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【日本国記】 第二章 10 祇園祭3・日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい―   土方水月 


7 京都の祭りは葵祭と祇園祭    祇園祭 3


 祇園祭の主役である荒ぶる神スサノヲは牛頭天王とも呼ばれる。

 牛頭天王とは誰なのか?

 八坂神社の神であるスサノヲはもともと高天原にいた。そして伊弉諾から海を治めるように指示された。しかし、母伊弉冉に会いたいと泣いてばかりいて、さらには乱暴狼藉をするので高天原から追放されて地上(日本列島)に降り立った。その地上とは出雲の肥河の上、鳥髪というところであった。つまり、海を治めていたのは高天原にいたときであり、出雲に来る前であった。そう考えれば、南海を旅し、蘇民将来に出会うのは高天原にいたときと考えるのがふつうである。もし、出雲に降り立って後の話であれば、出雲から南海に出かけたことになる。実際、スサノヲは出雲から九州には言ったことが在ることにはなっているが、九州を南海というには無理がある。また蘇民将来という名も九州の名ではないし、日本の名ではないと思われる。結局のところ高天原にいたときかそれより前の時期にスサノヲは南海に行ったことがあるということになる。
 

 つまり、スサノヲの出自は南海にあるということである。

 スサノヲを出雲の人々の祖と考えれば、そのルーツはインドであるといわれ、インドのドラヴィダ語族であったという。出雲族の先祖であったクナト王が率いる集団はゴビ砂漠からバイカル湖を通りシベリアを通りアムール川を下り北海道沿岸から津軽半島にたどり着き、青森の三内丸山にしばらくいたといわれる。そして、寒冷化により南下し今の出雲にたどり着いて定住したといわれる。そのため、出雲の言葉が元になっている日本語はインドのドラヴィダ語の一種であるタミル語と似たものが多いといわれる。金属のことをカネと呼んだり、猛烈な火をタタラと呼ぶという。また象のような鼻の高いものをサルタというらしい。猿田彦は鼻高彦とも呼ばれる。また、蘇民将来のような人名やユダヤの過ぎ越しの祭に似たことから考えれば、高天原の前には中東にいたのかもしれない。そこでまず言えることは、スサノヲも出雲のスサノヲと出雲に来る前のスサノヲの祖先であるインドまたは中東のスサノヲの二通りのスサノヲがいるということである。

 出雲族の伝承ではその祖先はインドのクナト王国であったという。そして祇園祭の元はユダヤの過ぎ越しの祭であったのならユダヤ系秦氏の祖先にまつわる伝承に由来するものである可能性が出てくる。クナト王国の民が日本列島に到達したのは紀元前8世紀ほどといわれる。また秦氏がやってきたのは紀元後3世紀である。また別の話ではあるが徐福がやってきたのが紀元前3世紀であるから、弥生時代の初めがいつであったのかに2通りの説があるのもうなずける。

 その徐福もユダヤ系ではないかともいわれており、徐福の末裔と秦氏の末裔が出会った紀元後三世紀の話と、ニギハヤヒの末裔である物部氏とニニギの末裔が出会った話とはオーバーラップする。古事記にあるようにアメノハバヤとカチユキを見せあったことによりお互いのルーツが同じであったことを確認する話はユダヤの失われた10氏族の末裔が出会った話のようにも見える。

 祇園祭のスサノヲはインドのドラヴィダ族であるクナト族とは趣が少し異なる。インド由来というよりも中東の過ぎ越しの祭の方が祇園祭の源流である可能性が高いように思われる。そしてその由緒はユダヤのバビロン捕囚に由来するようである。

 バビロンに捕囚されていたユダヤ人を解放したのはペルシャのキュロス大王であったといわれる。紀元前559に当時は小国のペルシャ王に即位した彼は、紀元前540年にはスサを陥落させエラムを征服し、さらに紀元前539年には新バビロニア王国を倒し、捕囚されていた諸国民を解放したといわれる。そして彼は牛の角をつけた兜をかぶっていたといわれる。

 彼は“牛頭天王”であった。そして“スサの王”でもあった。

 彼はインド以東エジプト以西の広大な領土を誇ったアケメネス朝ペルシャのキュロス大王であり、秦氏の祖先でもある捕囚されていたユダヤ人を解放した“スサの王”ではあったが、荒ぶる神スサノヲではなかった。

 
 つづく


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