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幽谷霧子における「物語」について

 本エントリではアイドルマスター シャイニーカラーズに登場するアイドル・幽谷霧子における「物語」について理解を深めることを目指す。限定アイドル、信頼度ボイスのネタバレを含むので、予めご注意いただきたい。


幽谷霧子と「物語」

 アイドルマスター シャイニーカラーズ(シャニマス)のプレイヤーにはよく知られているように、幽谷霧子(以下、霧子)はりんごや風船、接着剤など生物・非生物を問わず「さん」を付けてその存在を慈しむことがある。
 霧子が何かに「さん」を付ける基準については、シャニマス制作プロデューサーの高山氏が下記のインタビュー記事において既に説明を与えている。

高山さん:別に言いたくないということではないんですが、気になっている方が多いのであれば。霧子が“さん”付けをする定義って、霧子が物語性を感じたかどうかという部分が大きいんです。たいていは、霧子の対話の対象になったかどうかというところですね。
 ひとつわかりやすい例を出すとすると、ただ置いてあるリンゴはリンゴですけど、恋鐘が持ってきたリンゴで、それがピカピカに磨かれているリンゴだったら、霧子のなかでそれは“恋鐘ちゃんと旅してきたリンゴさん”になります。
――なるほど! リンゴという点では同じだったとしても、すべて“さん”付けで呼ぶとは限らないと。
高山さん:はい。ここは、ものすごく厳密に決めているわけではありません。霧子も人間ですので、主観で判断して、付ける時もあれば付けない時もあります。“さん”を付ける時は、大体は対話の対象と見なしているという感じです。

https://dengekionline.com/articles/31142/

 ここで気になるのは「物語性」という言葉と「対話の対象」という基準だ。まず、「物語性」という言葉が精確にはどういう意味なのか、この記述だけからは必ずしも明らかではないだろう。また、「対話の対象」という基準もこれだけでは不十分だ。なぜなら、この基準だけではたとえば恋鐘、摩美々、咲耶、結華といったアンティーカのメンバーたちも霧子にとって対話の対象にはなるのだから、りんごや風船、接着剤などと同様に「さん」付けを伴う態度で迎えられることになるはずだが、後述する「ストーリー・ストーリー」において見られるように、明らかに霧子は恋鐘、摩美々、咲耶、結華たちの存在をりんごや風船、接着剤などとは同列に見ていない。
 ここには「物語性」と「対話の対象」にかんして、より理解を深める余地があると思われる。以下では、そのヒントとなるような霧子の発言を一つずつ確かめていくことで、「物語性」の輪郭を浮かび上がらせていきたい。

①霧子は「さん」付けされた対象が話さないことを自覚している

「信頼度Lv.9ボイス」より

 霧子をよくプロデュースしているプレイヤーには知られているように、霧子は「さん」付けされた対象が現実には話さないことを自覚している。それはあくまで、霧子にとって「そうだったらいいな」という祈りに他ならない。

【縷・縷・屡・来】「くる」より

 ここで、現実には話さないという意味で、霧子のこのふるまいは虚構的であるという言い方をすることも許されないわけではないだろう。この虚構的であるという点は後述する「ストーリー・ストーリー」における霧子の発言に関係してくるように思われる。

②生きてることは物語じゃない

”ストーリー・ストーリー” エンディング「家の物語の話」より

 アンティーカのシナリオイベント「ストーリー・ストーリー」(2020/04/30)におけるこの発言は、霧子やアンティーカのプロデューサーという枠組みを超えて、シャニマスプレイヤーに幅広く知られている文言かもしれない。この霧子の発言の文脈は以下のようなものだ。
 人気のいわゆるリアリティショー番組に抜擢されたアンティーカのメンバーのうち摩美々、咲耶、霧子の高校生組はとある事情から少しでも視聴率を稼いで出演期間を長くしようと奮闘するが、それがかえって裏目に出てしまい、その様子がテレビマンの論理によって本人たちの意図しない編集を加えられて放映されてしまった。アンティーカはテレビの作る「ストーリー」をあてがわれてしまったのだ。

