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『日本国記』 限りなく真実に近いアナザーストーリー 4 八咫烏アジスキタカヒコ根命(建角身命)  土方水月

 タケツノミは賀茂御祖神社に祀られるといわれる。そして、その妹はシタテルヒメであるといわれる。しかし、帝皇日嗣にはつぎのように書かれているという。

 タケツノミ=アジスキタカヒコネ=八咫烏であると。

 そうであれば、タケツノミが迦毛大御神のはず。

 そして御祖はタケツノミの妻の父に?

 
 タケツノミの父は大国主のはず。大国主は出雲の王であった。出雲の王である大国主が迦毛大御神の御祖というのはおかしいことに。

 出雲の王は大名持である。大名持は迦毛大御神の親であって悪いわけではないが、賀茂御祖が出雲の王では少しおかしい。迦毛大御神は賀茂別雷命という。賀茂別雷命という名は「賀茂から分かれた雷」という意味である。応神天皇の名も「誉田から分かれた」という意味の品陀別命であり、元の名は「伊奢沙から分かれた」という意味の伊奢沙別命でもあった。

 これらの「別」は一般には妻の親の名からとった「○○別」である。そのため賀茂別雷命の妻が「賀茂氏の娘」であったことにはなる。古事記の話でもそうなってはいる。しかし、それならなぜに「大御神」か? の答えにはならない。

 「大御神」と名の付く神はほかには「天照大御神」しかいない。「天照大御神」としての「アマテラス」は代々いた「ヤマトの王」の称号といわれる。代々いたなかでも「天照国照彦火明櫛魂饒速日命」が最も知られている。そして彼は(つまり女性ではないが)出雲の出自でありながら「ヤマトの王」になることができたという類まれな能力と人望を持つ人であったらしい。彼の元の出雲での名をオオドシという。「大年」とも「大歳」とも書かれる。

 オオドシは一般には出雲の王であったスサノヲの三男といわれるが、出雲の伝承では「大国主」と名を交換した「ホアカリ」であった。つまり、「天照大御神」でもあった「天照国照彦火明櫛玉饒速日命」であった。彼の本名はオオドシであり、出雲の「大国主」となり、それにもかかわらず「ヤマトの王」の称号も併せ持った人物であった。


 古事記でもそれをうかがわせる記述がある。「大国主」の別名は「オオナムジ」ともいう。ヤマトが言う「オオナムジ」は「大国主」であり、建御雷命に国譲りを迫られ、それにより「オオナムジ」である「大国主」は出雲の国をヤマト側に譲ったと書かれている。

 出雲の王であった「大国主」の本名が「オオナムジ」であるなら、どこから来たかはわからない出自不明の「オオナムジ」が、出雲の王スサノヲの娘であったスセリヒメを娶り、出雲の王となり、大国主となった後には、逆にヤマトの建御雷命に降伏を迫られ、出雲をヤマトに明け渡した最後の出雲の王であるということになる。

 出自不明の「オオナムジ」が出雲王のスサノヲの娘を娶っただけで「大国主」、つまり出雲の王になったということはあり得ないはず。そこには国譲りがあり、「オオナムジ」はスサノヲから「出雲別」の称号をもらい、「出雲別」である「大国主」になったというのはおかしすぎる。

 つまり、あえてそれを認めるなら、このときに「オオナムジ」と「大国主」とが名を交換したはず。「品陀別命」と「伊奢沙別」とが名を交換し、「出雲建」や「川上建」と名を交換した「倭建」の例を見ればわかるように、これらはすべて国譲りを表す。それにより名を交換したのであった。

 出雲で国譲りを迫ったのは建御雷と布津主であったのに、出雲の王であるスサノヲが大国主でオオナムジでもあるのはあまりにも矛盾している。

 そもそも、出雲の王はスサノヲではない。アマテラスは昼間を統治し、ツクヨミは夜を支配し、スサノヲは海を支配したはず。スサノヲが支配する場所は出雲ではない。出雲の王の名はスサノヲではなく、大名持であった。そしてその国譲りがあったときの大名持が「大国主」であった。そしてその「大国主」の本名は「八千矛」であった。

