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電話で本を語らう話~ふたつの『四畳半』編~

 少し前の話になるが——8月の下旬に、かねてから電話で本の話をしてきた友人と、また電話で読書会を行った。この日の課題本は、僕らが共に好きな作家・森見登美彦さんの小説『四畳半タイムマシンブルース』であった。

 『四畳半タイムマシンブルース』については、これまで何度か触れたことがあるが、改めてざっと内容を紹介しておこう。

 主人公は、京都に住む大学3回生の「私」。稀に見るオンボロアパート・下鴨幽水荘に唯一存在するクーラー付きの四畳半が、彼の住まいだ。ところが、夏も盛りの8月11日、悪友・小津の悪ふざけによりクーラーのリモコンが壊れ、真夏のオアシスは失われてしまった。

 翌8月12日。炎熱地獄に喘ぐ「私」と仲間たちの前に、畳にメーターが取り付けられた奇妙な機械が出現する。それはタイムマシンであった。このタイムマシンを使って昨日に帰り、壊れる前のリモコンを取ってくれば、クーラーが復活するのではないか。「私」の発案により、仲間たちはタイムマシンで昨日に向かう。

 だが、仲間の一部が気付く。壊れる前のリモコンを取ってきたら、リモコンは壊れないことになる。過去が変わってしまった時、今ここにいる自分たちは、この世界はどうなるのか。消滅してしまうのではないか、と。

 昨日という1日を変えてしまわないよう、「私」は慎重に行動するよう心掛ける。ところが、他の仲間たちは全くの曲者揃い。掴み所なく気ままに振舞う隣人・樋口氏。どこへ行っても好き放題動き回る自由人・羽貫さん。そして、徹頭徹尾「私」を困らせる悪友・小津。宇宙消滅の危機を意にも解さず勝手な行動を繰り返す彼らに、「私」は振り回されることになる。彼らの行く先に待つのは、未だ見ぬ明日か、それとも——

 そしてもう1つ。「私」は下鴨幽水荘の隣人・樋口氏のもとを度々訪れる怜悧な後輩・明石さんに淡い恋心を寄せている。8月11日も、12日も、タイムマシン騒動の渦中も、「私」は明石さんと行動を共にしているが、いつまで経っても声を掛けることができない。宇宙消滅のタイムリミットが迫る中、「私」の恋はどういう結末を迎えるのか——

 以上が『四畳半タイムマシンブルース』のあらすじである。華のキャンパスライフを遠くに見る腐れ大学生たちのドタバタ群像劇という、森見作品の王道ともいうべき作品である。ただ、他の腐れ大学生もの——『夜は短し歩けよ乙女』『新釈走れメロス』、そして、本作の前身にあたる『四畳半神話大系』などに比べて、SF要素が強いのが、本作の大きな特徴と言える。時間とは何か、時の流れに縛られる人間にとって自由とは何なのかという哲学的なテーマも見え隠れしており、意外な深みを見出すこともできる。もっとも、基本的にはコメディタッチの作品なので、肩肘張らずに読むのが一番だろうと、僕は思う。

 では、この作品を巡って、僕と友人はどんな話をしたのか。そろそろ読書会の方に話を移していこう。

     ◇

 『四畳半タイムマシンブルース』を課題本に推したのは僕だった。初めて読んだ時「本当に面白い」と感じたので、森見登美彦ファンである友人には是非とも早く読んで欲しいという思いがあった。果たして、友人も本作はずっと気になっていたらしく、話はあっさりまとまった。

 当初、読書会は8月12日(土)の予定だった。あらすじで書いた通り、8月12日はまさに、作中の「私」たちがタイムトラベルに出掛ける日である。その当日に、この本の読書会ができたら面白い。そんな思いがあった。ところが、友人はその前後とても忙しかったらしくて本が読めておらず、そして僕は間抜けにも、家族旅行に出発する際本を家に置き忘れてしまった。そのため読書会は数日延期となり、本作とは縁もゆかりもない、強いて言えば炎熱地獄の名残だけが感じられる8月下旬の宵に開催された。

 本の感想を語り始めた時、友人の口から出たのは意外な一言だった。

「そこまでハマらなかったんだよね」

 僕が言葉を返せずにいると、友人は続けてこう言った。

「もっとファンタジーな感じの作品の方が好きなんだと思う。これは完全にSFだった」

 そこまで聞いて、僕は「ああ、なるほど」と腑に落ちた。

 友人は〈日常の延長上にあるファンタジー〉をこよなく愛する人である。『夜は短し歩けよ乙女』や『新釈走れメロス』には、このファンタジーの香りが漂っている。しかし、『四畳半タイムマシンブルース』は、本当にすっかりSFである。

