やっと、「フツーの人間」になれた

いつからだろうか。自分は「特別な人間」であると信じていた。「フツーの人間」でいいや、なんてまさかそんな、思うわけなかったし、「フツーの人間」になるなんてもっぱら御免だった。自分はずっと「特別な人間」であり続けると信じていた。

だからとても驚いている。「フツーの人間」であることに満足している今の自分自身に。

世間で「個性が大事」と声高に叫ばれ始めた時代。私には自信があった。自分には特別な何かがあると思っていたから。別に根拠はないけど、昔から身の回りに「あなたは面白い」と言ってくれる人間が多かったからだと思う。だから、日頃から「自分には特別な何かがある」と当然のように思っていた。そしてその反動なのか、「フツーは嫌だ」とか「フツーはつまらない」とか、周りの人間を横目に見ては「あんな風にフツーの人間になりたくない」と思っていた。

もともと承認欲求が強く、褒められるのが大好きだった私は、自分がインターネットで発信するものに様々な反応が付くのがとても嬉しくて、いいねやコメント、リツイートなどが自然と、承認欲求に対する栄養になっていた。そんなつもりはなかったけど、思い返してみれば他人の反応が気になって仕方なかった。その反応がどんどん積み重なって、自分を「特別な存在」に仕立て上げてくれている気がしていたからだ。

今年に入ってから、他人の反応を過度に期待しては、期待外れな反応に落胆している自分がいることに気付いた。真っ暗な部屋でスマホを睨んでいても、何も起こるわけではなく、1時間、2時間とただ時が過ぎて行くだけ。なんだかとてもくだらないなと思った。つかれたのだ。

だから、少しインターネットから距離を置いて、そして好きだった書き物からも距離を置いてみた。

結果、よかったと思う。「書くことが好きです」と言ってたわりには、一度やめてみると、世に出す形でどうしても書かなければならないことなんて、そんなに出てこなかった。その代わりに、大事なことは心の奥底に秘めて置いておいて、自分で満足する、自分を満足させる、そんなことができるようになった。

周りから見たら「つまらない人間に成り下がった」と、そう思われても仕方がないだろうなと思った。かつてあんなになりなくなかった「フツーの人間」に近づいている気がした。でも不思議と、この上ない満足感があった。

自分ってもしかして、とても「フツーの人間」だったんだなと気付いた。何も書いたり発信したりしなくても、ものすごく楽しいこと、刺激的なこと、感動することはいくらでもあったし、大変なことも嫌なこともあった。だけど、それをすべて世に向けて発しなくても、自分の中で受け入れて、大事にしまって、栄養にして、生きていける。それが一番、自分にとって大切なことで、健康なことなのかなと思った。あんなになりたくなかった「フツーの人間」に、やっとなれたのだ。そう思うと、なんだかおかしいけど、とても嬉しい。

今まで「フツーなんて」と横目で見ていた人々にも、それぞれの人生があって、全然フツーなんかじゃなかったのだ。語られない物語こそ、美しかったりする。「特別じゃなきゃ」「フツーなんて」と思っていたかつての自分はどうやら、充分にフツーで、充分に特別だったようだ。それがわかった今年は、なんだか前よりも一回り大きくなれた気がする。

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