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「香具山(火グ山)」と「鹿児島(火グ島)」  土方水月


 「アメノカグヤマ」と「カゴシマ」 1      ひじかたすいげつ

 アメノカグヤマとは漢字で書けば天香具山か天香久山となるが、もとはアメノカゴヤマであり、天香山であり天歌語山であった。

 香具山は大和三山の一つ。奈良県橿原市にある畝傍山、耳成山、香具山をそう呼ぶ。万葉集にはつぎのように読まれた。

 「香具山は 畝傍を愛しと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」

 「天香具山神社と国常立神社がある香具山は耳成山と畝傍山を奪い合った。それは神代の時代からでそうであったらしい。昔も今もそのように妻を奪い合うらしい。」という意味である。

 なぜこんな歌を中大兄皇子は詠ったのか?

 中大兄皇子は後の天智天皇になる人物であるが、なぜかなかなか天皇に即位できなかった。その理由は彼の妹である間人皇女(はしひとのひめみこ)にあるといわれる。彼女は舒明天皇と宝皇女の娘であった。同母兄が中大兄皇子であった。母である宝皇女は後に皇極・斉明天皇となる。

 645年乙巳の変が起こり、皇極天皇は軽皇子であった孝徳天皇に譲位した。それにより孝徳天皇は大化の年号を立て大化改新を行った。孝徳天皇は皇極天皇の同母弟であり、中大兄皇子から見れば叔父であった。そして孝徳天皇の皇后は中大兄皇子の妹である間人皇女であった。

 にもかかわらず、中大兄皇子は妹であった間人皇女を愛していた。そして間人皇女も兄である中大兄皇子を慕っていたといわれる。孝徳天皇は651年に都を難波の長柄豊碕に遷都したが、653年には間人皇后は夫である孝徳天皇を都に残し、兄である中大兄皇子とともに大和に去っていったという。孝徳天皇は翌年失意のうちに没したといわれる。

 中大兄皇子と間人皇后は同母兄妹であった。そのため婚姻を結べなかったといわれる。同母妹を皇后にすることができなかった中大兄皇子は、そういう理由で天皇になれなかったといわれる。そのため再度母である斉明天皇即位となった。そうして、663年の白村江の敗戦後、667年に近江大津宮に遷都し、668年に即位した。やっと天皇になることができたのは665年に間人皇后(孝徳天皇の皇后)が亡くなったからであるといわれる。

 天智天皇のこの歌は、中大兄皇子(香具山)であったときに、叔父である孝徳天皇(耳成山)と間人皇后(畝傍山)を奪い合ったことを詠んでいたのであった。

 つづく

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