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「邪馬台国」とはそういうものであった

一般に言われるような「魏志倭人伝」という書物はない。それをあたかもそのような書物があるように言うのは、そもそも歴史を語るうえで不自然である。そこにすでに謎がある。


 中国の史書「三国志」の「魏書」の記載には、次のように書かれているという。「(帯方)郡からの使者は港に着くと調べられ、文書と贈り物だけが女王のもとに送られる。ごまかしは許されない。」


 これは、女王が魏の使者には会わないとこを指すだけではなく、女王のいるところに行くことさえ許していなかったことを指す。つまり、魏の使者は港のある伊都国の一大卒にしか会えないのであった。


 そのため魏の帯方郡から邪馬台国までの道のりは、実際に使者が行った道のりではなく、倭人ないし邪馬台国の者から伝聞したことであった。さらにその伝聞を寄せ集めたものを陳寿が「魏書」の「倭人の条」にまとめたのであった。


 一方、古事記の編集者である藤原史(ふじわらのふひと)は、この「魏書」の内容を知っていたという。そして、わざと違うことを古事記に書かせたという。半分以上真実でない書物は偽書と呼ばれる。古事記はその点で間違いなく偽書であった。それは当時の「日本」が「邪馬台国」ではなく、別の国であるかのように思わせるひつようがあった。そうでなければ、自分たちに都合の悪い歴史が天皇にも他の豪族にも知られてしまうからである。そのことには他の豪族も気づいてはいた。本来、藤原氏よりも地位が高く、古くから祭祀を司っていた忌部氏は「古語拾遺」をつくった。藤原氏もおおっぴらに本当の歴史を偽っては嘘を書けないので神話にして、面白く書いたという。


 斉木雲州は、本当の邪馬台国は卑弥呼が女王ではなかったという。確かに女性天皇は女王ともいえるが、日本人ならお分かりのように、女帝はつなぎの天皇であり、天皇の娘である未婚の女性か皇后でなければ女帝にはなれない。男性の天皇にすると問題が起こる場合に、力のあるものによる一種の妥協案的に作られた天皇である場合が多い。確かに女性天皇は祭祀王ではあったが、統治王ではなかった。古事記では事代主が祭祀王とされた。そして、統治王は別にいたという。


 斉木雲州は、邪馬台国は今の宮崎県の西都原一帯を含む「都万」にあったという。「魏書」に書かれた3世紀には、今の大分県の宇佐を中心とする「豊」と今の福岡県南部と佐賀県を中心とする「筑紫」と今の南九州の宮崎県を中心とする「都万」があった。「豊」の勢力範囲は今の福岡県北部と山口県にも及んでいた。


 そして、斉木雲州は言う。卑弥呼は本当は「都万」にいたが、魏の使者には「女王のいる都万を臨時の都として秘密にし、都は「ヤマト」にあるように見せかけていた。」と。


 いずれにしても、魏の使者は「都万」にも「ヤマト」に行ってはいなかったのであった。この「ヤマト」は「倭」なのか「大和」なのか?


 魏に本当のことを知られたくはなかった。

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