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卑弥呼の東征 1-2  土方水月

卑弥呼はヤマトトトヒモモソヒメか?

 近年、箸墓古墳の墓誌が見つかった。それによると、198年か258年に亡くなっている。倭モモソヒメとある。倭は和であるが、九州の倭であった。倭国大乱は、ウマシマジによる一回目の東征の後であり、崇神・垂仁天皇による二回目の東征のまさにそのときであった。

 198年は魏志にいう「倭国大乱」のころ。話は合うがまだ二世紀であり、卑弥呼の時代より約半世紀古い。そしてこの時代はまだ出雲の人々がここにいたころ。ここは畿内の邪馬臺(やまと)であった。ここには最初の東征と言ってもよいかもしれない出雲族の東征があった。古志の八岐大蛇に攻められ貢物を行っていた出雲族は、スサノヲのおかげで古志を支配し、ヌナカワヒメを娶ることができた。九頭竜川の治水を行いヒスイを手に入れた。ヒスイは碧玉として東アジアで珍重された。ここでのみ得ることができるものであった。

 この東征はある意味最初の東征である。天孫族スサノヲであったアメノホアカリはその子五十猛と共に東征し、古志や摂津や邪馬臺を征服した。当時は日本海に面した古志はもともと摂津や邪馬臺よりも発展していた。大陸に近くヒスイを持っていた。

 アメノホアカリの子である五十猛は丹後の海部家となった。その子アメノムラクモは南下し邪馬臺に移った。これは最初の東征というよりも、まだ人があまりいなかった当時あった奈良湖のそばに移住したという表現が適当であった。第ゼロ次東征であった。

 日本の歴史は日本書紀や古事記からしか記録がないといわれるが、それより古い文献もある。日本書記は720年に、古事記は712年に編纂された。藤原氏によって。

 しかしそれよりも昔に編纂された歴史書はあった。藤原氏の前の時代、飛鳥時代とよく呼ばれるが、蘇我氏の時代であった。蘇我氏は「帝紀」をつくっていた。「帝皇日嗣」ともいわれる。

 そしてその前の三世紀にヤマト族が纏向にやってきた。その時にヤマトの歴史書もつくられた。また更に前には物部もやってきた。ニギハヤヒとされたり、あるいはウマシマジとも呼ばれるが、物部の歴史書もあった。

 さらにその前には、出雲の歴史書もあった。後に730年頃に編纂された「出雲の国風土記」には、記紀とは全く違う歴史がうまく差しさわりないように変えて書かれていた。実際の書は焚書されてしまったようであるが、原本が残っていた。他の風土記と違い完本が残っている。

 出雲の歴史が最も古いと考えられる。しかし今の天皇家の歴史は蘇我氏から始まるといってよい。蘇我氏は天皇家である。臣下のくせに天皇をないがしろにしたといわれるのは後の世に滅ぼされてからの事。悪いことは蘇我氏のせいにされた。

 蘇我氏は、天皇家であった。渡来系といれることが多いのは、滅ぼされた蘇我入鹿の代より前は、蝦夷、馬子、稲目、高麗、韓子、満智、石川と遡る。石川の前は“武内宿禰”であるが、本名はわからない。“武内宿禰”とは役職名のようなもので、世襲名である。その子孫は、蘇我氏以外にもたくさんいる。羽田氏、平群氏、葛城氏、巨勢氏、紀氏、若子氏などがある。高麗や韓子という朝鮮系の名がつくが、当時征服したい場所を子の名につけたといわれる。

 蘇我氏は“武内宿禰”から始まる。武内宿禰は成務天皇と双子であったといわれる。そのため天皇家と対等であった。臣下ではなかった。政體であった。そして、さらにその祖父は孝元天皇であり、ルーツは出雲である。直接の先祖はタカクラジであった。タカクラジはアメノムラクモの子であったが、紀伊に移り国造となった。出雲の国譲りのシーンではタケミカズチからアメノムラクモノツルギをもらい神武天皇に渡す役割を担った。

最も古いのは出雲

 神武天皇は初代天皇とされる。いなかったという人もいるが、神武天皇自身がいなかったわけではない。神武東征がなかった。もともといたから東征の必要はなかった。

 なぜなら、ものもと縄文時代の「日本列島」にはあまり人が住んではいなかった。当時は今よりも温暖で海岸線が多く農業には適さないが、漁業や林業は盛んであった。縄文海進と呼ばれ、今の大宰府は海で、玄界灘と有明海はつながっていた。今よりも温暖で、当時今の人が生きていたなら、“地球温暖化”で大変だといわれていたであろう。

 約5500年前の遺跡である三内丸山遺跡が青森県で見つかった。当時は狩猟時代で定住はなかったといわれていた定説が覆った。栗の大々的な栽培がおこなわれていた。その栗の巨木でビルのような大きい鍛造物が造られていたことも分かった。栗の木は固い。柱には最適であった。

 そのころ、暖かかったためもあると思われるが、もっと北にも人が多く住んでいたといわれる。今の北海道や樺太サハリンにもシベリアにも人がいた。マンモスも住んでいた。それほど暖かかった。

 そのころ、インダス川上流のインド北部で抗争があったらしい。今のパンジャーブ州あたりか?アーリア人の侵入であった。それにより、インドの先住民は東へのがれた。さらに侵入されたことにより、ガンジス川上流にも影響があった。そこにはクナト王国という国があったといわれる。インドのドラヴィダ人の国であった。出雲族はそこがルーツであるという。

 ドラヴィダ人とは、タミル語やテグル語などを含むドラヴィダ語族の言語を話す人をいう。西から侵入した人々から追われ、東へのがれた。しかし、アーリア人の侵入は3500年ほど前であった。クナト王国の人々は5500年前にはすでに日本列島に来ていたらしく時代は合わないが、その時代にも同様のことがあったとしても不思議はない。ドラヴィダ人は東や南に逃れた。南は人も敵も多かった。クナト王国の人々は北へ逃げたという。

 今のロシアのバイカル湖周辺にはブリヤート人が住んでいたといわれる。今は寒くて過酷な場所ではあるが、当時はもう少し住みやすかったのかもしれない。3万年ほど前からここには人が定住し、細石刃器を用いていた人々がいた。彼らに従いその周辺に移動したという。そしてさらに東へ進み、樺太サハリンから北海道に渡り、さらに青森に移動し、三内丸山遺跡をつくったという。


 つまり、最初の渡来人は出雲族であった。そしてその後に、最初の天孫族アメノホアカリがやって来たのであった。それはB.C.4世紀から3世紀といわれる。

 

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