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【読書】『昨日までの世界』[上]⑤【高齢者への対応】

 社会が高齢者をどのように処遇しているか?
 子育て同様、高齢者の処遇は、現代社会においてもバリエーションがある。
 しかし、伝統的社会のあいだにみられるバリエーションは、現代社会よりもはるかに幅が広く多岐にわたる。
 高齢者の世話は理想として、如何にあるべきか、誰が担うべきかは、ナイーブな問いかけである。
 ナイーブな問いかけになってしまう最大の理由は、我々もいずれ高齢者になる、ということである。
 我々が親の世代をどう処遇してきたか。それを子どもの世代が見ている。それが自分たちの世代に返ってくる。
 この問いに完璧な答えはない。
 しかし、このナイーブな問いかけのうちに、高齢者ケアの手掛かりを求めることができる。
 理想的な高齢者ケア論のどこに、破綻の原因があるかを考察することができるからである。

伝統的社会で高齢者にできること

 伝統的社会において高齢者は、いかなるサービスを提供できるのだろうか。
 一つは若い世代が提供できる種類のサービスであり、かつ、高齢者がまだ提供できる種類のサービスである。
 そのひとつには、熟達に長年の経験が必要とされる種類のサービスであり、したがって、特に高齢者が適している種類のサービスである。
 農耕でも、狩猟採集でも、それに必要な道具の作成などがそれにあたる。
 齢を重ねた人のほうが、医療サービス、宗教サービス、娯楽サービス、人間関係の相談、政治的貢献といった分野は、大きな貢献ができる。
 若いころからの人間関係のネットワークがある。そのネットワークを利用して、自分の子どもの人間関係を広げてやることもできる。
 高齢者がもっと高齢になって、サービスを提供できなくなったら何ができるだろうか?
 それは子守りである。祖父母が子守りをすれば、子ども夫婦は育児の心配をすることなく、食料探しに専念できる。
 伝統的社会で生きる高齢者がはたせる最も重要な役割は何か。
 文字体系のない社会ではすべてが人間の記憶だよりになる。そのような社会では高齢者は生き字引なのである。だからこそ、高齢者の介助は死活問題だったのである。

高齢者に対する社会の価値観

自然淘汰と文化的淘汰では説明できない

 自然淘汰と文化的淘汰の観点で説明し、若い世代全体が高齢者の面倒を見るという理論は、まったくの楽観主義的理想論なのである。
 これは、世代間の利害対立を考慮していない。
 なぜかといえば、親がつねに、子どものために究極の犠牲を払うわけではないし、子どもがつねに親に感謝するわけではないからである。
 一例として、『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』を挙げる。

物質的側面

 考えられる要因の一つに、社会の物質的な側面の相違が影響してくる。この側面が異なるがゆえに、高齢者が社会にとって有用であるかどうかの評価も異なるからである。
 親を遺棄したり殺したりするの社会の報告例がある。高齢者の存在が深刻な足手まといになる社会の事例である。
 ひとつは、移動型の狩猟採集民のあいだにみられる理由。もうひとつは、北極圏や砂漠地帯などギリギリの食糧しか手に入らないことによる理由である。
 ちなみに、伝統的社会には嬰児殺しも存在する場合がある。伝統的社会はユートピアではない。
 集団全体を養うだけの食料を持たない社会の人々にとって、他にできる方法はないのである。余剰食糧と医療保障のある社会で生きるわれわれは、幸運なだけである。

イギリスのウィンストン・チャーチル元首相は、第二次大戦のレイテ沖海戦で究極の選択を迫られた日本海軍の栗田船長に関する記述のなかで、「同じ試練に耐え抜いた者だけが、彼を審判することができるだろう」と記している。

 われわれ自身にも同じ時が訪れる。治癒を目指した積極的な治療はもうやめにして、今後は鎮痛剤の処方や緩和ケアといった症状軽減の医療にしてほしいと告げるか否かの判断である。

家族主義

 高齢者への敬意が特に強く表れているのは、父母、先祖を敬う儒教の教えが浸透した社会である。親族集団を重視する考え方が浸透した社会である。
 それとは正反対で、現代のアメリカにおいては高齢者の地位が低い。一つ目は、引退して働かなくなると、社会的地位を失うこと。二つ目は、アメリカは個人主義的社会であること。
 他者への依存は、依存せざるを得ない高齢者にとってつらい経験である。他者に依存せざるを得ない親の姿を目にしなければならない子にとっても、胸が痛む経験である。
 アメリカ人の理想が、まわりまわって高齢のアメリカ人の自尊心を隅に追いやっている。高齢者の世話をする若い世代から、高齢者に対する敬意を奪っている。

