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フジロックへいこう。


ミッシェルガンエレファントの
チバユウスケのニュースがはいってきて
ちょっと固まった‥。

とりあえず追悼文。

ちょっと前に書いてあったやつです。
長いけど、のせちゃう。

ーーー

北島ハルトの「フジロックへ行こう。」

「フジロックへ行こう。」
編集に携わるタイチから連絡が来たのは、夏休みも目前のことだった。
居酒屋で他の友人と仕事帰りの一杯を引っ掛けていたところだった。

20 代の頃、まだ忌野清志郎が生きていた当時、京都の磔磔っていう小さいライブハウスで意気投合して以来、つかず離れずの距離で過ごしてきた。
フジロックフェスへは当時欠かさず参戦した。 良質なバンドチョイス、今のように柵もなく、より身近に奏者を感じられる、そんな場所だった。
自分が初めて行ったフジロックフェス’98 は、記念すべきお台場で第 2 回目の フジロック。
第 1 回目は台風で流れていた。夏休みに入るなり上京して兄の部屋に転がり込んで、フジロックフェスに臨んだ。
そこは都内のじりじり焼けこげる炎天下で、激しく縦に揺れる観客席には、ホースで水が撒かれた。

その日、アベフトシ健在のミッシェルガンエレファントが、熱かった。 ドラムのキューちゃんがシャツだった以外は、3 人とも黒のスーツにネクタイ だったが、すぐにジャ ケットは脱ぎ捨てられた。 白いシャツは汗だくになって透き通った。

前列に詰め掛けた観客席で倒れた誰かを助け出すために、2 曲めは一旦停止された。
チバユウスケが、野良犬みたいにステージをうろついて苛立ったように見え ていたのが、マイクをかまえて、しゃがれた声で、「あのー楽しくやりてぇ から下がれるもんなら下がろうや、倒れてるやつはちゃんと起こしてやろうぜ」と呼びかけた。
モッシュの下から何人か運びだされて再開した。
何度も停止したけれど、そのたびチバは観客を気遣った。

撒かれた水は一瞬で湯気となり、俺たちは熱気でこもった客席のど真ん中にいた。
ゲットアップルーシーでもみくちゃにされて、そこそこ背の高い方だった俺でも明らかに酸素が薄い感じで、苦しくて、それでも最高に楽しかった。

荒々しくて、ロックンロールで、なおかつ品行方正。
何年も後になって、その動画を見つけて繰り返し見た。

音楽の持つ暴力的で一瞬だけきらめく力が、そこにあった。
その中に、本当に自分もいたのだと考えるだけで、あの震えるような歓喜を思い出す。

キヨシローが亡くなった 2009 年の「フジロックフェス'09」は特別な思い出だ。
追悼スペシャルバンドがGreen stageに集合するセットリストになっていた。
NICE MIDDLE with New Blue Day Horns のほかに、仲井戸麗市、 Leyona、Chara、甲本ヒロ ト、真島昌利、トータス松本、UA、Char、 WILKO JOHNSON & NORMAN WATT-ROY、BOOKER T.、泉谷しげる。
思い出しただけで首筋がざわっとする。

タイチも参加メンバーにいた。
声をかけて集まった皆はキヨシローが本当に大好きだった。

そして、その Green stage での出来事だ。
しょっぱなに出てきた The Birthday の MC で、チバユウスケが、今日のライ ブは、俺たちの大親友だったアベフトシに捧げますと言った。
一瞬、客席はしんとなった。
あんなに好きだったアベフトシが、2003 年にミシェルガンが解散した後どん なふうに生きていたのか知らず、あとで調べると広島に戻り実家の左官屋を手伝ったとあった。
彼はフジロックフェス 3日前の 22日に、硬膜外血腫で 42歳の生涯を終えた。

誰がなんと言おうと、ミシェルガンエレファントは、日本のガレージバンドの最高傑作だ。

ウエノ、クハラの走るリズム隊に加え、アベフトシの暴れながらも端正なギター、その上にチバのかすれた声が乗せられると、ジャンクなのに重厚な、完璧なロックが形作られて、後にも先にもなくて伝説としか言えない。
ミッシェルガンエレファントが解散して、今やThe Birthdayはミシェルガンよりも長い時間活動している。

ミシェルガンは「世界の終わり」のように疾走を伴った孤高であるのに対 し、The Birthdayの曲は、死を内包して、少しだけ優しい。
そしてそれが悲しさを呼ぶ。The Birthdayの曲、チバの声が沁みた。

