公の場所での自殺を迷惑だと非難するのは倫理的にセーフかアウトか

今回は刺激的なタイトルですが、まあ日記なので率直に書きます

先日、新宿に用事がありました。
新宿といえば、ジェンダーレストイレで話題になった歌舞伎町タワー。

歌舞伎町タワーといえば、少し前に飛び降り自殺がありましたね。自分のTwitterにもその瞬間の映像が回ってきて、気分が悪くなりました。

このような公の場での自殺といえば、電車への飛び込み自殺によって自分が使っている路線が遅延した際に、「迷惑だなぁ」と漏らしたら「倫理観が無い!」「本人が可哀想だと思わないのか?」と言われたのを思い出します。

こういった連想ゲームのような経緯で、今日は「公の場所での自殺を非難することが倫理的に許されるか」について考えました。

まあ迷惑ではあるよね

まず前提として

・そこで自殺をすることによって多くの人に精神的ショックを与える点
・またその巻き込まれた人にはなんの落ち度もなく、ただその場に居合わせただけである点
・好奇心からそれを撮影し拡散するバカがおり、そのせいでさらに精神的ショックをきたす映像が拡散される点

以上から考えて、「迷惑である」という点は客観的に見て明らかだと言えます。

まあ3点目に関しては全てを本人のせいとするのは酷な話ですが、そもそも事が起こらなければ発生し得ない事ですので一応加えておきました。

自殺というセンシティブな話題において、迷惑と非難すること。
これの倫理的正当性を考えます。

そもそも倫理的な善し悪しの基準は感情論?

まず倫理的にセーフかアウトかというのは、個人によって基準が大きく異なります。

社会生活を円滑に進めるという観点では、社会一般の倫理観を持ち合わせることに相応のメリットがあるように思えます。

ただ、私としては、感情論が嫌いなので「お前は倫理観が無い」という批判は曖昧なものに思えて仕方がないのであまり好きではありません。

話が逸れますが、以前友人と究極の二択ゲームのお題で「お化け屋敷で寝るか墓地で寝るか」というものがありました。

私は「墓地は大体地面剥き出しの土だから、まだお化け屋敷がマシ」と答えました。

これに対して友人は「お墓で寝るのは倫理的にアウトだからお化け屋敷」と答えました。

これは私と友人の間で倫理観に差異があった具体例ですね。

私の倫理観では、お墓に対して直接的かつ侮辱的行為をする、例えば小便だったり殴ったりといった行為をするのはアウトですが、墓地で寝るという行為はセーフなのです。

これは寝るという行為がお墓に対する直接的かつ侮辱的行為にあたらないからです。

このように私は自身の倫理観に適うかどうか説明できますが、これは友人も同じでしょう。
単に基準が人によって異なるというだけです。

ただ、人によって基準が異なるのであれば、自身の基準を元にして相手を非難するのは些か正当性を欠くように思えます。

自分の価値観にそぐわないのがどうしても許せないというのであれば、相手を非難するのではなく、自分から関係を断ち切れば良いのです(このゲームの時は友人とは何も揉め事にはなっていません。あくまで例です。)。

世の中では「倫理観が無い」という批判がまかり通っている

しかし、私のように考える人は多くはありません。
世の中では倫理観が無いという批判が飛び交っています。

これは、その問題に対して同じ倫理観の基準を持つ人が多数派であるから、と考えるのが1番納得が行きます。

要するに、「これは倫理的にアウトだ」と考える人間が多数派であれば、少数派に対して「お前は倫理観が無い」という批判が出るわけです。

自殺の話に戻すと、迷惑であるという客観的事実は揺らがないのに、倫理観という謎基準が入ってきて多数派を巻き込むことで、迷惑に対する批判が逆に批判されるという構造になっている。

しかも、学校で教わった訳でもないのに、多数派は同じ価値観を共有している。

まあ、だからなんだという話ですが、やはり考えれば考えるほど面白い話だな、と思います。

このことから分かる一つの結論

倫理観の話から、一つの結論を導きます。

それは、

倫理観とは極めて主観的な基準であるが、多数派が同様の主観的な基準を共有していれば、それは社会的には客観的な基準になり得る。

すなわち

いくら主観的な基準であっても、「多数派の主観」は「社会における客観」になる。

ということが分かります。

これは倫理観の話だけではなく他の物事にも言えます。

民主主義の合理性の根拠とも結びつきそうですね。

実際、次の話題でもこのロジックを核に進めていきます。

では、次の話題に移ります。

そもそも自殺者は「可哀想」なの?

