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徳川慶喜公伝 渋沢栄一もすごいがもっとすごいのは徳川慶喜

 

徳川を終わらせた将軍徳川慶喜の伝記を書いた渋沢栄一は一介の農民出身の青年。今年の大河ドラマの主人公。
フリーメーソンかともいわれているらしいが、アジア経済人会議のメンバーがフリーメーソンらしいので、とくに驚くことでもない。
ただの経済人。今度1万円札の顔にもなる。今まであまり一般には知られてはいないが、これから注目される人物である。

「徳川慶喜公伝」を書いた渋沢栄一の自序の文章がすごい。

「24の年に埼玉県下八基村字血洗島の農家から江戸に出て、年少気鋭にまかせ、攘夷を実行しようと横浜の異人館焼打を企てたことなどもあったが、その機会も去り、我力をも省みて、その野心を棄てた上は、基本に復って農民に安ずるか、又は太閤秀吉のやうに草履取りから仕上げるかしか外に道はなかった。、、、」

彼は一橋家の家臣となり、続いて幕臣となり、慶喜公につかえたが、慶喜公弟徳川民部大輔殿の仏蘭西博覧会参列に随行し、慶応三年横浜から出立。その間に大政奉還、明治維新なる。

当初、公の意図を了解することができなかったという。

その後明治26年をすぎ、34年に名誉を回復し、時勢の変化につれ、伝記作成の機が熟し、明治40年本格的に編纂事業を開始。

当初、「世間に知れるのは好ましくない。どうぞ止めて呉れ。」と仰せられていた公も、現世にあらずして百年後にあるから何卒と言ふと、「それ程熱望ならば承諾はするが、世間に公にするは死後相当の時期に於いて。」といふ事でやっと承諾を得たと。

「弁解するだけで却って物議を増して、尚更紛糾するから、愚と言はれやうが、怯と嘲られやうが、恭順謹慎を以って一貫するより外はない。薩長から無理と仕掛けられた事ではあるが、天子を戴いて居る以上は、其無理を通させるのが臣子の分である。」と覚悟をなされたのだという事を理解したのは実に明治20年以後の事であったと。

「(公が)私を棄して、、他より毀損せられても、他より侮辱せられても、、、其心を動かす事なく、一意国家の為に身命を鄭って顧みざる偉大なる精神が即ち是である。」と。

「世人が此書によって公の事跡を善く心得て、其一身を国家の為に捧げれた精神の在る所を了解したならば此伝記が百年千年の後までも、日本の人心を針べん刺戟して国民の精神に偉大なる感化を与えるやうにならうと思ふ。」と。

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