終わりの予感はあったけれど、その場では喪失感というにはよくわからなくて、追悼ライブに、ただ熱狂した。
誰かとの別れを、どう消化するかなんて、俺はまだ知らなかった。

一方、俺の中で生きた時間の単位である忌野清志郎は、物心ついた頃からそこにいて、最高のロックスター だった。
小学 5 年の時に兄が大事に持っていた ipod をこっそり聞いて、雷に打たれたみたいに衝撃を受け、その声が天啓のようにまとわりついて、音楽を聴き始めた。
それがキヨシローバージョンのimagineだった。
兄のCDを漁っては傷がつくから さわるなと怒られた。 親の古いレコードの中にビートルズを見つけ聴いてみたが、ジョンレノンの 歌う imagine は、キヨシローよりも爽やかで、ウィットに富んだ曲に聴こえ た。
同じ曲でもキヨシローの歌は、泥臭くて湿った感じがして好きだった。 俺の生まれ育った造船の町に溢れる、潮と錆びた鉄の匂いと溶接の音に、キヨシローの音楽はぴったりだと思った。

そのうち兄に ipod のお下がりを貰って、毎日工場と田んぼのあぜ道の通学路 で聴いた。
1 人一台持てるようになった携帯が急速にスマホや iphone に取って代わられ ていく時代だった。
バンドブームでもあり、イエローモンキーや アンジーやブランキージェット シティやいろんなバンドがあったけれど、キヨシローはどの曲もキヨシローだった。

金属で引っ掻くような声は、誰にも真似のできないその人となりを表して、それこそがロックの奥深さだと思った。
暇さえあれば、レコードショップに足を運び、ジャケットと音楽雑誌を見ては絵を描いて、兄のギターを借りて練習し、バンドを組み、自分が成長していく先には、いつも音楽があった。

先に上京した兄にくっついてライブハウスに潜り込み、コンサートで設営をして、友人のバンドに見よう見まねでフライヤーを作った。
デザインの仕事を始めてからは貯めたお金を使って、タイチとあちこちライブに行った。

ここ数年は友人のバンドの応援で見には行くものの、タイチとは職場が離れ、彼が父親になり、自分の父が病に倒れ見送り、なんとなく会えずにいた。

春から立て続けに企業ポスターとカタログの案件が舞い込み、ようやく落ち着いたところだったから、タイチの声かけにはすぐ応じた。

俺は独り身で、デザイナーの仕事をして来たわけだが、タイチは SEの奥さんと連れ添い、子どもができて 10 年近くになるだろうか。 本人は数年前課長になったと聞いた。

俺がビッグサイトで企業がらみの出店をしていた時に、彼の娘に会ったことがある。
父親に手を引かれて、腰のあたりの身長だった。
柔らかそうな長い髪を後ろで赤と水色のカラフルなシュシュでポニーテールにまとめ、赤い水玉ワンピースが似合っていた。
小さな靴と歩幅でちょこちょこ歩いて寄ってきたのを覚えている。
その時、出版コーナーにいたから、子供向けの 絵本を見つくろってやると、 座り込んで小さな手でゆっくりめくって見ていた。

本は好きなんだよな、とタイチが娘に顔を向けたまま言った。

ーーー

今年のフェスは誰が出るのだろう。
パッケージ会社の WEB 企画と施工管理会社の企画を頭の片隅で考えながら、 フェスのサイトへ飛んだ。
最近はネット上で店のポイントが取れるバーチャ ルアプリがダウンロードできる。その中に観に行きたいバンドをストックしておけば、時間の管理も簡単だ。

アベフトシもキヨシローも、この世にはいなくなって 10 年、フェスティバル は続いている。

初めて参加したフェスは帰宅する頃には T シャツが汗と、誰かの血と泥まみ れで、壮絶な思い出だが、近頃はステージ周りの管理もしっかりしていて、 子連れでも参加できる。

7月26日からの 3日間が俄然楽しみになった。
フジのトリであるケミカルブラザース、レッチリ、トムヨーク、アジカン、 40 周年の CURE、トータス松本、CHAR と CHABO、ソウルフラワーユニオ ン、blues.tghebutcher-590213+ うつみようこ、ちゃらんぽらんたん、ス ガシカオ、七尾旅人、EGO-WRAPPIN、オリジナルラブ、平沢進、菊池 成 孔、渋さ知らずオーケストラ、竹原ピストル。
ステージとメンバーを見て、頭の中は新潟苗場の青空や雨のシーンでいっぱいになり、心躍る。