”ストーリー・ストーリー”「もうすぐ帰ります2」より

 仕事としてアンティーカのメンバーとの共同生活を送れることを楽しみにしていた霧子は、自分たちで逆に「ストーリー」をつくろうと提案する。ここで霧子は「絵本の時みたいに」という発言をしている。

”ストーリー・ストーリー”「もうすぐ帰ります2」より

 これはシナリオイベント「十五夜「おもちをつこう」」(2019/08/31)での出来事を念頭に置いているのだろう。「十五夜「おもちをつこう」」では、ボランティアで十五夜のおはなし会の読み聞かせをすることになった霧子がアンティーカのメンバーたちの手助けを受けながらオリジナルの絵本を創作していった。絵本にはアンティーカのメンバーたちを模したうさぎが現実での出来事をモチーフにする形で一匹、また一匹とお話に加わっていったのだった。
 このとき、アンティーカのメンバーは霧子に対する真心から霧子のために奔走したはずだ。それはアンティーカの自然体だったのである。
 霧子の言う「ストーリー」をつくるとは、自然体のアンティーカの姿がそのままテレビの論理にも適うような「ストーリー」になりうる、という意味だったのだと理解できる。事実として、霧子のそのような狙いは的中した。

”ストーリー・ストーリー” エンディング「家の物語の話」より

 しかし、問題はここからだ。ここまでは「生きてることは物語じゃない」という霧子の発言を理解するための準備に過ぎない。霧子はまさにこの後、以下のような文脈で、この発言をしたのだ。

摩美々「……はぁ、走りながらのパンは無理ー」
咲耶「フフ、もう……カメラはいないよ……つらいなら……無理することはないさ……」
摩美々「まぁ……そうしたいケドー……」
摩美々「――カメラの外でも……嘘じゃない……ストーリーに……するんで
ー……」
咲耶「……摩美々」
霧子「ふふっ……摩美々ちゃん………………」
霧子「大丈夫…………」
霧子「生きてることは……物語じゃ……ないから…………」
霧子「わたしたちが……わたしたちなら……」
霧子「ほんとは……」
霧子「どこにも……嘘なんて……――――」

”ストーリー・ストーリー” エンディング「家の物語の話」より

 摩美々の「ストーリー」発言を受けて霧子は「生きてることは物語じゃない」と応答した。したがって、霧子において、「ストーリー」と「物語」という言葉は互換可能なものであると理解して差し支えないであろう。しかし、そうだとすると、上記で見た霧子の「ストーリー」をつくろうという発言、そしてその基礎にあるはずの霧子の「ストーリー」(=「物語」)という言葉の理解と齟齬をきたすことになるのではないか。というのも、テキストから、霧子は自然体のアンティーカが「ストーリー」になりうるという意図の発言をしていたはずだと十分に理解できたのだから。
 一方で霧子は《自然体のアンティーカが「ストーリー」になりうる》と考えている。他方で霧子は《生きてることは物語(=「ストーリー」)じゃない》とも考えている。ここには一見したところ矛盾があるように思われる。
 実に、本エントリの本題はここからだ。以下では、この一見したところの矛盾を解消するような「物語」の解釈を提示する。そして、その解釈の下で見える霧子の風景について、その跡を辿っていく。