社会規範

 社会はさまざまな要因によって、高齢者の面倒をよくみる社会と、面倒をみない社会にわかれる。
 それには、高齢者の利用価値という経済的要因が存在すれば、社会の価値観という文化的要因も存在する。
 しかも、文化的な要因は経済的な要因とは関係がない。考察で明らかになった要因はすべて究極の要因であり、一つの要因だけを取り上げて解決することは不可能なのである。
 また、日常的な決定は、むしろ社会規範に則ってなされ、特定の状況下で社会生活を営むうえで取るべき行動は社会規範に示されている。
 今日の現代社会では、伝統的社会の多くで見られるように、死後の遺産相続時まで、高齢者が自分の所有物の権利を維持し続ける。
 生前贈与をしなければ、遺書の書き換えを鼻薬に使えるからである。
 どの社会においても、基本的な規範の変更には時間がかかる。困難なプロセスが付きまとう。そして、年配者はそれに異を唱えるだけの影響力を行使できる。
 しかも、一度身についた高齢者を敬う気持ちや慣習といったものは、一夜にして消え去るものではない。

高齢者への対応は改善したか、悪化したか

 改善がみられる部分は

  • 高齢者の平均寿命が延びたこと

  • 高齢者の健康状態がはるかによくなったこと

  • 娯楽の機会がはるかに増えたこと

  • 子どもに先立たれる悲しみを経験することがはるかに減ったこと

 これらはすべて、人類史上かつてなかった出来事である。
 相殺してしまう状況もある。
 出生率の低下と高齢者生存率の上昇による少子高齢化である。人類の歴史上、社会がこれほど多くの高齢者を抱え込まなくてはならない時代は、これまで一度として存在していない。
 人口ピラミッドの逆転現象は、退職後年金を支払うシステムである社会保障制度が原資不足に陥り、やがて破綻するのではないかという危機的状況が心配されている。
 しかし、だからといって高齢者が働き続ければ、子どもや孫の世代の若年層の仕事を奪うことになりかねない。
 また、定年退職制度は、高齢者が社会から孤立してまう危険を伴う。
 高齢者向けの特別施設は、増える高齢者と成人した子どもの大半が仕事をもっているため、付き添うことができないという現代社会の現実に対処するためのものである。
 うまくいけば、高齢者は新たな人間関係を構築する場を提供できる。しかし、失敗すれば社会から孤立する。
 また、現代社会は技術革新の速い時代である。高齢者が若いころに身につけた技術が必要のないものになりやすい。知識も刷新されたり、陳腐化したりする。情報も容易に入手できるため、高齢者に頼る必要性は低下している。

高齢者にすること、高齢者がやること

 現代という時代は、人類史上かつてないほどに、人が長生きするようになり、高齢者の健康状態が向上し、高齢者を養うだけのゆとりをもてるようになった時代である。
 しかし、その反面、現代という時代は、高齢者が社会に提供可能だった伝統的価値の大半が失われ、健康なのに哀れな老後を過ごす高齢者が多くなってしまった時代である。
 ジャレド・ダイアモンドさんの提案は次の三つである。

提案1:祖父母としての伝統的役割の重要性の再認識と、その役割の復活。つまり「孫の世話」
 家庭外で働く女性が増えた結果、多くの若い親に保育問題が発生している。
 この点で祖父母の力を借りることができれば、現代の共働き夫婦が抱える保育問題の解決の一助になる可能性がある。
提案2:急速な技術革新と社会的変化への対応
 技術革新はつねに、当初期待されたメリットに加え、予想外の問題をももたらしうる。便利になる、公害が減る、と思ったら、別の問題が発生することはよくあることである。
 高齢者は、現在よくある情報とはまったく異なる状況を実体験しており、その対処法を記憶している。
提案3:加齢にともなう心身の変化、心身の強みと弱みの変化を理解し、いかにうまく活用するか

 データや証拠があるわけはない挙句、個人差もあるので、具体的な例を挙げると危険性はあるが、加齢とともに下降する心身の属性には、熱意、競争心、体力および持久力、集中維持力、問題解決のための論理的思考の構築力、などがある。
 一方で、加齢とともに向上する能力もある。専門分野に関わる知見や経験、人間や人間関係についての理解力、自分のエゴを抑えて他人を助ける力、多面的知識データベースが関与する複雑な問題解決のための学際的思考の組み合わせ力、などがある。
 そこから得られる結論は、高齢者に若い労働者と同じことをさせることでもない。もちろん、一定の年齢になったら強制的に退職させることでもない。
 社会全体としてなすべきことは、高齢者が得意とし、かつ、やりたい仕事を高齢者に任せることである。

 個人としてできることは何か?
 自分を見つめなおし、自己の変化を認め、自分にいまある才能が活用できる仕事を見つけることである。
 それができるようになるためには「若いころからの積み重ね」しかない。
 「年齢が上だから」という理由だけのことしか子どもたちの世代にできることがないのであれば、子どもの世代から疎まれるだけである。
 ましてや、同世代には相手にされない。
 私たちが、今現在身につけている技術、覚えている知識が、10年後には役に立たなくなっているかもしれない。
 しかし、どうやって技術を身につけたか、どうやって知識を覚えたか、どうやって対処してきたか、の経験は子どもたちの世代に伝えられるものである。その重要性は変わらない。

 過去には高齢者を活用し、暮らしやすい環境を高齢者に提供できていた社会が多数存在し、今の時代のわれわれよりもそれを上手におこなっていたのである。
 われわれもまた、よりよい解決策をみいだすことができるはずである。
 それが、我々にできないはずはない。十分な食料があり、医療技術が向上し、健康でいられる時間も長くなっているのだから。


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