しねない毎日

実家で猫を眺めて暮らしている。
活発な性格の猫だが、北国生まれの品種がミックスされた長毛種なので日本の夏の気温には適さない。暑い日は玄関の化粧板の上で伸びて暮らし、少し気温が下がると家中を探索して回る。
自宅警備員、なんて言葉が近年では子供部屋おじさん、子供部屋おばさんに代わったが、たしかに人間の無職は猫ほど熱心に自宅を警備していない。猫は空きっぱなしの引き出しがあれば登り、置きっぱなしの物品を蹴飛ばして壊し、家具の隙間の埃という埃を引き摺り出してリビングにお披露目する。果ては、鞄に入れっぱなしのレシートまで引っ張り出して見せしめのように破く。
猫のいる家は実に整然とする。そうでない代償が大きすぎるからだ。

私は現在、うつが再発して休職をしている。ひどい金縛りにあったことがあるだろうか。簡単に言うと私はひどい金縛りで会社を休んでいる。アラサーと呼ばれる年まで、職場でもプライベートでも、人並みの不幸しか経験していないのにも関わらず、診断はうつだった。結局は生まれつきの性分なんだろう。タバコも酒も人並みにしかやらないのに癌になる人間がいるように、不運だと諦める他ないと思っている。

ほんとうに、単に脳が壊れたんだなあ、と思う。
実はこのnoteは2ヶ月ほど放置していて、書き始めた時のタイトルは"30歳でバズらなければ死のう"だった。5月の私は、まさに死ぬ気で文を書こうと思っていて、どんな手を使ってでも不特定多数の人間に読まれたくて、理解されたくて、そんな記事の構想がいくつもあった。さらに、実際に私は毎日Twitterで実況、宣伝、主張と様々なアウトプットしていて長年の癖になっていた。ツイートは年々、長く、強い言葉になっていったように思う。そのモチベーションは、他者からの承認の果てない渇望だった。
それが突然なくなった。特段潤ったわけでもないのにその渇望が知覚できなくなったというのは、やはり故障としか思えない。今は"書いたところで"とのしかかる怠惰と押し合いながら、"理解されたとて"と書いている。この焦りのなさ、欲求の弱まりは禅的生活に近いと言えなくもないが、ああ働いている時から随分遠くに来てしまったなあ、という実感がある。安楽なだあと思う一方で、生産的な社会に戻れるのかぼんやりした不安が、ある。

2023年7月現在、イーロン・マスク氏の改革によってTwitterが無課金ユーザーにかなり使いにくいツールとなったようだ。彼はTwitterヘビーユーザーに諭す。

https://twitter.com/elonmusk/status/1675365001836593154?s=46&t=57TzoI7Bq-ZJltornB6pMg

"あなたは深いトランス状態から目覚め、スマートフォンを手放し、友達や家族と時間を共にするだろう─"

深いトランス状態。SNSに張り付くことで得られる、承認欲求だとか、好奇心だとか、闘争心、虚栄心、そう言う事を指しているのだろう。もちろん、これらの社会的欲求が行き過ぎることは問題だろう。そう言った意図の指摘だと思う。
「まあ何事もバランスだよね〜」と言うのは簡単だが、実際問題はほとんどの人がそんな事を言うことで、"バランスよく社会生活を送れちゃってる自分"を虚飾し、自己顕示している。均等を取れてる人なんて本当は居ないんじゃないかとすら思う。
少なくとも私はSNSで笑い話にすることありきで苦労を耐え、クリエイティブな趣味ではSNSを通して見られることを考えてスキルを磨いてきた。今の職場も友人もスキルも全て、社会的欲求によって得てきたものだ。

そんな訳だから、どう歩けばいいのか分からないし、どうすればよかったのか分からない。

いま、Twitterという私が長らくいた社会の一つが揺らいでいて、私自身も立ち消えそうに心細い。そんな状態だからこそ書けることがあるんじゃあないかとか、書くことに意味があったりしないかと、浅はかな期待をしている。現世に未練がある分だけ、書こうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?