#23 鬼ごっこをあんまり楽しくないなと思っていた

最近、外出して歩いていると、鬼ごっこをしている人たちがいた。小さい子を想像するだろうが、このときは高校生以上っぽい人たちが鬼ごっこで走り回っていた。とても楽しそうな様子であったが、私は別に参加しようという気にはならなかった。そういえば、私は小さい頃から鬼ごっこ系の遊びは好みではなかったということを思い出した。

鬼ごっこでは一定数の鬼が他の人をタッチするべく走って追いかけ回るという至ってシンプルなルールだ。ルールが簡単な遊びやゲームというのは自由が効くので、通常ならば膨らみを持ちやすく楽しくなるはずだが、鬼ごっこは違う。鬼ごっこの場合は、単純すぎてあまり面白みを感じない。

基本ただ走るだけというのが結構退屈なのである。走るというだけなら良いのだが、目指すべき目的地点やゴールが設定されておらず、またコースも真っ直ぐに定められているわけでなく、ただただ広い場所をくねくねしながら走るというのがつまらないと感じる。言い換えると、共通の条件みたいなものがないから方向性が明確に提示されていないのだろう。

例えば、徒競走やリレーの場合、走るべきコースやゴール、時間が揃えられており共通の条件の中で目指すべき目標がはっきりとしているから、そこに向かって集中して力を発揮しようと思えるし、それが面白いと感じる。

鬼ごっこでは、目指すべき目標が目の前にない代わりにひたすら追いかけられる。追いかけられるタイミングも自分で決められないし、体力が尽きるまでずっと追いかけられる場合もある。反対に、鬼の場合も、自分よりはるかに足が速い人を追いかけることになれば、どうせ追いつかないだろうという諦めを抱えつつ走り続けなければならず、それはそれできついものがある。

徒競走やリレーでは自分の最大限を出せばよいが、鬼ごっこは相手の走るスピードに振り回されるので体力も精神面でも削られやすいのではないか。鬼の場合であれば中々捕まえることができずに精神面がすり減っていき追いかけるのを諦めると、やる気がないと思われたり楽しんでいないと思われたりするかもしれないので一生懸命頑張るしかない(楽しめてないのは事実だが)。

この状況は既視感があると思ったら、私のここ数年だとわかった。自由度が広がり人生で決められたコースや条件が減っていくことで自分のやりたいようにできるから良い環境のように一見考えられるが、私はその中で目標を持つことができず、社会の中に漠然と存在する鬼に追いかけられて生きていることに気がついた。つまり、他者から社会からそういう雰囲気を勝手に感じてそれに失敗することを恐れ逃げ続けているのだ。いや、実はレールを探しているんだけれど一定の年齢以上になったら目の前のレールではなく後ろに漠然とした鬼が生成されるようになっており、レールがない状態で後ろから自分自身が誕生させた圧力に追いかけ回されているということなのだろう。この状態から脱却するためには、付け焼き刃ではない心の底からの目標や目的地が欲しい。

一方で、私は基本的に球技をするのは好きだ。卓球やテニスなどの個人スポーツでもラグビーやサッカーのようなチームスポーツでも、その競技の参加者全員が味方敵を問わず、その競技で用いられる一つの球に集中しているというのが一体感を感じることができて好きなのであろう。しかも、バスケやサッカー、ラグビーなどはチームで目指すべきゴールがあるため向かうべき場所がはっきりしており集中力を発揮しやすいというのもお気に入りの点である。

そうはいっても、鬼ごっこの延長戦に存在するドロケイや氷鬼も捕まった仲間を救うという目標があるではないかということになるが、目標はその時々で変化しない方が集中しやすい。実際、球技ではゴールは前後半でコートチェンジの時に反対側になるくらいで試合の中で何度も変更されることはない。攻守の方向性がはっきりしている。

ただ、鬼ごっこの延長戦の中でも、色鬼と隠れ鬼、缶蹴りは好きだった。色鬼は言語面と物理的空間面で、隠れ鬼は物理的空間面と忍耐面で思考力を使う。その思考力の中ではオリジナル性を発揮することも可能であるため楽しいと感じる。缶蹴りは缶という物体を扱う点では球技に似たものがあるので楽しめるのだろう。

こうしてみると、私の好みでないドロケイや氷鬼は仲間意識での目標があるものの直接的な気がする。球技や缶蹴りは有形のモノを媒介して目標や仲間意識を共有している。色鬼や隠れ鬼はオリジナリティを発揮することができる。仲間意識は間接的な方が受け止めやすいのだろうか。

だから日々の活動でも仲良くなろうという目的を直接掲げるような集まりよりも、グループで何か課題に取り組んだり作業で協力する状況に参加した方が仲が深まる気がする。しかしながら、社会に出ると、前者の機会の方が多くなるように感じる。

私は自由よりもある程度条件が拘束されていた方が能力を発揮できるのだろうか。でも自分で目標を設定できないとAIに仕事をとられてしまう気がする。時間がたっぷりある学生だからこんな悠長なことを言っていられるのだろうか。


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