 つまり、出自のわからない「オオナムジ」は出雲の王である大名持であった「大国主(八千矛)」と名を交換することにより国譲りが完了したのであった。

 後にヤマトをも支配した「オオナムジ」は出雲では「大国主」となり、ヤマトではさらに「オオドシ」になっていたのである。

 古代の神は別名が多い。そして勝った方が負けた方の国と名を奪うのであった。どこから来たともわからない「オオナムジ」は出雲の王である大名持「八千矛」と名を交換し「大国主」となり、出雲の王の三男であった「オオドシ」とも名を交換した「ホアカリ」でもあったことに。

 そして、古事記には、アメノホヒとアメノワカヒコの話がある。

 高天原から派遣されたホヒは3年、ワカヒコは8年帰らなかった。それはなぜか。

 アメノホヒは高天原から出雲に派遣され、出雲の王に仕えた。また、アメノワカヒコは出雲の王である大国主の長男であったタケツノミの妹であるシタテルヒメを娶り、出雲の人となってしまった。

 今ではホヒは神魂神社に。

 ではワカヒコは何処に?

 ワカヒコはタケツノミと瓜二つであったという。兄であるタケツノミを慕っていた御年はワカヒコを好きになったのではないかともいわれる。この話は、オオナムジを好きになったスセリヒメの話と似ている。

 ワカヒコはタケツノミつまりアジスキタカヒコネの妹シタテルヒメと結ばれた。オオナムジもオオドシの妹スセリヒメと結ばれた。それで8年帰らなかったのであった。


 そしてタケツノミとワカヒコとはなぜ同じ顔であったと古事記は書いたのか?それはこの二人は兄弟であったことを暗示している。

 ワカヒコはオオナムジであった。オオナムジはどことはわからない高天原から出雲にやって来た。そして大国主と名を交換し、オオドシとも名を交換し、出雲の王となり、ヤマトの王ともなった天照国照彦火明櫛玉饒速日命であった。そしてさらに建御雷でもあった。

 建御雷は経津主とも名を交換した。いや両方の名を使った。古事記では出雲の名である経津主という名とヤマトの名である建御雷という名を両方使った。そして、建葉槌という名も。

 オオナムジである彦火明は、大国主にもなり、天照大御神ともなったことに。そして兄弟であったタケツノミであるアジスキタカヒコネは、迦毛大御神に。


 迦毛大御神は天照大御神と兄弟であった。それで同じ顔であった。迦毛大御神である賀茂別雷命別は賀茂別ではあったが、出雲の王である大国主の長男ではなかった。タケツノミの母は宗像三女神のひとりであるタギリヒメであるといわれる。しかし、出雲の伝承ではタギツヒメとも、その娘タカテルヒメともいわれる。

 タカテルヒメの夫は「彦火明」である。彼は「大年」でもあった。彼の子は「五十猛」であった。「五十猛」は大国主をいじめた出雲の王スサノヲの八王子のひとりではなく、天照国照彦火明櫛玉饒速日命の子であった。五十猛の母はタカテルヒメであった。大年の妻は御年であったが、イノヒメもカヨヒメもいた。その大年の子供たちが八王子であった。

 大年は出雲のスサノヲであった。そして、ヤマトのアマテラスでもあった。そしてそのアマテラスの子が大国主の子でもあった。迦毛大御神であるタケツノミは五十猛と兄弟であったことに。

 賀茂別雷命の父はアマテラスであり、その妻の御祖から賀茂別と呼ばれたが、渟名帯別でもあったことに。そのため、ただ別とも呼ばれたのではないか。

 
 迦毛大御神を祀る賀茂別雷神社には、迦毛大御神と天照大御神が祀られているとも。

 アメノワカヒコは若日子とも天稚彦とも書かれる。実名ではない「若」と呼ばれた。「若」は次の主の意味であった。本当の名は「建葉槌」。アジスキタカヒコネとも呼ばれた「建角身」と兄弟であった。


 「建角身」は神武天皇を助けた八咫烏とも呼ばれた。彼は死んだあと京都最古の神である「迦毛大御神」となった。父である大年は「大物主」とも呼ばれる。今は三輪山の神に。「大神」とも呼ばれる。



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