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北国の空の下 ー 週末利用、自転車で北海道一周【6】 2日目:留萌〜天塩① 2015年5月23日 

「週末北海道一周」2日目のスタート。大気が不安定な中、留萌を出発し、一路北へ向かいます。

2日目ルート

留萌の朝

5月23日。留萌の空は雲に覆われていました。
いかにも日本海岸らしき低い雲が垂れ込めています。
もっとも、天気予報によると、この後は回復に向かうそう。

本来は、なるべく早く出発し、陽の高いうちに宿に着いて、一夜を過ごす街の風情も楽しみながら、ゆっくり休むのが理想。
しかし今日は天候の回復を睨み、17時到着を目処に出発時刻を逆算してみました。余裕を見て時速20Kmで計算すると、115Kmを6時間弱。昼食で大休止、また景色のいい場所で写真を撮ったり、小休止することを考慮して、8時間。9時に出れば十分、ということになります。

しかし、歳を重ねるごとに慎重になった、といえば聞こえは良いが、むしろ心配性になったというべきでしょうか、パンクなど不測のトラブルもついつい想定してしまいます。結局、8時には出発することにしました。

殺風景な食堂で朝食をとりながら朝のニュースを見ていると、札幌の大通公園からの中継をやっていました。今日の札幌は暖かく、半袖姿の人も少なくないとキャスターが話しています。昨日はまだスプリングコートを纏っている女性の姿が目立っていました。ようやく5月らしい気候になったか、と思います。
大相撲夏場所では、白鵬が11勝2敗で優勝争いの単独トップに立ったようです。

留萌→小平

8時少し前に、週末北海道一周・第2日目をスタート。

どんよりした留萌の朝

Raphaのレッドの長袖ジャージー、ブラックのライディングタイツ、その上にウィンドブレーカーと、前回留萌まで走ってきた時と同様の出で立ち。家に忘れてきてしまった、と思ったウィンドブレーカーは、下着類と一緒に小分け袋に入れてあったのを、ホテルに着いてから見つけました。
二泊のライドになるので、Rixen Kaulのサドルバッグに加え、Larsのバックパックを背負っています。ターポリン製なのでやや重いが、デザインが良く、防水性に優れたタフなところが気に入っており、ダイビング旅行などにも愛用しています。

町外れで留萌本線の踏切を渡り、港湾地区の隅をかすめて留萌川を渡ると、国道231号線に出ました。川向こうの市街地の遥か彼方には、暑寒別山系の山々が、曇り空の中におぼろげに浮かんでいます。

北へ向かう朝の車列

土曜の朝だが思いのほか交通量は多く、軽自動車の列が、トラックに先導されるように続いています。
「稚内182Km」の標識が現れました。1日で走りきれない距離ではないな、とヘタレ中年にしては大胆不敵なことを思うが、これは国道232号線をひたすら走る場合でしょう。国道は、留萌から約115キロ先の手塩から内陸に入って、原野の中を一目散に稚内を目指しています。私が予定しているのは海岸線を忠実に辿り、ノシャップ岬に至る行程で、国道経由より概ね20キロ程度の遠回りとなります。

海岸線に出ると、風はやや横風気味で結構強く、海には三角波が立っています。
海岸には消波ブロックが積まれ、海岸丘陵は延々と伸び、濃い靄の中に消えています。朝日は差して来ません。このルートのハイライトは、海上アルプスの異名をとる利尻岳の眺めであり、手塩の20キロほど手前の遠別あたりから、水平線上に姿を現わすはずです。午後からでも晴れてくれることを祈るばかりです。

強風の海岸線

身体の暖まる間もなく、小平の市街地に差し掛かりました。
風の強い通りには人気がありません。道路がだだっ広いだけに、素寒貧とした印象が増幅されています。畳店ののぼり旗だけが強い風にはためいていました。
町外れの小平蘂川を渡ります。アイヌ語でヲヒラシベツ、川尻に崖のある川、という意味で、地名の小平はそれを縮めたものだといいます。
その先、国道はやや内陸に入り、短いトンネルで丘陵の舌端を抜けている様子。海沿いを走る旧道もあるようなので、そちらにルートをとりました。
この丘の上が望洋台、確かそんな名前のユースホステルがあったなあ、と思い出します。