 日常を超えていくというところで、ファンタジーとSFには共通点が見られる。しかし、ファンタジーが不思議なものを不思議なもののままに扱うのに対し、SFはロジカルである。似た要素はあっても、読み心地は異なる。ふんわりとした不思議さに出会えなかったことに、友人は「コレジャナイ」感を覚えたのかもしれない。

 僕は森見作品において、ファンタジー要素よりも、腐れ大学生ものの哀愁やドタバタ感に面白みを見出している。だから、『四畳半タイムマシンブルース』は大好物だった。むしろ、ちゃんとSFしている森見作品というのが新鮮で面白いとさえ思っていた。そんな僕の「好き」を熱弁する形で、本作を課題本に推したわけである。

 だが、僕と友人の好みは違った。いや、そろそろこう言うべきであろう。幾度も読書会を繰り返し、お互いの本の読み方や好みの違いを味わってきたにもかかわらず、いまだに己の好みだけで「これは面白い、友人もそう思うはずだ!」と早とちりしてしまう僕は、手の施しようのない阿呆であると。

 何はともあれ、僕は友人からの意外な感想に戸惑いつつ、「そういえばそうか」と思い、改めて互いの好みの違いを思い知った。

 もっとも幸いなことに、友人は自らの好き嫌いと作品の良し悪しを切り分けて考えることのできる人である。話が進む中で、友人は「作品としては、めっちゃよくできてて面白かった」と言った。大勢の人が縦横無尽に駆け回る群像劇の面白さがよく出ているし、伏線をしっかり張って、ちゃんと回収していくところも読んでいて楽しかったと。その一言が聞けて、僕はとても嬉しかった。

     ◇

 ところで、読書会の延期が決まったところで、友人は『四畳半タイムマシンブルース』を読むだけでなく、前身に当たる『四畳半神話大系』を読み直すと宣言した。忙しくて本が読めないと言っていたのがウソのような気合いの入りようである。

 ここで暇人たる自分が歩調を合わせないのは如何なものか。そう考えた僕もまた、『四畳半神話大系』を読み直した。実に6年ぶりのことである。

 このような経緯から、読書会の中では、『四畳半神話大系』と『四畳半タイムマシンブルース』を比較するような話も出た。

 『四畳半神話大系』は2005年に発表された小説で、京都の四畳半アパート・下鴨幽水荘に住む大学3回生の「私」が、華のキャンパスライフに憧れながら、それを遠く眺めるような位置で燻ぶった学生生活を送る様子を、ヘンテコで滑稽な道具立てで描いた作品である。悪友の小津、後輩の明石さん、奇妙な隣人の樋口氏、樋口氏の友人である羽貫さんなど、『四畳半タイムマシンブルース』にも登場するキャラクターが初めて登場した作品でもある。

 少しネタバレをしてしまうと、『四畳半神話大系』は全体が4章構成になっており、それぞれの話において新入生の「私」が異なるサークルに入部した場合のストーリーが展開する〈並行世界もの〉である。夢に見た学生生活とは程遠い状況にある「私」は、そのことに常に不満を抱いている。それ故「もし入学したてのあの日、違う人生を選んでいたら」という妄想に駆られている。その妄想が実現したらどうなるのかを描いてみせたのが、『四畳半神話大系』という作品だと言ってもいい。では実際どうなるのかという点については、同書に譲ることにしよう。

 久しぶりに『四畳半神話大系』を読み、続けて『四畳半タイムマシンブルース』を読んでみると、合わせて読むことで面白さが増すということがよくわかった。もちろん、『四畳半タイムマシンブルース』は独立した一個の作品なので、単体で読んでも内容がわかるようにはなっている。だが、それぞれのキャラクターの特徴や関係性をより深く味わおうと思ったら、2作とも読んだ方がよい。また、ちょっとした場面で両者に共通する要素が登場することも、合わせて読むとわかる。「これ『神話大系』に出てきたアレだ!」という気付きを楽しむなら、2作合わせて読むのが良いのは間違いない。

 一方で、『四畳半神話大系』と『四畳半タイムマシンブルース』を比べると、後者の方が作品として面白いとも思った。『四畳半神話大系』は、今回読んでみてどうもピンと来なかったのである。理由は2つある。ひとつは文章のクセが強く、回りくどいと感じられたこと。もうひとつは「私」と小津以外のキャラクター出番が少なかったことである。もちろん、文章の回りくどさは語り手たる「私」の性格のややこしさを、キャラクターの出番の少なさは「私」の自意識の強さや周りを見渡す余裕のなさを、それぞれ表すものだと解釈することはできる。とはいえ、一読者としては、それらの要素に読み辛さや物足りなさを覚えてしまうのだった。

 そんな感想を抱きつつ、僕は読書会に臨んだ。

     ◇

 『四畳半神話大系』の話になってまずわかったのは、友人もまた同作に物足りなさを覚えたらしいということであった。友人が強調したのは、「私」と小津以外のキャラクターの出番が少なく、キャラクターの特徴も掴みにくいということだった。