倫理的にアウトという批判が嫌いと言った手前、もうこうした批判を受けるのを恐れずにもう少し突っ込んでみようと思います。

初めに述べたように、電車の件で倫理観が無いと言われた時、私は「自殺した人が可哀想である」ということを根拠に非難されました。

もちろん、倫理観が無い理由の全てが「本人が可哀想」という一点だけに帰結する訳ではないとは思います。

ただ、社会一般の倫理観をこの場で推測するのは無理があるので、ここでは「本人が可哀想だから、迷惑だという批判は倫理的に間違っている」とします。

裏を返すと、主題にある「自殺者に対する批判が倫理的にセーフかアウトか」を、「本人が可哀想であるか否か」にまとめるわけです。

可哀想であれば、批判は倫理的にアウト。
可哀想であると言えなければ、倫理的にセーフ。
ルールを単純化しました。

では、自殺者が可哀想であるかどうかについて少し考えてみます。

まず、自殺を試みる人の心理について分析しましょう。

恐らくですが、社会的、身体的に自分の健全な将来性を見出す事が困難となり、その結果として精神的に支障をきたし、それならば楽になろうとして、自殺してしまうのでしょう。

他人の心理を勝手に推測してこうであると文面に起こすのは多少抵抗感がありますが、ここがブレては話が進まないので、便宜上こうだと決めてかかることとします。

こうだと仮定した時、「社会的、身体的に自分の健全な将来性を見出す事が困難とな」ってしまったのは確かに「可哀想」だと言うことができますね。
誰だって未来には希望を抱いて生活したいものです。
その後の精神面においても同様です。

前提の前半においては「客観的に見て可哀想」だと言うことができます。

「客観的に見て可哀想」ってどういうことだ?可哀想とは主観的な感情では?という疑問も浮かびますが、ここではこういう言い方をさせていただきます。

要するに、倫理観の基準の話を応用して、「多数派が主観的に可哀想だと判断する事柄は、社会一般では客観的に可哀想だと言うことができる」というロジックを用いている訳です。

話を戻すと、確かに前半部分においては「客観的に可哀想」ですね。

しかし最後の部分はどうでしょうか。

もう生きていても希望がないから、死んで楽になる

この「思考」と自殺という「結果」を「可哀想」だと断じることはできないと思います。

その後も生きていた方がより不幸になる可能性が存在し、かつ生きていた方が幸せだということが証明できない以上、どう足掻いても可哀想ということは不可能です。

「死んだ方が楽になる」という発想は極めて危険ですが、それが可哀想であるという証左にはなりません。

「危険である」というのは私も含めた多数派の主観=社会の客観と言えます。

しかし、本人がその結果「可哀想である」かどうかは、生きていた場合の未来がわからない以上、死んだ本人も含めて誰にも判断することは不可能です。

私独自の定義が交差しているので、具体例を挙げます。

もしかしたら、死ななければ翌日に宝くじが当たっていたかもしれない。
そしたら多くの人が「あの日に死を選んだのは可哀想」と判断するでしょうし、それ即ち「客観的に可哀想」と言うことができます。

反対に、死ななかったら翌日に北朝鮮に拉致されていたかもしれない。
そしたら多くの人が「あの日に死を選んで良かった」と判断するでしょうし、それ即ち「客観的に可哀想ではない」となります。

結論

暗い話が続いたのでここらでまとめます。

要するに、自殺に至った経緯を見ると当人は可哀想であると判断できるが、結果として自殺という選択を取った以上は、当人が可哀想であると断じることは誰にもできない。

よって、迷惑であるということが明白であり、かつ本人が可哀想であるという論理も成立しない以上、「本人が可哀想だから非難するのは倫理的に間違っている」という主張は前提の段階で崩せます。

以上が今回の考え事の結論です。

なんともあやふやな結論ですが、そもそも仮定の段階で私の想像で補っている箇所が多々ありますし、所詮素人の考え事の日記なのでこれくらいで良いのです。

賛否両論分かれる話ではありますが、私個人の意見ではこうですね〜

ではまた。

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