのあるべき向き合い方を丁寧に模索しようとするものではなく、もっと直感的で身も蓋もないものだった。つまり、僕を含め、多くのメンバーは「白羽のような人とは関わりたくない」と言ったのである。見捨てることに対し後ろめたさがないわけではない。だが、正直な思いを吐露すれば、やはり厄介な人とは関わりたくないということになるのだった。

 それから次のような話が出た。「あいつは面倒臭い、イヤだという感情が絡むから、厄介な人を受け容れられなくなるのだ。ならば、感情を差し挟まない方法であれば、その人を受け容れることができるのではないか」

 そこで始まったのが「制度」の話だった。この国には社会福祉制度というものがあり、金銭の保障、その他様々な方法で生活をサポートする仕組みが出来上がっている。白羽のように、働くことも拒否し世界から隠れて暮らしたいという人は、こうした制度が支えるより他にない、というわけである。

 もっとも、厄介者への嫌悪感を回避するために制度を持ち出すことに、僕は違和感を覚えていた。制度は人ではないが、その制度を実際に運用しているのは人だからである。

 例えば、福祉課の窓口には担当の人がいる。その人は、僕らが嫌悪感を抱かず済ますために遠巻きにした厄介者たちの対応を引き受けている。その人も僕らと同じように、厄介者と関わりたくないと思っているにちがいない。だが、制度や仕事に拘束されるために、嫌悪感から逃れることができない。すると僕らは制度を引き合いに出して、自分たちが抱いたかもしれない嫌悪感を見ず知らずの他人になすりつけただけだということになる。それは浅ましい考えだと思ったのである。

 すると、あるメンバーがこう言った。「そうしたら、条件付きでお金を給付する仕組みを変えて、例えばベーシック・インカムみたいな形で、全ての人に一律にどんとものを渡す仕組みを導入するしかないよね」確かに、感情を差し挟むことなくあらゆる人を受け容れる仕組みを作ろうとするなら、そういう所へ行き着くのかもしれなかった。

 僕らは『コンビニ人間』に関する話を、白羽というキャラクターに注目して進めていった。「白羽のような厄介な人とどのように向き合うべきか」という問いが出された時、僕らは「関わりたいとは思わない」と答えた。それから感情を差し挟むことなく厄介な人を受け容れる方法を探る中で、制度の話が登場したのだった。

◆読書会振り返り②:白羽は物語の後どうなるのか?

 もう1つ、読書会の中で社会政策的な話が沸き起こった場面があった。この時もきっかけは白羽だった(全体的に言って、延長戦の中で僕らの関心を引いたのは、主人公の古倉ではなく、白羽の方だった)。読書会が後半に差し掛かったところで、「物語の後、白羽はどうなるのか」という問いが挙がったのである。

 物語のラストは次のような展開だ。——コンビニのアルバイトを辞めてから1ヶ月後、古倉は白羽に連れられて、彼が見つけてきた就職先の面接に向かっていた。しかし、その途中でコンビニに立ち寄った古倉は、反射的にコンビニ店員の仕事をしてしまう。その時彼女は、自分にはコンビニしかないのだと感じた。古倉の行動に気付いた白羽は慌てて彼女を店の外へ連れ出すが、古倉は自分にはこの生き方しかないのだと淡々と説明する。白羽はだんだんおぞましい生き物を見るような表情になり、「お前なんか、人間じゃない」と吐き捨てて去っていく。そして古倉は面接を断り、新しい店を探そうとするのだった。

 ラストにおける古倉の行動については、前の読書会の中で話題になった。メンバーの意見は、コンビニ店員として生きていくという選択は良いものだと思うというところで概ね一致していた。アルバイトのまま生活するのは大変だから、店のオーナーになる方法を考えた方がいいのではないかと主張するメンバーもいたが、いずれにせよ、自分が「ここだ」と思える場所で働くことを選択した古倉を悪く言う人はいなかった。古倉の物語後は、希望の持てる方へ開かれていたと言っていいだろう。

 一方、古倉と別れ、一人どこかへ歩いて行った白羽の方はどうなるのだろう。彼は仕事をしていないし、仕事をしようという意欲もない。家賃を滞納しているので家もない。身内を頼ることも、諸般の事情から叶わない。孤立したまま、この世界をふらふらと漂流し続ける白羽の姿が浮かぶ。古倉とは対照的に、白羽の物語後には暗雲が立ち込めている。

