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『家で暮らす』 とは。

我が家のリビングは2/3階の2層吹抜となっており、リビングから外は縦に2層分の窓から千住の桜並木を見下ろすことができる。高校卒業を迎える娘から、なぜ家に吹抜けをつくったのかという質問を受けた。家カラオケや友達を迎えて騒いだ花見やゲーム大会も、来客を迎え迎賓の場であったリビングは、今朝は向かいの教会の賛美歌が鳴り響いている。

こういう時だから新しい習慣や生活にあったニューノーマルな家について考えたい。僕たちは自分にあった洋服やレストランをどうやって選んでいるだろうか? 改めて考えてみると、多くの選択肢から知らず知らずのうちになんとなくこのあたりかなと軽く決めていることが多いことに気づく。例えば洋服であれば、体型や年齢、好き嫌いの要素にあったお店からこれくらいかなと選択し、その繰り返しによって、自分にあった洋服と出会あうことになる。

では家はどうだろうか? 洋服や行きつけのレストランを見つけるときのように、お気に入りの家に住めているのだろうか?多くの人はどんな家に住みたいと思っているのだろうか? 家は多くの人の要望に答えられるニーズを準備しているのだろうかという疑問が湧いてくる。

幼少期からこの家で育った彼女にとって、吹抜はどうも将来不足した部屋を付け足すための予備スペースぐらいにしか思っていなかったらしい。多くの友達を招き、友達と話をしているうちに、それだけでない何かを感じ始めたのだと思う。

改めて今の時代を考えた時にこのスペースの持つ意味はどうだろうか? 
長時間をそこで過ごし、心も体も開放することができるリビングには、それでも僕たちの心を動かす何かが欲しくなる。友達との思い出には何らかの風景や音、出来事が必要だし、そこには豊かな場が欲しい。ネットやVRでは得ることのできない、自分好みの環境を実現できているのだろうかということになる。そしてそこで本当に豊かな暮らしが繰り広げられているのだろうかと。今だからこと、抑圧された生活ではなく、自分好みの自由で好きなこと・好きな時間が過ごせる場と時間が欲しくなる。僕たちの暮らしはそこにあるのだから。



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