再び国道に合流して走っていくと、前方に大きな荷物を積んだ自転車が見えました。徐々に距離を詰めていくと、荷台に「日本一周中」という小さなホワイトボードを掲げています。乗っているのは小柄な女性のよう。挨拶して追い抜きます。この辺は、家並みもすっかり途切れ、左は日本海、右は丘陵という単調な風景が続きます。

花田家番屋でのひと時

留萌から概ね20キロを坦々と走り、身体の芯がじんわりと温まってきました。
やがて、右手に大きな木造の建物が現れました。花田家番屋といって、現存する中では最大の鰊番屋だそう。国の重要文化財にも指定されています。「鰊番屋まつり」という横断幕が掲げられ、大漁旗が何枚も風に翻っています。残念ながら見学は9時半からとのことで、外から写真を撮るだけにします。隣に道の駅があるので、ここで最初の小休止をとることにしました。

花田家番屋

海側には、北海道の名付け親と言われる松浦武四郎の銅像がありました。
この地にも4回に亘り足を運んだそうです。どのようなルートでここまで来たのか知らないが、岩場を伝い海食崖を高巻きしながらの探索は困難を極めたことと想像出来ます。

とても小柄な人だったのですね。

鰊御殿を模した道の駅の重厚な建物の前に、ランドナーかクロスバイクか、大きなバッグを幾つも積んだ自転車が停まっていました。道路の反対側から見ていると、背の高い青年がどこからか戻ってきて、声を掛ける間もなく出発して行きました。

ここは飲み物の補給と軽いストレッチ程度の小休止で出発する積りでしたが、2週間の休暇を取って横浜から車でやって来たという中年男性に話し掛けられ、世間話で長居をしてしまいました。
その方は、松前で生まれ、子供の頃は小樽で過ごし、北海道を久し振りで訪ねてみようとやって来たのだそう。
「北海道には、うまいラーメン屋がそこら中にあると思っていたんだけどねえ、」横浜の方がまだうまい店が多い、と仰る。私も同感です。
二週間も休暇を取れるとは羨ましいが、聞けば、生まれ故郷であるにもかかわらず、これが初めての北海道旅行とのこと。そんな間もなく、仕事と家庭に時間を費やしてこられたのでしょう。
そう考えると極楽とんぼのように生きている自分の肩身が少々狭く思われます。
そうこうしているうちに、先ほど追い抜いた日本一周の女の子が到着し、写真を数枚撮っているらしき様子でしたが、間もなく出発していきました。

花田家番屋→苫前

道の駅を出発する頃には青空が覗き、風は南西に変わっていました。
強い風を背に受けて、まるで翼を得たかのようです。
気合を入れず、軽くペダルを回すだけで、時速35キロ前後を楽に維持して巡航できます。
程なく日本一周の女の子を再び追い抜き、路傍に自転車を停めて写真を撮っていた青年も追い抜きました。
重々しい鈍色だった日本海は、強風で水中の砂が相当に巻き上げられているのか緑色に濁っていますが、波頭は陽光に輝き始めました。

青空と追い風。快調に北上

浜には流木が多数。巨大な切り株がごろりと転がっていたりします。もし自動車で来ていたら、インテリア用に嬉々として拾い集めたことでしょう。
右手の丘陵の上に、風車の縦列が姿を現し、瞬く間に後ろへ遠ざっていきます。
仮に、これが逆風だったら辛いことになっていたでしょう。しかし、もしも、なんて考えるだけ意味のないことなので、今この瞬間の快走を満喫することとします。心拍数も適度と思われ、身体は心地よく汗ばんで、いい感じで体脂肪が燃焼している感触があります。

国鉄羽幌線の廃線跡を横目に…

右手にはずっと国鉄羽幌線の廃線跡が並行しています。
1932年に留萌~大椴を結ぶ留萌線、1935年に幌延~天塩を結ぶ天塩線が開通。南北から徐々に延伸され、全線開通したのは1958年のこと。しかし利用者減少により、それから30年も経たない1987年3月30日、国鉄からJRへの転換の二日前に全線が廃止されました。