 白羽が不安定な身の上のまま、孤立を深めていったらどうなるのか。そして、彼の中にある社会への憎悪と侮蔑の感情が高まっていったらどうなるのか。——読書会メンバーは揃って1つのことを想像した。つまり、白羽が自暴自棄になって、大勢の人間を巻き込む凶悪犯罪に走るのではないかと考えたのである。悲しいことに、日本では近年、そのような想像に説得力を持たせてしまう出来事が相次いでいる——

 そこから話は、自暴自棄型の凶悪犯罪を未然に防ぐにはどうすればいいのかという方向へ進んでいった。最初のうちは、孤立を防ぐためにコミュニティがあった方がいいというよく耳にするような話だった。だが、白羽のような人間はコミュニティとつながることを拒絶するのではないかという意見が出たところから、話の方向が徐々に変わってきた。そのような人を社会の側につなぎ止めるためには、何らかの強制的な手立てを講じるしかないということになったのである。そこで出てきた具体案は、「学校のクラス・同窓会を一生もののコミュニティとして支援する、そのコミュニティに参加しない人には生活が回らなくなるほどの重い罰金を科す」というものだった。

 僕は胃がムカムカする思いだった。そこには、孤立しそうな人をそっと受け容れていこうといった発想はなかった。とにかくコミュニティを作り人を繋ぎ止める、そこから逃れようとする者には制裁を科す。それは息の詰まるような相互監視社会の構想だった。そんなものを作れば却って、腹の底に溜め込んだ我慢を爆発させて凶行に及ぶ人が何人も出てくるとしか思えない。だが、誰もそうは言わない。

 僕はだんだん怖くなって、頭に血がのぼった。そして「強制された同窓会なんてまっぴらごめんだ」と叫んだ。「罰金とられますよ」と別のメンバーが言った。「それでもいい」と僕は憤然として言った。「どこまで逃げても無駄ですよ。マイナンバーに位置情報と同窓会の出席履歴が紐づけられていますから」別のメンバーが更に畳みかけてくる。僕はヤケクソで「牢屋にでもぶち込んでくれ」と言った。僕があんまり強情なので、遂には相手の方が極端なことを言うのをやめてしまった。

 ここで急いで言わなければならないことがある。それは、僕に究極の選択を迫ってきたメンバーを含め、読書会に参加していた人の中に、強制されたコミュニティを歓迎している人はいなかったということだ。ただ、いつ自分も巻き込まれるかわからない無差別犯罪を防ぐためには、望みもしない事態を選ぶことになっても仕方がないと割り切っていたに過ぎない。その意味で言えば、僕だけがわがままだった。

 しかし、たとえわがままだったとしても、僕は自分の抵抗を間違いだとは思わない。凶悪犯罪を阻止する手立ては、強制的なコミュニティへの囲い込みなどではないはずだと思う。ではどうすればいいのか、それは全く分からない。ただ、違うものは違うと思う。その感覚を出発点にしなければ、答えを見つけることなどできるはずがないのだ。それはともかく。

『コンビニ人間』という小説が終わった後、白羽はどうなるのか。それを想像するところから、自暴自棄型の凶悪犯罪を防ぐためにはどんな策を練ればよいのか考えるところへ、僕らの話は進んでいった。孤立対策でもあり治安政策でもあるようなものを、僕らは暫く議論していた。

◆考察:読書会の政策談義化は、何を意味するのか?

 ここまで、9月11日に行った『コンビニ人間』課題本読書会・延長戦の内容を振り返ってきた。実際の読書会では、ここで紹介した以外にも幾つかの話が飛び交ったが、この記事では、読書会が社会政策談義に変わるという滅多に起きない出来事に的を絞って、振り返りを進めてきた。

 ここからは読書会の内容紹介を離れ、本を巡る話し合いが政策談義に変わるという一風変わった出来事は何を意味していたのかということを考えてみたい。というのも僕は、読書会がこのような経過を辿ったということこそ、『コンビニ人間』との関連においてよく考えるべきことだと感じているのである。

 僕らの話し合いが社会政策談義になった背景には、1つには、読書会メンバーの多くが経済学部や法学部などの出身で、社会科学を専門にしていたということがある。メンバーの関心は、個々の人間の行動というミクロなものよりは、それらを覆うようにしてあるマクロな現象に向きがちであった。そのため、『コンビニ人間』という作品、取り分け白羽という登場人物が抱えていた問題に対しても、白羽個人とどう向き合うかという切り口ではなく、「白羽のような人たち」とどう向き合うかという切り口から考えることになったのだと思う。