それでも、もうあちこちを順にはしごして走るほどの勢いはないだろうと思う。
ステージ間はそれなりに距離があるし、メンバーには小さな子どもがいて、数人はテントの近くを離れられない。
結婚していない俺は、皆のサポート役になるはずだ。

ーーー

そうしてフジロックフェスへ行くメンバーに声をかけている。
旅行好き、音楽好きの友人たちに LED テープの話をすると、面白がって聞い てくれた。
旅の途中に撮った写真や動画を提供してくれる、と言う。今年富士山へ昇るという者もいた。
今回、LED の販売ページを作るにあたって、彼らが行った先々や DIY で実際 に LED を使って撮った写真をアップして、インスタグラムのページを更新したら動きのあるページになる、と企画を考えている。
今抱えている仕事の合間に、やってもらえるだろうか。
今時の HP というのは動画も含め、スピードが勝負だ。 スマホが普及して、スマホで見やすく UI をデザインするようになっている。
沢山の人の目に触れるようにするには、シンプルなレイアウトと今風のデザ イン、毎年変わっていくそれを追い、枠を作った後は 日々の何らかの更新、 毎月のキャッチ画像の変更等が欠かせない。

Twitterでつぶやきながら、インスタに仕事の写真をアップし、noteでいく つかのテーマごとに書いては上げて、誘導する。

Pinterestで最新のデザイン流行を押さえ、見やすく整える。 自分のところのプラットフォームで管理して、関わるコーディネーター、UI デザイナー、ライター、動画デザイナーに、すぐに見せられるサイトを作る。

それから、芝居をしていた小劇場系の友人達に声をかけて、定期的に CM を作れないか考えてみたい。
彼らは社会人劇団であり、数人が脚本を書き、ショートコントを撮り、年に 一度公演ないしは演奏会を続けている。役者たちは結婚して子どもができ て、かれこれ 20 年近く続いている。 バーを貸し切ってやる演奏会では、バンドの間にショートコント、スクリー ンに動画を写し、動的な動きには持ってこいだろう。

まずは自分で作ってみる。
サイトの中でのキャラクターをいくつか作って、そのキャラが撮った写真、というていでどうだろうか。
25~30 歳なかばくらい。男性と女性。
彼らは出会い、同じ時間を過ごす。 その後、イベント、旅行好きの趣味を通じて、カップルになって一緒に過ごすようになる。 キャラクターはイラストでもいい。

本人たちの画で、サイトの紹介をする。 インテリアにも興味がある今時の社会人らしく、週末は LED テープや、木材 でDIY をする。
バンドマンが路上でのイベントに使う。
フェスで、子連れの者がいて、小学校へ上がったくらいの子が走り回っている。
ろうそくは危ないから、ランタンと LED が活躍する。

もう少し年齢が上がるとあまり考えたくないことだけれど、介護をする人は多くいるはずだ。
それを踏まえた導線とライティングができれば、ほんの少しのことだが、生活が楽になる。

父のことになるけれど、デイケアに預けているとき以外、仕事をして、食事をつくり、そのあいますべて、いつどのように動くかわからない人間が常に傍に、いた。頭の中はほぼ子どもの ような者と考えていい。
その生活のなかで、AI による管理は、とても役に立った。
夜中にふと物音に目を覚まし、暗がりのなか動く気配を見つける、声をかければ、あかりがつく。
スマホでどこにいるか所在を確認できる、各部屋にカメラを置き、話しかける。
外出中、室内の温度が気になればエアコン操作をできる。

元気な頃、父はおもしろがってよく AI とやり取りしていた。
好きな落語を 延々と話させたり、自分の設計した巡洋艦のことを話してやったり。知りたい情報を、AI から引っ張ってくる方法を、父に教えると瞬く間に覚えて、造船に関わる文献を検索しては聞いていた。
また、死ぬ間際まで、父自身仕事と関わり続けることが、自分を生かすとわかってそうしていたのか、若い者達を招き、自分の持つ知識を流し込むように伝えていた。

人が生きたり死んだりは、ひとにはどうにもできない。

俺にとって祈るしかないような毎日の中で、走りながら拾い集めやり続ける仕事の役割は、その間だけは頭の中身を仕事に注ぎ込めるという唯一の救いだった。

その合間に淡々と身体の具合を記録し、伝えるべきことを周りに伝え、日々を過ごす父の姿は、目の前の出来事にただ取り組み続ける、生き方の指針を示していたように思う。

それが、その時にできる精一杯の小さな仕事でも、少しでも前に進めるとわかるなら、それは無駄になどならない。

ーーー

さてタイチが、逢おうというので、代官山の地下の小さなライブハウスで会うことにした。
近年ダブの動きに合わせ台頭してきた音響系の音楽イベントだった。
きらきらと眩しいライトと低音の腹に響く音が、出迎える。 いくつもの機械、iphone に囲まれた真ん中で、大柄な知人が背中を丸めて小 さなパーツを動かし体を揺すっている。
目が合うと、おう、と手を挙げた。

