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『ブルシット・ジョブの謎』読書ノート・要約編 ~4月度オンライン読書会に寄せて~

 4月24日(日)、学生時代からの知り合い6人でやっているオンライン読書会に参加した。元々は都内のカフェの貸会議室などを利用して数ヶ月に1度開催されていたものであるが、1年半ほど前にオンラインで毎月行うスタイルに変わった。就職と同時に関西に帰っていた僕は、オンライン化に合わせて再び顔を出すようになり、以来毎回のように参加している。

 最近の読書会は、メンバーがそれぞれ好きな本などを自由に紹介する形式のものが続いていた。しかし今回は、テーマを決めて関連する本を読み、感想や意見などを話し合うという、読書会とテーマトークの間に近い形式の会となった。そのテーマに選ばれたのが、「ブルシット・ジョブ」である。

 ブルシット・ジョブとは、人類学者デヴィッド・グレーバーが提起した言葉で、基本的に「完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある雇用の形態」を指すものである(『ブルシット・ジョブの謎』p.50)。翻訳に当たり「クソどうでもいい仕事」という日本語が当てられており、その訳語に煽られて思わず目を留めた人も少なからずいるのではないかと思う。

 読書会でブルシット・ジョブが話題にのぼったのは、3月のことである。その日、僕が勝手に師匠と呼んでいるメンバーが、村上春樹さんの『アンダーグラウンド』という本を紹介した。この本は1995年に起きた地下鉄サリン事件を扱ったノンフィクションである。本紹介の中で、オウムに傾倒した人の中に、いわゆる高学歴層・ハイステータスの人が少なからず含まれていたことに話が及んだ。その話が僕の中で、中位以上の賃金を得ている人ほど、自分の仕事には何の意味もないと感じているというブルシット・ジョブの話と結び付いた。良い学歴・良い仕事といったものが充実感や幸福感と結び付いていないことと、破壊的な物語への傾倒とは、いかにも関係がありそうに思えたのである。

 そんなことを考えながらブルシット・ジョブに言及したところ、「ああ、それ実は私も気になってたんですよ」という声がちらほら上がった。もとより読書会のメンバーは現在全員社会人であり、仕事というものに対してそれぞれ何かしら思うところも持っている。そんなわけで、「じゃあ次回はブルシット・ジョブをテーマに、何か本を読んで話し合いましょう」ということになったのであった。

 ブルシット・ジョブを正面から取り扱った本は今のところ、グレーバーの著書『ブルシット・ジョブ』と、同書の訳者の一人である酒井隆史さんが書いた新書版の解説書『ブルシット・ジョブの謎』の2冊しかない。我々に与えられた時間や力量を考えると、後者が実質的な課題本になるだろうことはおおよそ見当がついた。果たして、今回の読書会はそのような会になった。グレーバーの著作に挑んだというメンバーも2人ほどいたのだが(!)、分量が多いうえ文章にクセがあったようで、とても読み切れなかったと言っていた。

 前置きが大変長くなってしまった。そろそろブルシット・ジョブを巡る話に移ろう。以下ではまず、『ブルシット・ジョブの謎』の要約を試み、それから、読書・読書会を通じて僕がどんなことを感じたり考えたりしたのかについて書いていこうと思う。読書会の話から入ったので、会の振り返りを期待した方もいたのではないかと思うが、今回は会の中の発言を丹念に拾うよりも、自分の感想や考えを整理した方が良いような気がするので、長い読書ノートをしたためるつもりで書いていきたい。

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 上で書いた流れの通り、まずは新書『ブルシット・ジョブの謎』の内容を要約してみようと思う。要約なんて近頃全くやっていないので、拙いものになりそうだが、お目通しいただければ幸いである。

 既に触れた通り、本書は人類学者グレーバーの著書『ブルシット・ジョブ』の内容を、翻訳者の一人である酒井隆史さんという方が解説したものである。本の主要部分は、第0~8講と「おわりに」に分かれているが、全体の大まかな内容を掴むうえでは、第0講で紹介されている、グレーバーが初めてブルシット・ジョブという論点を提示したエッセイの内容を見ておくのが良いだろう。