1987年といえば私は学生生活最後の年でした。JR転換初日の朝、卒論の参考文献収集のため中京圏の大学へ、続いて信州の母校へ教育実習の依頼と事前打ち合わせに向かうため、祝賀ムードの札幌駅から特急「北斗」に乗りました。あと1年で廃止される青函連絡船に乗り継ぎ、夕刻の弘前を一巡り歩いてから、寝台特急「日本海」に乗った記憶があります。
当時は北海道内の赤字ローカル線の廃止が相次いでいました。鉄道好きの友人と、「日本一の赤字線」として知られていた美幸線とか、札幌から近い万字線は廃止前に乗りに出かけましたが、140キロと長大ながら今ひとつ地味な存在であった羽幌線の廃止は気にも留めていませんでした。

それから30年近くを経ているのに、草むした路盤の跡は特に再利用されている様子もないので、それとハッキリわかります。川には橋脚が残り、所々、封鎖されたトンネルも見受けられます。
それにしても、この30年で加速度的に過疎化も進行したのでしょうが、こんな人口密度の低いところに鉄道を敷設するという発想は、現代ではまず生まれません。バスの方がよほど効率よくきめ細やかなサービスを提供できることでしょう。
それに、沿線に景勝地があるわけではなく、風景はむしろ変化に乏しく単調。五能線のような観光路線としての魅力にも欠け、要するに、どうやっても厳しかったろうな、と思われます。

国鉄がJRにかわったあの年、教え子を来訪を喜んで下さり、自ら指導教官を買って出て下さった昔の担任の先生もすでに亡くなり、 歳月の流れが無常感を伴って感じられます。

苫前を前に、今日初めての上り坂が現れました。苫前の市街地は、海岸丘陵の上にあるようです。
今や空は晴れ渡り、身体も汗ばんできました。坂の途中で立ち止まり、ウィンドブレーカーを脱いで、背中のポケットに収納。振り返ると、駆け抜けてきた海沿いには、道路、路肩標識、風力発電所、さらに送電線の鉄塔が無機質に並んでいます。人工物は少なくないのに、生命の気配があまり感じられず、週末の工業団地に迷い込んだような感じです。

苫前で南を振り返る

離島への玄関口・羽幌

苫前はこぢんまりした街で、すぐに抜けてしまいました。またひとしきりアップダウンがあって、程なく羽幌に到着。手売島・焼尻島への便が発着する港町です。市街地は海岸台地の上にありました。

留萌から約60Kmの羽幌は、かつて羽幌鉱山で栄えた歴史もあり、留萌~稚内間の中心都市と言って良いでしょう。バイパス沿いにはカーディーラーやドラッグストアのポールサインが立ち並んでいます。
そんな道を走っても面白くないので、街中への道に入り込んでみました。小学生が二人、向こうから歩いてきて「こんにちは」と挨拶してくれました。
たいへん気持ちの良いことですが、彼ら以外の人影はここでも殆ど見かけません。公共施設や病院の建物が立派で、家も比較的新しく、街並みから受ける印象が明るいだけに、何やら住民が集団で避難して、突如空っぽになってしまったような印象を受けます。

標識を頼りに、焼尻島・手売島へのフェリーターミナルに行ってみました。埠頭には白と青の瀟洒な船が泊まっていて、船尾に「さんらいなぁ2」と記されています。焼尻島まで35分で結ぶという高速船でしょうか。

焼尻島行き「さんらいなあ2」

出航時刻までまだ間があるためか、ここにも人気がありません。待合室に入って、時刻表を見たり、配布されている地図を手に取ったりしていると、切符売り場の女性が、どうしたのかしら、といった風に「こんにちは」と挨拶してくれました。

ターミナル内には食堂もありますが、時刻はまだ10時20分。小平の道の駅で結構油を売っていたのに、ここまで2時間強で来てしまったことは驚きです。とは言っても偉いのは私ではなく、背中を押してくれた追い風なのですが。

さらに20キロほど先の初山別村まで走ってから、昼食休憩を取ることにしました。初山別村は人口1333人。この過疎の村にコンビニができたと、最近マスコミで話題になっていました。

※ 次は、引き続き、オロロンラインを北上。過疎の村のコンビニ、何年振りかの海の幸、原野の風力発電所、そしてかつては北前船で賑わった天塩へ。

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