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初めての韓国旅行

日本での生活の話は、また後日、ということで。
韓国留学をするに至る話から。

韓国留学を決めた理由は、韓国に興味があった訳でもなく、大きな理由はなかった。ただ、大学2年生の時に旅行した韓国旅行が忘れられず、もっと韓国に滞在してみたい、と思ったことがきっかけとなった。

大学2年の時に話から始めよう。
大学はほぼ行かず、毎日、カヌーを中心に海に行って遊んでいた。海外には興味があり、休みの度に海外旅行をしていた。
私が通っていた大学は当時、語学と一般教養は出席が必要であったが、専門は出席ではなく試験のみで卒業ができた。セメスター制ではなく、通期で単位を取得する制度であったため、期末試験のみが重要であった。ただし、このような制度のため試験が重要で、2~3割の学生は4年で卒業ができていなかったと記憶している。

私は語学は朝鮮語を取得していた。その理由は、ほかの語学に比べ単位取得が容易と入学時に先輩から聞いたため。大学は遊び目的で入学していて、勉強をする気はなかった。
そんな中で大学二年になると、朝鮮語の授業もレベルアップした。韓国語、朝鮮語に触れたことがある人は分かると思うが、文字を読むだけなら1週間あれば読める。だが、私は二年生になっても読めなかった。先生からは、このままだと単位は取れないかもしれない、と告げられる。

この宣告を受け、夏休みの旅行は韓国に決めた。当時は30日はノービザだったが、それを超えると旅行ビザの取得が必要だった。私は何日滞在するか不明だったため、旅行ビザを取得し、夏休みいっぱい韓国を回り、韓国語に触れれば、単位取得も問題ないだろう、という安易な気持ちで韓国旅行に出かけた。

韓国に対する興味は一切なく、基礎知識もなかった。昔から米国に興味があり、米国映画や欧米文化に浸透していた。申し訳ないが、どこかで韓国を含むアジアを見下していた部分もあったと思う。

初めての海外旅行は大学一年の夏休みに行った豪州(ケアンズ)。海外に子供のころから興味があったが、両親は海外とは無縁。海外旅行をする文化はなかった。大学になって自由になり、これまで興味を持っていた海外に行くようになった。ケアンズでは数週間滞在し、グレートバリアリーフでダイビングライセンスを取得。その時に、バックパッカーの人と出会い、海外旅行(バックパッカー)の存在を知る。一年の学祭時に香港とマカオ、春休みにバリ(2か月)と旅行し、二年の夏に韓国旅行という流れ。

韓国旅行は、ソウルではなく、釜山に入った。釜山から韓国を回って日本に帰国するルートを選んだ。航空券は大韓航空で、帰国日変更可能なチケット。これまでの旅行で聞いたバックパッカーを少し体験できればという淡い思いもあった。

釜山には友人4人と入国。友人は1週間の滞在で日本に帰国し、私がその後、残って韓国を回るという計画であった。
バックパッカー気分を満喫したいという思いもあり、宿は決めず、釜山入りした。

入国後、まず困ったのは、何をすれば良いか分からないこと。とりあえず釜山駅に行けば、何かあると思い、釜山駅を目指した。釜山駅に到着してから、宿を探そうとするが、どうやって探したらよいか分からない。とにかく、何も準備していなかったため、どうしたらよいか分からなかった。

釜山駅で宿を探そうにも、どうやって探せばよいか分からない。ツーリストインフォメーションも見当たらなかった。男4人が日本語でどうしたらよいか、右往左往戸惑っていると、日本語で韓国人の「おじさん」が日本語で声をかけてきた。
「何か困っていますか」と。

日本語で話しかけてくれたことに戸惑う一方、感謝しかなかった。
「何も決めず韓国に来たものの、宿もなく、どうたたらよいか、どこに行けばよいか考えています」と。

すると、おじさんは、
「私は日本語の語学院(語学学校)の院長をしています。あなたたちの旅行を手助け、しましょうか」と。

有難い申し出。我々はこれを受け入れることにした。
まずは今日、泊まる宿を紹介してほしいと伝えると、
「駅前に旅館があります。料金は部屋で1泊6万ウォンぐらいでしょう」と。
部屋で6万ウォンというと、日本円で6,000円ぐらい。1人当たり1,500円と安い。それはとても有難く、その申し出を受け入れることにした。
部屋につくと、部屋はオンドル部屋で、2部屋あった。
建物は古いが、部屋は広く4人が滞在するには十分な広さであった。

院長と話をする中で、なぜ私が韓国に来たのか、とその理由を伝えると、
「それなら、私の語学院で韓国語(マンツーマン)も教えているので、ここで勉強したらどうか」との打診を受けた。
「下宿(朝食、夕食付)も紹介する。下宿は1ヵ月45万ウォン」。1ヵ月も毎日、韓国語を勉強すれば日常会話ぐらい話せるようになる、と聞いたのも子心強かった。

これは願ったりかなったりの申し出であった。
私はこの申し出を受けることにした。

これが私が韓国と接点を持った最初の経緯である。

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