「改めて読んでみてわかったんだけど、私は群像劇が好きなんだと思う。色んなキャラクターが関係し合って物語が動いていくのが。でも『神話大系』って『私』の一人語りが多かったり、絡み合わないキャラクターがいたりして、群像劇って感じじゃないんだよね。それが個人的には合ってなかったんだと思う」

 僕は「なるほど」と相槌を打ちながら、キャラクターの出番の少なさについて、ひとつ印象に残ったことを打ち明けた。

「『神話大系』読み返してびっくりしたんだけど、明石さんあんまり出てこないよね」

「そう、全然出てこないよね」

 利発でクールで段取り上手、それなのに弱点の蛾を前にするとマンガのように慌てるというギャップまで兼ね備えた明石さんは、森見作品の中でも人気の高いヒロインの1人である。そんな明石さんのデビュー作が『四畳半神話大系』なのだが、読み返して驚いたことに、明石さんの出番はとても少ない。「私」との絡みとなるとさらに少ない。

「樋口氏や羽貫さんの方がキャラとして目立ってるくらいじゃない?」友人が言った。

「確かにそうだわ」僕も頷く。

 そこから話は『四畳半タイムマシンブルース』の方に移った。

「『タイムマシンブルース』は群像劇として完成されてるじゃん。そこは良かったと思う」

 友人は言った。それから「明石さんがちゃんとヒロインしてるのもね」と付け加えた。『四畳半神話大系』で存在感を放った他のキャラクターが弱まったのは、寂しいことではあった。けれど、全体のバランスとしては『四畳半タイムマシンブルース』の方がしっくりくる。そんな評価だった。

     ◇

 そこまで話した後、友人はひとつ、僕はあまり気に留めていなかった部分について話し始めた。

「『タイムマシンブルース』読んでて、華やかな青春を割と肯定的に書いてるって思って。それが今までの森見さんの作品とは違ってて新鮮だった」

 仲間と共にタイムトラベルし、仲間と共に宇宙消滅の危機を克服しようと奔走する。互いに足を引っ張ることもあるけれど、それでも、何人かが合わさってひとつの行動を取っている。『四畳半タイムマシンブルース』は、そんなわちゃわちゃした青春を描いた作品とも言える。

 確かにそれは、『四畳半神話大系』には見られない特徴だった。「私」にまとわりつくのは小津ばかり。それ以外の人たちはどこかふわふわした存在で、互いに絡み合うことも少ない。そこには、「私」対「私」を翻弄する人たちという、一対多の構図が垣間見える。思えば、森見さんの腐れ大学生ものは、この構図で描かれることが多い。

 『四畳半タイムマシンブルース』はそういう作品ではない。確かに「私」は、小津や樋口氏や羽貫さんといった曲者たちに振り回され、始終仏頂面を浮かべている。しかし、本作においては、曲者たちもまた同じタイムトラベラーであり、同じ夏を過ごした仲間であるという印象が強い。

「『神話大系』の頃だと、仲間たちとの楽しいキャンパスライフなんて許せないみたいな、憎しみとか嫉妬を感じるんだよね。それが『タイムマシンブルース』だと、そういう青春を純粋に肯定するように書いてて、そこは大きく変わったんだなあと思った」

 友人の言葉を聞いて、僕は「なるほど」と頷いた。それからふと考えた。

 きっとそれは、青春との距離感のなせる業なのだろうと。

 『四畳半神話大系』と『四畳半タイムマシンブルース』とは、発表時期が15年ほどずれている。その間に森見さんの中で、学生生活は身近でリアルなものから、彼方へ流れ去った思い出へと変わっていったはずである。思い出は往々にして美しくなる。イヤだイヤだと思っていたものに対して、そこまで言うほどでもないなという感情が湧いてくる。そのことが、2つの『四畳半』の違いを生んだのだろう。

 そして、同じことは読み手である僕についても言える。学生時代は既に遠い昔のことである。当時の自分が味わっていたリアルは薄れ、青春は「色々あったけれど、まああれはあれで悪くなかったな」という具合に受け止めるようになっている。

 もしかしたら、そんな今の自分に刺さるのは、鬱屈した大学生の物語ではなく、どこか過去を懐かしむような雰囲気を纏った青春物語なのかもしれない。『四畳半神話大系』と『四畳半タイムマシンブルース』とを比較して、後者に軍配を上げたのは、そのためだったのだろうか。

 友人は、自らが社会人として時を重ねてきたことと、今回の読書経験とをどのように重ね合わせているのだろう。もちろん、僕と同じように受け止めているはずだなどとは言わない。機会があれば聞いてみたいと思う。

(第192回 9月2日)

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