客も同じくめいめい音の波に乗り踊る。
光と陰と色が溢れる。 大きく、小さく、音に緩急をつけて盛り上げていくやり方にいつも感心する。
先日 LED テープの話をしたところ、イベントに使いたいというので、納品ついでに行ったのだ。

iphone が震えて、視線を落とすと会社のプラットフォームに点滅がある。
揺れる人の影をかき分けてライブハウスの外に出た。
大きな低音とカラカラに薄くなったメロディが外まで漏れ出てくる。
ライブ ハウスにはタバコの煙が時代遅れにたまっていて、初夏の風が入り口を掃除 する。
Mac をネットに繋ぎ、入ってきた画像に名前をつけて、アップロードした。

生きているあいだ、起きて寝るまでの時間、自分の時間をどんな風に使うか。
フリーランスになって、いつも考える。

船を作っていた父親の、最後の仕事のように、死ぬことよりも後ろ髪引かれるようなそんな仕事を、自分はしたいと願っている。
自己責任を重い石のように貼り付けられた今の日本でも、そんなことには関係なく、夢中になって、伸び上がっていくような仕事をしていきたい。

そうして。
アベフトシも、キヨシローとミッシェルガンエレファントもない令和を、俺たちは生きながら、それを果たして生きているって言えるのだろうかと問う。 

このところの俺の時間は、スピードを失って空気の抜けた炭酸水のようにただ淡くて甘い。

ーーー

タイチは数年前と変わらず、初めて出逢ってから時間が 10 年経っているとは 思えないほどの勢いで、早口に近況を語る。

それから「フジロックフェス'09」2日目のThe Birthdayの激しさと、盛り上がって終わったあとの喪失感についてゆっくり話した。 あのときチバが、気持ちいいね、と言った時、見上げた空が真っ青だった、 とか、タイチは、ちょっと泣いた、とか、アベフトシ展に行くか、とか。
タイチと別れ、生ぬるい帰路の空気のをまとって歩きながら、ふと思う。
きっと今の俺には、ライブでキャッチーな音楽が、足りないんだ。

現実の中で、目の前で、奇跡のような動きを見たいなら、そのための計画を立てなければ。

施工会社の中の LED 部門とのリンクを考えている。
自由に DIY できるスペー スがないだろうか。動画やインスタグラムで逐一アップしていきたい。
演劇的に、人が集められるそんな場所。
どこだろうな。

ーーー

あっという間に日は過ぎて、夏休み突入。
23回目の苗場のロックフェスに来 ている。
なだらかな山あいにそびえる大きなテントがリストバンド交換所。 早朝からすでに長蛇の列。 日本人も韓国人も中国人もアメリカ人も、皆ガヤガヤ並んでいる。

タイチと奥さんと娘、息子、他に 4 組の家族が参加していた。 子供達は乳飲み子を含めて 7 人、親を合わせると総勢 18人の団体となった。

こんな小さい子どもが来て、この暑さ、と心配するものの小さな扇風機つきベビーカーに、タオルで巻いた保冷材を抱えて乗った子どもたちはスヤスヤ寝ているのだった。

ゲート前にチームで散らばって朝食をそれぞれで取った。 俺たちはいつものもち豚を頬張っている。
フジロックに来たからにはこれを食べないと、盛り上がってこない。
塩コショウのシンプル素朴な味、肉汁が口に広がる。 あとはマルゲリータを 皆で分けてかじりながら進む。
キャンピングカーとテント、シートにいす、テーブル。皿に魔法瓶、凍らしたドリンク類、準備は万端。

木々の合間を縫う小道には所々テントが張ってある。
真っ青に晴れた空。山あいに鎮座する、怪しいオブジェ。

皆の手にセットさ れたリストバンド。
てるてる坊主。
じっとり熱くまとわりつく空気。 色とりどりの垂れ下がる旗 と沢山の T シャツ。
轟音とざわめき。
すり鉢状に中央のステージに向かって持ち込んだ椅子たちが置かれている。

隣のステージに行く途中には、川があって薄着の子供達が大騒ぎしていた。
沢に降りると丸い大きな石ころと、さらさら流れるせせらぎが見えた。

ーーー

タイチの娘は、今日、何の日だと思う?と小さないたずらっ子のような目で 話しかけてきた。
私の誕生日! 1 0歳だよ。
嬉しそうに言うので、おめでとう!フェス生まれなんて最高だ!と大げさに 言うと母親に似た二重を細くして笑った。