幽谷霧子の「物語」を定式化する

 結論から言えば、上で見た矛盾を解消するひとつの解釈は、そこで使われている「物語」(=「ストーリー」)という言葉の意味が多義的であったというものとなる。
・《自然体のアンティーカが「ストーリー」になりうる》
・《生きてることは物語(=「ストーリー」)じゃない》
すなわち、実は前者と後者において、別の意味で「物語」(=「ストーリー」)という言葉を使っていたと考えられるのだ。
 この解釈の根拠として、まず①で見た、霧子は「さん」付けされた対象が現実には話さないことを自覚しているという点が挙げられる。ここで、既に確認した高山氏の記述を思い出そう。そこでは霧子が「物語性」を感じたかどうかが「さん」付けの大きなポイントであると言われていた。高山氏はあくまでこの世界に生きる人物であり、霧子の生きる世界との直接の連絡はないとはいえ、高山氏のいう「物語性」と霧子のいう「物語」とが密接な関係にあることは疑い得ないだろう。そして、①で確認したように、霧子の「さん」付けに関係するふるまいは虚構的であると言えるのだった。虚構的であるとは、一歩踏み込んだ言い方をすれば、実際には心が無いものにまるで心があるかのようにふるまっているということである。さて、ここで得られた理解は《生きてることは物語(=「ストーリー」)じゃない》という言明と符合する。霧子は実際には心が無いものには物語(性)を見出すが、実際に心がある(生きている)ものは物語を生きていないと考えている、という一つの理解が得られるのである。
 もちろん、これに対して、植物や赤ちゃんは生きているのに霧子は「さん」付けしているじゃないか、という指摘も可能だ。この指摘に対しては、この霧子の「生きてる」とは「対話の対象」になるくらい知能が発達している、言い換えれば自我がある(意識があることを自覚している)ことを意味している、といった応答をすればひとまず十分であろう。
 以上の解釈が得られたとき、もう一方の《自然体のアンティーカが「ストーリー」になりうる》というときの「ストーリー」の意味はどう理解できるだろうか。こちらはおそらく、テレビの論理における「ストーリー」を霧子が引用するような形で仮に使っただけなのだと理解することができる。
 さて、ここまで「物語(性)」の内実についてはひとまず等閑視して議論を進めてきたが、このあたりでそのヒントとなるような霧子の発言と出来事を見ていきたい。

③「さん」付けされた対象は旅をすることができる

【夕・音・鳴・鳴】「われたよ」より

 先述の高山氏の説明においても「旅」という言葉が使われている(「恋鐘ちゃんと旅してきたリンゴさん」)。一般的に言って、旅とは時間経過の中で出来事の連関を経験していくこと、という理解ができる。また、その過程で何かを感じ、考えることもあるだろう。そうすると、霧子における「物語」の一般的な特徴付けとして、その対象が時間経過の中で特定の出来事の連関の中に位置づけられ、何かを感じたり考えたりすることの総体、という理解が出てくる。この理解は私たちが一般的に「物語」という言葉を使って意味していることとそれほど乖離してはいないだろう。
 それでは、テレビの論理における「ストーリー」はどのような意味か。「ストーリー・ストーリー」においてアンティーカにあてがわれた「ストーリー」とは、結華が高校生組を本気で責めるほどメンバーの雰囲気がギスギスしたものだった、というようなものだった。この「ストーリー」はメンバーの表情を他の場面から切り取ってきたり、結華の発言の文脈を意図的に編集したりして作られたものだった。その結果、アンティーカのメンバーたちが何を感じ、考えているのかにかんして、印象操作を誘導するような映像が放映されてしまったのだ。こうしてみると、テレビの論理における「ストーリー」の内実も、霧子における「物語」のそれとそれほど違いはないという理解ができる。
 さて、ここまでの議論を踏まえて、霧子における「物語」の定式化をしてみたい。

霧子における「物語」
(1) その対象が時間経過の中で特定の出来事の連関の中に位置づけられ、何かを感じたり考えたりすることの総体である。
(2) (1)は虚構である。すなわち、その対象は実際には心は無い(何かを感じたり考えたりすることはない)。

 これとは対照的に、テレビの論理における「ストーリー」は(2)が無いということになる。すなわち、それは心があるものにもあてがうことができる。
 ここにおいて、先に見た「対話の対象」基準の不十分さを埋めることができる。高山氏の説明を文字通り受け取るならば、たとえばアンティーカのメンバーだって霧子にとって「対話の対象」にはなるのだから、りんごや風船、接着剤などと同列の態度でもって向かわれていることになってしまうが、実際にはそうはなっていないように見える。そのことが顕著に表れているのが、「ストーリー・ストーリ」における以下の霧子の一連の発言だった。