 現代社会では多くの人が日々あくせく働いている。しかし、その人たちが行っている仕事の多くは、穴を掘っては埋めるようなものや、誰も見ない書類を作ることといった、この世界の富の増減に何の影響も与えないようなものである。そして、働いている人たち自身、自分の仕事には何の意味もないことに薄々気付いており、世の中には、意味のない仕事をしている人たちの不満やストレスが充満している。かつて経済学者ケインズは、技術の向上と生産力の上昇に伴い、人間の労働時間は将来的にどんどん減っていくと予言した。ところが、現実はこの予言からは程遠い。

 なぜこのようなことになってしまったのだろうか。どうやらそれは、自由時間を手にした人々が勝手に振る舞うことを恐れた人々が、仕事はそれ自体尊いものだ、ややもすると楽して怠けようとするのは人間の悪徳だという考えを広め、人々を仕事に縛り付けているかららしい。かくして、無意味な仕事に就く人には社会的に高い評価が与えられ、反対に、世の中を回すのに必要な仕事をしている人は、社会的な評価を得にくいばかりか、ますます厳しい労働環境に立たされるという社会が出現しているのだ。——ブルシット・ジョブの基本的なアイデアを要約すると、このようになると思う。

 ここでまず確認しておきたいのは、ブルシット・ジョブの話というのは、無意味な仕事・必要のない仕事というものを起点にして、社会全体のあり方を批判するものだ、ということである。僕自身、この本を読むまで、ブルシット・ジョブというのは仕事の話であり、せいぜいより良い企業経営のあり方を問うものくらいなのだろうと思っていた。しかし、それは言葉のイメージに釣られた大きな誤解だった。ブルシット・ジョブの話というのは、基本的に、この社会のあり方や、そのあり方を生み出している価値観を、人類史的な視座を伴いながら問い直すものなのである。

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 本の内容をもう少し見てみよう。第1講と第2講では、ブルシット・ジョブとは何かということが、多くの具体例を踏まえながら検討されている。まず第1講では、典型的なブルシット・ジョブが、①取り巻き(誰かを偉く見せるためだけの仕事)、②脅し屋(例えば商品の効果を実際よりも強調し、人を欺き、高圧的にものを買わせる広告の作り手)、③尻ぬぐい(組織の欠陥を埋めるためだけに存在する仕事)、④書類穴埋め人(実際にはやっていないことをやっているかのように見せることが主目的であるような仕事)、⑤タスクマスター(不要な上司、あるいは不要な仕事を作り出す上司)という5つの類型に分けられ紹介されている。これらの具体例を踏まえたうえで、第2講ではブルシット・ジョブの定義が検討されている。詳しい議論の過程は本書に譲るとして、最終的に挙げられる定義だけ見ておくと、次のようなものである。

 BSJとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、被雇用者は、そうではないととりつくろわねばならないと感じている。

『ブルシット・ジョブの謎』p.66。元は原著『ブルシット・ジョブ』からの引用

 第3講では、ブルシット・ジョブが人々をいかに精神的に苦しめているのかということが論じられているが、ここはあまり深入りしないでおこう。

 続く第4講では、そもそも現代を生きる人が、無意味とわかっている仕事でもさせようとしたり、しなければならないと考えていたりする理由が検討されている。この検討の中で、ブルシット・ジョブが生まれるまでの資本主義社会の歴史が紹介されている。かいつまんで言うと、①資本主義社会の進展と共に、中心的な仕事観が「タスクがあるから仕事をする」というものから、「一定の時間仕事をする」というものに変貌する、②20世紀に入った頃から、人々は労働から解放されることよりも、より良い条件の下で働くことを求めるようになり、これと並行するようにして、雇用を生むための仕事が生み出されるようになる、③そして20世紀後半以降、雇用のための仕事が、現業部門ではなく管理部門において多く生み出されるようになったことで、ブルシット・ジョブの拡大が始まる、といった具合である。