最近はボカロが好きらしく、ピアノを習っていて、今年は六兆年と一夜物語 を弾くと言う。
俺は千本桜ならギターで弾けるけど、と言うと彼女は私も楽譜ならあるよと 言い、またいつかユニット組んでやろうとなった。

10 年とは、生まれた子どもが千本桜を弾けるようになる年月なのか。

初めてのフジロックフェスだという彼女は、頭二つぶん俺より低いくらいの身長に成長していた。

父親の影響を受けてブルーハーツと、バースデイを好きで、ふと鼻歌を歌っているのが、キヨシローだったり、打首獄門同好会の、布団の中から出たくない、だったりして、ドレミで歌い出して、何の曲か当てっこをし、音楽のある生活を謳歌している。

今時の子らしく iPad を持ちゲームをしながら、待ち時間を過ごす。 動画を見て、写真を撮り、マイクラでフェスの土地を自分のワールドに展開 し、コンパスやマリオで遊びながら、時折友人とチャットでしゃべっている。

パパ、遠くへ行かないで!ネットが切れる!と叫ぶ。

チバユウスケ、いいよね。というので答える。
そりゃもちろんさ、日本の抱える最高の歌い手の一人だからな。

ーーー

そのうち、ちびっこ達は母親とセットで別行動、沢に降り水遊びを始めた。
奇声をあげて走り回る。

そこらの大人たちは酔っ払って踊っていたり、草の上にシートを敷いてごろりと寝ていたり、遠く近く大きな音は聞こえるし、子どももはしゃぎたくなるってものだろう。

見ていると知らない子どもら同士が、演奏している前のほうへ恐るおそる近づいて行って、最後にはだんごになって踊っていた。その脇で大人たちが見守っている。

Twitter で泣いている子どもを叱る親への批判の声もあったけど、親の行く楽しみも、子どもの体験する楽しみも、たぶんあると思う。
この先何年も経って、また子どもたちは観にくると思う。

お金を稼いで、相方を見つけ、同じようにその場所を目指して、音楽の力に呼ばれる、きっと。
あまりにも小さくて、そんなの覚えていないなんて言っても、階層の奥深くに音楽がインストールされた子どもたちは、音楽とともにあり、いつか音楽 に助けられるときもあるっていうのを、俺は静かに確信している。

踊って、音楽に身体を任せて、疲れたら座り込む。 台風直撃といわれる苗場は風が強く空気が湿っている。

風に煽られてよろめく子どもたちの手をひき、だんだん慣れてきた子に肩車をしてやり、飲み物を飲ませ、トイレに連れて行き、かき氷を買ってやる。
転んだ子には声をかけて、立ち上がるのを待って抱き上げてやった。

写真と動画を撮りながら、こまめにアップする。
ツイッターで呟く。インスタで連携しながら。
祭りは夜まで続く。

夜は、テントの少しこもったざわめきの中、ヘッドフォンでキヨシローを聴く。

30 歳過ぎて、こんな風にお祭り騒ぎをしているなんて、自分が10代のときは 考えてもみなかった。 でも幾つになっても、できる仕事があって、こうして仲間と過ごしていくの なら、まあいいんじゃないかと思う。

好きな仕事、好きな音、好きな人たち。
疲れて寝落ちるまで仕事して、誰かが亡くなったり、付き合ったり別れたり、夜寝られないほど辛いことも、悲しいことも、すべて遠くに追いやって、アップデートして、音楽だけが身体を切り離し支配して、癒していく。
そうしたら、また前を向いて、日常に取り組めばいい。

テントの先には、空が、星が落ちてきそうに低く広がっている。 キヨシローの imagine が続く。

誰かを憎んでも
派閥を作っても
頭の上には
ただ空があるだけ
みんながそうおもうさ
簡単なこと
夢かもしれない
でもその夢を見てるのは
君一人じゃない
仲間がいるのさ

疲れた身体の芯まで音が馴染んでいるのを確かめながら、寝袋にもぐりこんで丸くなった。

音楽と仲間と熱狂のその先には、まだ見たこともないようなわくわくする新しい仕事が待ち受けているのだ。

奇跡のような時間を、未来に向かって歩いていく。
音に乗せて、この終わりまで続けていこうと思う。 

おしまい。

ーーー

ありがとう、チバユウスケ。さよなら。

最高のヒリヒリする音をありがとうでした。


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