霧子「生きてることは……物語じゃ……ないから…………」
霧子「わたしたちが……わたしたちなら……」
霧子「ほんとは……」
霧子「どこにも……嘘なんて……――――」

”ストーリー・ストーリー” エンディング「家の物語の話」より(再掲)

 ここで霧子は摩美々(や少なくとも他のアンティーカのメンバー)が生きていることを当然視しているように思われる。言い換えるならば、摩美々や少なくとも他のアンティーカのメンバーには心がある。だから、物語を生きていないのである。上で定式化した霧子の「物語」理解によれば、このように理解することができる。すなわち、高山氏の説明における不十分さとは、上の定式化における(2)の欠落だったということになる。
 しかし、ここで二つの疑問が浮かぶだろう。霧子は心あるものが「物語」を生きてはいないと考えている。しかし、「物語」が「その対象が時間経過の中で特定の出来事の連関の中に位置づけられ、何かを感じたり考えたりすることの総体」であるとするならば、それを生きていない「」とは一体何なのだろうか。次に、霧子は(少なくとも)アンティーカのメンバーには心があることを当然視しているように見えるが、他方で、Landing Point編(2021/6/11)で見られたように、AIロボットのような高度な知性(計算能力)を有するエージェントには心が無いと考えている。この差は一体何に起因するのだろうか。

Landing Point編「それはなあに」より

幽谷霧子の見る風景

 結論から言うならば、前者の疑問に答えるためには、筆者は哲学の概念を持ち出さなければならない。それは実存だ。「実存は本質に先立つ」という言葉を聞いたことがあるプレイヤーもいるだろう。実存とは、現実に内側から個人を生きてしまっていること、という理解を与えることができるだろう。それは様々な属性に先立ってそうなってしまっている。たとえば、男性の身体をもつ人は自分が女性の身体をもつことも想像できるだろう。あるいは、日本に生まれた人は、自分がアメリカに生まれた可能性も想像できるだろう。このように、自分が有する様々な属性は自分の存在にとって厳密な意味で不可欠ではない。しかし、そうやって想像しているこの自分は絶対になくてはならないものだ。なぜなら、それが無いということは無に等しいからだ。この意味において、実存は「物語」を生きてはいないと言うことができる。
 このとき、「ストーリー・ストーリー」において、霧子はテレビの論理に抵抗して、「生きてること」についての別の捉え方を提示していることになる。テレビの論理における「ストーリー」には上記の定式化の(2)が欠落していると考えられるのだった。このことは、そのまま「生きてること」の捉え方にも効いてくる。すなわち、「物語」をあてがうことができるような「生きてること」、あるいは「物語」そのものが「生きてること」であるという捉え方だ。
 霧子のこの抵抗はテレビの論理にとどまらない。アイドルとして観衆の視線にさらされる霧子は、否応なしに様々な属性をそこに投影される。

Landing Point編「心があるところ」より

 霧子に「物語」をあてがう「生きてること」の捉え方に負けないで欲しいとただ願うボイストレーナーとプロデューサーの想いとは裏腹に、霧子は既にそうではない「生きてること」の地平に立って、「物語」に対して毅然として抵抗しているとも解釈できることになる。
 とはいえ、もちろん、霧子は「物語」の存在を否定しているわけではないことは明白だ。一方で心が無い対象に「物語」を見出しつつ、他方で心があるものは「物語」を生きていないという地平に立っている。「物語」をめぐる緊張関係の中に霧子は生きているのである。この独特のバランス感覚こそが、霧子のもつ深い魅力の一つであろう。
 後者の疑問には、霧子の三つのPアイドル、【琴・禽・空・華】、【縷・縷・屡・来】、【窓・送・巡・歌】を見ることで迫っていきたい。

