見出し画像

みんなちがって、みんないい?

70代のとある男性と話をしていた。彼は仕事で渡米経験があるらしく、いつしか今年のアメリカ大統領選挙の話題になった。大統領選の出馬候補者の1人、ブティジェッジ氏が話に上がると、男性は「あいつはきっとなれないな」と言った。ブティジェッジ氏は候補者の中で最年少の38歳で、政界経験も他の候補者より少ない。私は氏の経験の少なさに対する指摘だと思い、「彼はまだ若いですからね」と返した。すると男性は「いやいや、違うよ」と言い、右手の甲を反対側の頬に当ててにやっと笑った。

「彼はコッチだからさ」

私は心底驚いた。この手のジェスチャーをする人間は、すでに絶滅危惧種になりつつあると思っていた。だから目の前でそれをする人間を目にして、思わず息を飲んだ。色々な感情を通り越して、感動すら覚えた。ああ、絶滅なんて全くしていないのだ、と。

先のブティジェッジ氏は、同性愛者を公表している。だからといって、それはただ単に彼の性質の一つだし、私は大事なのは政治活動そのものだと思っている。それに、世の中的にも、自分に身近なところでも、様々なセクシュアリティの人が増えている(潜在的だったものが、時代とともに表面化されてきただけかもしれないが)から、政界にいても特段おかしくはない。

だからあのジェスチャーは、ブティジェッジ氏だけでなく、私の知り合いや、私たちがこれから生きて行く時代に向けて投げつけられた気がしてならなかった。お腹のあたりがドクドクしていた。私は「これからはそういう人も増えていくし、時代なんですよ」とかろうじて発したが、男性に言わせれば「そんなのは神の意思に反している」らしい。私は「そうですか」と言って話を切り上げることにした。目の前の老人は古い人間だし、私たちと共に未来を歩んでいけるほど先は長くない。そんな、自分でも驚くほど残酷な考えでしか心を落ちつけられないほど、私は腹が立っていた。

「みんなちがって、みんないい」なんて言葉があるが、あれはよく見れば穴だらけの言葉なんじゃないか。「みんなちがって」と言う時、頭の中に浮かんでいる「みんな」とは、一体誰だろう?実際のところ、自分が認める世界の中に収まっている「みんな」だけなんじゃないか。「みんな」の外側にいる人々について、果たして今まで考えたことがあっただろうか。自分が認められない考えを持つ人々に対して、素直に「みんないい」と言葉を続けられるだろうか。正直に言おう、私にとって少なくともあの老人男性は「みんな」に含まれる人間ではなかった。彼にとって、同性愛者が「みんな」のうちに入っていなかったのと同じで。

つくづく、人は結局わかりあえない生き物だと思う。「みんなちがって、みんないい」だったら、戦争も差別もとっくの昔に終わっているはずだ。日常で起こる小さな「わかりあえない」なんて、山のようにある。「みんなちがって、みんないい」と言えたらおめでたい。でも、本当は「みんなちがう」という事実が転がっているだけなんじゃないか。

今はとりあえず、こう思うことにした。「みんなちがう、それがわかっていれば、それでいい」さもなければ、自分が思う「みんな」以外に出会った時に、またものすごいショックを受けてしまうから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?