 しかし、僕が読書会を通じて感じ取っていたのは、全く別のことだった。白羽とどう向き合うかという問いに対し、社会政策や制度のレベルで答えを出そうとする時、僕を含めた読書会メンバーは、自分が直接その問題と向き合うことを避けていたのではないか。これが僕の考えだった。

 実際、話し合いが社会政策談義へ向かう大きなきっかけとなったのは、僕らが口々に「白羽のような人間とは関わりたくない」と言ったことだった。自分たちが直接関わるのはごめんだ、だから社会の仕組みというレベルで解決を図ろう。それが僕らのやったことだった。

 しかし、社会福祉政策の話の中でも触れたように、それは自分たちがやりたくないことを、制度として・仕事として引き受けざるを得ない赤の他人に押し付けることを意味していた。要するに、僕らは「誰かやってね」と言って逃げを打ったのである。

 白羽が自暴自棄型の犯罪に走るのを防ぐにはどうすればいいかという話をした時、古倉恵子が小説の中でそうしたように、白羽をファミレスに呼んで話を聞こうとする人はいなかった。白羽の暴発は、案外そんなことで防げるかもしれないのに、誰も彼と関わろうとはしなかった。そうして、コミュニティを強制的に作り逃げ出す者を厳罰に処すという、誰も望まない仕組みを考え出したのだった。

 僕は、そんな読書会メンバーと同じような人たちとどこかで出会っているような気がしていた。そう、『コンビニ人間』の中で、である。『コンビニ人間』の中で、古倉を、白羽を、「やばい奴」と見なし、距離を置き、時には軽やかに罵倒していた、大勢の「普通の人たち」。その人たちと、僕らは同じだった。違いがあるとすれば、罵倒はしなかったということくらいだろう。

 読書会の中で、誰かが言っていた。「古倉や白羽の周りにいる人たちも、2人に文句言ってるばかりで何もしないですよね。ただ圧力かけてるだけで」作中に登場する「普通の人たち」を非難するような口調だった。だが、今になって思えば、その批判はまず自分たちに向かなければならなかった。

 もちろん、この自分たちの中には僕自身が含まれている。むしろ、政策談義に積極的に参加することなく、気に入らない内容にだけは噛みつき、その癖自分の案は何1つ述べないでいた日和見主義者の僕こそ、真っ先に非難されるべきであろう。

 僕が持っている文庫版『コンビニ人間』の帯には「『普通』とは何か? を問う衝撃作」と書かれている。その言葉は、全人口の1%しか到達しえない「普通」を手にすることのできない99%の人々の、「世の中が苦しい」という感覚を掬い上げる言葉として、広く行き渡った。

 しかし、僕は今この言葉を、別の角度から捉え直さなければならないのではないかと思っている。確かに、全ての「普通」を手にできる人は1%しかいない。しかし、僕らの多くは細切れの「普通」を身に着けて、「普通」を大きく踏み外さないように生きることを選択している。そうした人たちの行動は、「普通」だから、「普通」の側に踏み留まっているからという理由だけで、受け流されていいのだろうか。

 「普通」とは何か。それは、「普通」に苦しめられながらも「普通」であろうとする我々の、自己点検のための言葉でもなければならない。それくらい、僕らは反省すべきものを背負っているのだ。

 正直に言って、今回の読書会ほど、話し合いを経て暗澹たる気持ちになったのは初めてであった。話し合いをすればするほど、自分の抱える問題が炙り出されていくような心地がした。その時に負った傷が、読書会から2週間以上経った今になっても、僕にこれだけの長文を書かせているのだと思う。

 だからと言って、読書会に出なければよかったは思わない。確かに、胸が締め付けられるような思いを味わいはした。しかしそれは、味わわないままでいるよりは、ずっと良いことだったに違いないのだ。

     ◇

 以上をもちまして、『コンビニ人間』課題本読書会・延長戦の振り返りを締めくくろうと思います。上でも触れましたが、本当に長い文章に、そして重い文章になりました。最後まで根気強く読んでくださった皆さまに、厚く感謝申し上げます。それでは。

(第86回・9月28日)

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