卑弥呼の東征 3 土方水月
第三話 二度目の"神武東征”
神武東征は、神武天皇による東征ではなかった。アメノムラクモの父であるイソタケが東征し、丹波に移った。そしてその子アメノムラクモは南下し、邪馬臺に移った。
しかしそれは天孫族ではあったが、出雲族としてであった。東出雲王家である富家の分家としての登美家とアメノムラクモの一族磯城家であった。磯城家は出雲族の血が濃く、出雲族の分家と言ってもよい。母は東出雲王家の富之八重波津身の姫・タタライスズヒメであった。彼女の父は富家の当主であり、出雲王家の第八代副王・少名彦であった。事代主の名でもよく知られる。七福神の恵比寿さんとしてもよく知られる。その娘である蹈鞴五十鈴姫とアメノホアカリの子であるアメノカゴヤマとの間に生まれた王子であった。
第八代少名彦・八重波津身(事代主) アメノホアカリ
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蹈鞴五十鈴姫 = アメノカゴヤマ
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神武天皇(アメノムラクモ)
つまり、神武天皇は出雲族と天孫族との融合の証でもある大王であった。その後、大王の証は出雲族の天村雲之剣と天孫族の八咫鏡の継承がそれとなった。
しかし、彼による神武東征はなかったといわれる。彼の子孫であるその後の八代は欠史八代ともいわれるが、第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までは畿内にはじめからいたのであった。一般にはアメノホアカリの後裔という意味の「海部王朝」とか、出雲族の血が濃くなった「磯城王朝」とか、その後の物部ウマシマジの東征後の物部支配下の「物部王朝」とかと呼ばれるが、すべて神武天皇の後裔であり、男系が続いていた。
ちなみに、出雲は東西王家による主王副王制で年長者が大名持、年少者が少名彦と呼ばれていた。一般には末子相続ともいわれるが、実際にはこの二王制のシステムがそう理解されていたからかもしれない。
とくに、第八代大名持は菅之八千矛であり、大国主と呼ばれた。その時の少名彦が富之八重波津身である事代主であった。大国主の娘である高照姫を娶ったアメノホアカリは後に〝大国主”を名乗った。そのため後の歴史が混乱したのである。アメノホアカリである荒ぶる神であるスサノヲは、後に良い人である大国主となった。そして元の大国主をスサノヲと呼んだ。ここでも名を交換したのであった。
それらの歴史の流れの中で、九州から〝東征”したのはウマシマジが初めてであった。ウマシマジは彦五瀬とともに九州から四国の伊予・土佐・阿波沿岸を東征した。このルートには敵がおらず、難なく淡路に至った。しかし、そこからが難関であった。第八代孝元天皇の王子大彦が立ちはだかり、五瀬は紀伊で亡くなり、ウマシマジは紀半島を南下せざるを得なかった。しかしその後、そのころ和泉にいた太田タネヒコの支援により熊野を通りにひそかに邪馬臺に至ることができたといわれる。このときの支援を「八咫烏の導き」ともいう。また、古事記のなかでは伊勢津彦・五十鈴彦でもある岐の神サルタヒコの先導ともされた。
サルタヒコは鼻が高く鼻高彦とも呼ばれた。出雲では出雲族のルーツであるインドの象神ガネーシャのような鼻の高い神をサルタノカミという。そこからその名が来ているのかもしれない。サルタヒコは鼻が高く赤い顔で、道標の神である。人を導く神でもあり、五十鈴彦と呼ばれ伊勢にいた。伊勢神宮の禊の場所でもある五十鈴川は、イェルサレムと同じ風景ともいわれる。
イエスは30歳から伝道を始めたといわれる。それまで8年間どこにいたかはわからないといわれる。また、聖徳太子と後に呼ばれた厩戸皇子も593年に推古天皇の摂政になってから603年の冠位十二階の制定まで10年間どこにいたかわからないとされる。側近である葛城雄奈良と百済の調子麿と道後温泉に入ったという記録が一度あるのみであるといわれる。
そしてその後のウマシマジによる最初の〝東征”のときにはサルタヒコがいたかどうかはわからないが、「鳶」と呼ばれる太田田根彦(オオタタネコ)はいたといわれる。「鳶」は後に「金鵄」となったが、これは東出雲王家である「富家」の邪馬臺における分家「登美家」の「トミ」から「トビ」になったともいわれる。「トミ」は「トビ」となり、太陽の中にいる「金鵄」となった。ウマシマジは五瀬をなくしはしたが、〝東征”を果たした。しかし、その邪馬臺支配はうまくは行かなかったといわれる。太陽神を祀る邪馬臺族を支配することはできなかったといわれる。時の大王は第八代孝元天皇であった。第七代孝霊天皇は吉備へ、孝元天皇の皇子大彦は北陸から関東を経由し東北へ逃れたといわれる。これらが古事記による指導将軍の派遣として描かれている。
二度目の東征が九州の天孫族による本当の第一次東征であった。それはウマシマジと彦五瀬によってであった。ミケイリノとイナイはいなかった。ましてサノもいない頃であった。
ウマシマジの邪馬臺入りによって、孝霊天皇と大彦は邪馬臺を離れた。そして孝元天皇はウマシマジの支配下に大王となった。そのときヤマトトトヒモモソヒメは巫女であった。太陽神を祀る巫女であった。魏志は彼女を「卑弥呼」と書いた。
そうしているうちに、二回目の〝神武東征”が始まった。崇神・垂仁天皇と豊玉姫による〝東征”であった。この時初めて九州から瀬戸内を東征したといわれる。