#41 元気な挨拶が消えていく

幼稚園や保育園、小学校の頃から、人に挨拶をするように強く教育される。

朝には「おはようございます」、昼なら「こんにちは」、夜なら「こんばんは」、何かしてもらう前は「よろしくお願いします」、してもらった後は「ありがとうございます」、周りに迷惑をかけてしまった時は「ごめんなさい」といったような挨拶は基本的にどの世界にいても大事なので十分教育することは良いことだと思う。

しかしながら、年を取るにつれ、挨拶に対する指導が減るからなのか、挨拶の頻度が下がったり挨拶したとしても覇気がなくなっていく。

あんなに熱心に指導されていた挨拶ができなくなっていくのは何故なのだろうか。

まず、挨拶をした方が良い場合としない方が良い場合の判断が求められるということを思いついた。

挨拶をしない方が良い場合として、知らない人に対してはまずしないだろう。挨拶は自分と関係のある人に限りするものである。ただ、関係のある人の定義が難しい。直接話すような関係にはないが、同じ集団や組織に所属している可能性が高い場合や、外部からのお客様は挨拶しないと失礼になってしまう。パッと見だと関係のない人だと思ってしまうから、いざ挨拶しようとすると反射的に挨拶が出てこない場合があるので困っている。

また、挨拶しない場合には、何度も挨拶してはいけないというものもある。これは、中学生の頃に教わった。同じ日に同じ会場にいる同一の関係者にすれ違うたびに挨拶してしまうと、挨拶された側としては、相手のことを認識せずに適当に挨拶しているように捉えられる可能性があるらしい。それから、私は気をつけているが、2回目以降にすれ違った場合は無言で済ませれば良いのだろうか。それはそれで気まずいのでどうすれば良いか悩んでしまう。

また、これは予備校や大学の講義などでよく見られるが、先生が教室に入ってきた時に挨拶しない場合がほとんどである。他の人が挨拶していないのに、自分だけ挨拶するのも変なのかもしれないと思ってから挨拶はしてない。そういった授業は大人数だから挨拶しないのだろうか。自分は挨拶した方が良いと思うが、一度挨拶しない方向を傾けてしまうと中々治らない。場面ごとの挨拶の有無を判断することは難しい。

少し話は逸れるが、近しい関係同士での挨拶の幅が狭い事も気になる。先日、駅で同じ大学の学科の人たちと待ち合わせていた時、「おはよう」と声を掛けられたが、その時の時刻は午後4時前だった。

普通に考えれば時間帯に合っていないが、おはよう以外の時間帯での挨拶表現はタメ口的なものがなく仕方なくおはようを使ったのだろうか。その代わりとして、アルバイトでよく使われる「お疲れ様です」をフランクにして「お疲れ」というように同級生同士で挨拶として使うことがある。仕事っぽくて少し違和感があるものの、フランクかつ時間帯に縛られないため一番無難な挨拶である。

以上のように、大人になるにつれ、その場での雰囲気や言い回しなどに気を取られ、小学生の頃のように純粋な気持ちで挨拶ができなくなってきていた。最終的には、相手に対して気持ちを持って大きな声で挨拶することが大事なんだが、私はそれを忘れかけているような気がした。

そんなんである意味癖がついて反射的にはっきりと挨拶することができなくなってきている。とりあえず、まずは大きな声で挨拶できるように初心を思い出したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?