 この辺りから、ブルシット・ジョブの議論が現代社会批判であり、現在の資本主義の流れを問い直すものであることが鮮明になってくる。現代社会批判的な議論はさらに、第5講から第6講にかけて、市場原理の導入を標榜したネオリベラリズムの下で、官僚制的な統治のあり方が、企業の内部を含めて徹底されていくという、一見逆説的な事態を論証する形でより詳しく展開されていく。ただ、ここはかなり難しい議論になっているので、今回の要約からは割愛しよう(本当はまとめる力がないだけだけど)。

 第7講では、無意味なブルシット・ジョブが社会的に高い評価を得ている一方で、世の中を回すのに本当に必要な仕事が劣悪な労働環境の下に置かれているという逆説がメインテーマになっている。ここの議論もかなりややこしいのだが、なぜこのような事態が生じているのかに対する本書の回答は、おおよそ次の2つに要約されると思う。1つは、労働はそれ自体価値あるものであるというモラルを信じ、苦痛を引き受けながら仕事をしている人々にとって、有用な労働に就いている人は嫉妬と反感の対象であるからというもの。もう1つは、価値のある労働とは何かを作り生み出すものであるという価値観が広く信奉される中で、ケア労働に十分な価値が認められないでいるからというものである。

 終盤の第8講から「おわりに」では、ここまで見てきたブルシット・ジョブ、或いは社会の歪みの克服に向けて話が展開していく。第8講ではグレーバー自身のアイデアが紹介されている。具体的に言えば、ベーシック・インカムを導入することで、人々は働かなければ賃金を得られない状況から、そして意味のない仕事から解放され、必要な仕事や己の望む活動に集中できるようになるという話である。ベーシック・インカムに対しては、所得保障を行えば、人々は何もせず怠けるばかりになるという批判がすぐに寄せられるが、グレーバーはこの批判を、人間は基本的に貪欲で怠惰だとする誤った人間観に基づくものだとして斥けている。人間は、相互扶助的なモラルの原理に基づいて、能力や必要に応じて活動しようとするものだから、ひたすら怠惰になることはないというわけだ。

 もっとも、グレーバーにはこうした具体的なアイデアを示す意図はなかったらしい。本書によれば、彼が言いたかったのは、現在の社会のあり方が唯一絶対のものではないということ、そして、異なる社会のあり方を想像しようということだったようだ。「おわりに」の副題「わたしたちには『想像力』がある」は、このメッセージを端的に示すものと言えるだろう。

 最後の部分から見えてくるのは、ブルシット・ジョブの議論の核心は、我々を挑発することにあるということである。つまり、多くの人にとって身近な仕事というテーマを取り上げて、「今の状況は、世の中は、何かおかしいと思わないか?」と問い掛けることこそが、グレーバーの狙いだったということだ。

 途中でも触れたように、ブルシット・ジョブの議論はかなり広い範囲に及んでいる。それぞれの箇所で触れられている内容は、必ずしもつながりやまとまりをもつものではない。読書会の中でも、「ブルシット・ジョブの議論は幅が広すぎて難しい」とか「内容がトッ散らかっていて話がしづらい」といった声が挙がっていた。確かにそうだと思う。しかし、話をまとめればそれでいいということではないだろうとも思う。本当に重要なポイントは、「今の状況は、世の中は、何かおかしいと思わないか?」というグレーバーの挑発に、乗るか、乗らないか、その1点に尽きるのではなかろうか。要約の最後に、そう書き留めておきたい。
 
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 さて、ある程度予想していたことだが、本の要約だけでかなり長い文章になってしまった。ひとまずここで一度記事を区切ることにしよう。この本を読みながら、そして、読書会に参加しながら、僕はどんなことを感じ、考えていたのかという、読書ノートの本丸部分は、次の記事でしっかり書こうと思う。よければ引き続きお付き合いください。

(第40回 4月26日)

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