【琴・禽・空・華】(2021/02/28)
【縷・縷・屡・来】(2022/08/19)
【窓・送・巡・歌】(2023/09/11)

 霧子は心がある/無いということを何によって判断しているのだろうか。この点について、興味深いのが【琴・禽・空・華】における「半分だけ生きてる」という霧子の発言だ。

【琴・禽・空・華】「ha ka」より

 注意したいのは、ここで霧子が「半分だけ生きてる」としているのが「さん」付けの対象である小鳥だという点だ。すなわち、これまでの議論を踏まえるならば、ここで霧子は心が無い対象に心を措定した上で、想定上の死によって措定された心が無くなったと言える一方で、誰かに思い出してもらえているという点で心はまだ措定されているとも言えるので、「半分だけ生きてる」と言うことができる、という判断をしているように思われる。
 ここには、《心の措定》→《肉体の死による措定された心の想定上の消滅》→《消滅した心の再びの限定的な措定》という複雑な思考が生成されていると理解できる。
 このような思考の生成とリンクするのが、順序は前後するが、【窓・送・巡・歌】における霧子のふるまいである。

【窓・送・巡・歌】「窓を開ける人」より

 霧子はここで、実在した故人が蝶の姿となってかつての自分の家に帰ってきたと想像している。ここで特筆すべきは、実在した故人は生前、「さん」付けの対象ではなかったはずだという点だ。したがって、このとき霧子は「物語」を生きていない実在の人物は死んだら「物語」を託される存在になると判断しているのだと読みとれる。
 心の無い対象は肉体が死ぬことによって措定された心も想定上の死を迎える(とも言える)のに対して、心のあるものは肉体が死ぬことによって逆に「物語」が措定されるようになる。ここには心の無い対象と心のあるものが交差する対照的なあわいがあるように思われる。
 あるいは、小鳥の場合は措定された心が無くなった水準において思い出されることにより「半分だけ生きてる」状態に定位しているのに対して、実在した故人の場合は元々心あるものが死んだ水準において思い出されることにより「物語」を託される状態に定位していることになるとも言えるだろう。さて、この状態に定位している実在した故人を「半分だけ生きてる」と言うことはできるだろうか。ここには心の無い対象と心のあるものが同型性を示す接点があるように思われる。
 後者の疑問、すなわち、霧子が心がある/無いということをいかなる基準にもとづいて判断しているのかという点について、現状、本エントリの到達点はここまでとなる。両者のあわい、あるいは接点をよく見ようとする試みによって、ぼんやりとした形であれ、両者の微妙な関係を描写することに貢献できていると信じたい。
 最後に、これまでの議論の前提を返すような論点について触れておきたい。これまで、霧子の「さん」付け、すなわち「物語」を措定するふるまいは虚構的であるという前提に立って理解を進めてきた。しかし、【縷・縷・屡・来】において、霧子は一見したところ虚構的であるとは思えないような経験をしている。それは海での撮影時、霧子が見た(とされる)ビジョンである。

【縷・縷・屡・来】「いる」より

 この経験は一見したところ、霧子の虚構的な想像によるものではないように思われる。霧子の意図とは独立に、実際に何かに「出会った」のだとしたら、その経験を虚構的であると断言することは難しい。
 ここにも、先に確認した心がある/無いという境界のはざまに位置づけられるような世界の見えがあるように思われる。霧子の見る風景は開かれているのである。

 ここまで、幽谷霧子における「物語」について、できる限りテキスト上の霧子のふるまいにもとづいて解釈を進めてきた。しかし、本エントリの議論を踏まえるならば、この解釈それ自体が霧子に「物語」を託していることにはならないだろうか。誠実に解釈を進めようとするならば、そのことにも自覚的でなければならない。すなわち、本エントリの議論に従うならば、本エントリが霧子の「心」に届くことはない。しかし、そのことが分かっただけでも、本エントリを執筆した意義があると思いたい。

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