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震災の日を前にして

 仕事帰りに近所の公園をジョギングしている途中、思いがけないものを見た。

 普段は4、5人がボール遊びをしているだけの閑散とした広場に、白いテントが幾つも立てられている。その奥を覗くと、ろうそくに灯された炎が幾本も揺らめいていた。

 その意味はすぐにわかった。立ち寄っていこうか一瞬迷ったが、運動用の薄着で寒空の下に長居する気になれず、結局そのまま走り去った。

 家に帰ってから調べてみると、やはりそれは、阪神淡路大震災の追悼の集いだった。毎年行われているもので、犠牲者の数と同じ6千本以上のろうそくを、震災発生時刻である午前5時46分まで夜通し灯すのだという。僕が走っていた時には暗くて読めなくなっていたが、公園のフェンスには追悼の集いの案内が出ていたようだ。

 1月17日が阪神淡路大震災の日であることを忘れたことはない。だが、早朝の発生時刻に合わせて何かをやったことはなく、基本的に毎年寝たまま迎えている。「その時刻を寝て迎えられた今日に感謝しよう」と思った年もあったが、いかにも取って付けた屁理屈のような感じがしてすぐにやめた。以来、震災の日は、〈その日である〉ということを意識する以外、特に何もしていない。

 震災の日を忘れたことはないと言ったが、僕にとってそれは「知識として知ったことを記憶に留めている」という意味である。当時2歳にもなっていなかった僕に、震災の直接の記憶はない。そもそも、ずっと寝ていたらしいから、記憶しうるものもなかったのだろう。

 大きくなってから聞いたところによると、棚が音を立て食器が割れるほどの揺れの中で、クークー眠っていた僕を、父が覆いかぶさってずっと守ってくれていたそうだ。年を経るにつれて、僕はその時の、見たこともない父の背中の大きさを感じるようになった。いつか結婚して、子どもができたとして、僕は同じことをできるだろうか。

 ともあれ、僕は阪神淡路大震災を一応経験しているが、それでいて経験者ではないようなものだ。震災のことは、生々しい記憶としてではなく、単なる知識として頭に入れたに過ぎない。それが後ろめたいのだろうか、僕は未だに、29年前の震災をどう引き受ければいいのかわからないままでいる。無視できないことは言うまでもない。しかし、そうだとして、どんな立場でどう関わればいいのだろう。

 そんなことを考えているうちに、夜はますます更けていく。

 結局、夜が明けたら、当時の苦難に、そして先日起きた能登半島地震で被災した方々に思いを馳せながら、しばらくの間静かに祈ることにしようと思った。難しく考えたところで、僕にできることはそれくらいしかないのだから。

(第207回 1月16日)

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