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国立小学校受験に向かってまた立ち上がる

「それはいつ!?何年何月何日、地球が何回回ったら?」

反抗期を迎えたばかりの少年のような言い方で中年は激怒した。
「まだ発表が残っているじゃん。希望は捨てたくないよ。」
夫がそう言ったからだ。

私は願書を書く手を止めてありったけの「いつ」を聞いた。
こんなふうに明確な日程を示してくれと叫んだのは、20代の頃大好きだった彼にフラれたとき以来だ。
あの時は友人がかけてくれた「またいい人が必ず現れるよ」の言葉に対して叫んだのだ。
希望的観測はいらない。確実なことを教えてと迫っていたあの頃の私は今、これから発表がある小学校受験の結果に対してそう叫んでいる。

軒並みご縁ナシの灰色の画面を見続けて、私の辞書から「希望」の文字は消えていた。
まだ発表があるにも関わらず、残るは国立小学校しかない、でも抽選なんて無理に決まっている、と自分の中で決めつけていた。だから何か前に進まなくてはいけない気がして、国立小学校受験の直前講座に追加で申し込みをした。さらには今まで通ったことのないお教室にまでも。

次に手あたり次第に過去問を購入した。何でもいいから課金をすることで少し気持ちが落ち着くが、まだ足りない。もっともっと…私が動いていなければいけないのではないかという強迫観念に駆られていたのだろう。

たまたま見学や説明会に行った考査日の遅い私立小学校があった。
偶然目に入ってきた説明会。家からは少し遠い駅にあるその学校にふと行ってみようと思ったのはもしかしたら偶然では無かったのかもしれない。

東京の考査日は、天現寺や江田を除けば11月1日から7日くらいまでに集中している。志望度が高い学校をその早い段階に受けて、万が一のことがあったらそこに出願をしようと考えていたのだ。
まずはとにかく入金を。すぐにミライコンパスで出願だけはする。不思議とその入金をするだけで少し安心するのがこの小学校受験のいわゆる「課金沼」と言われる一因なのかもしれない。
さあこれからまた願書の作成にとりかからなくてはいけない。居てもたってもいられなくなり、パソコンを立ち上げて一心不乱に願書を書き始めていた。
ここまで願書を書き続けてきた悪い癖、いや、もはや職人技のような力が漲ってきて不思議なことに結構手だけは動くのだ。なお、内容は驚くほど薄っぺらい。
二次募集もあるみたいだ。同時並行でそれも調べていくが、「IB…だと?バカ…ロレアだと?」知らない単語が出てきてしまい、不安がBAI(倍)増したため、ブラウザの「×」ボタンを押してそっと閉じた。

いま私は「セルフあしたのジョー」状態。立ち上がる力なんてないのに、「立て立つんだジョー!」と己から言われ続けている。私はジョーでもあり、段平でもある。
まだ全て結果が出そろっていないので「バカッ!まだ立つな!エイト・カウントまで休んどれ」と言いたい自分と、「見ろ…まだジョーは試合を捨てちゃいねぇ」と言い出す自分。多重人格のような状態。もうメンタルがぐちゃぐちゃなのだ。それなのに何とか立ち上がろうとしている。

ドリカムの歌で「何度でも何度でも立ち上がり呼ぶよ」という歌詞があったが、誰もが何度でも立ち上がれるわけではない。立ち上がれないときだってあるのだ。本当のことを言えば、もう不の文字も灰色の画面も見たくない。
何度でも何度でも胸がえぐられて泣くよなのだ。
それでも立ち上がりたい気持ちが少しでも残っているから、それを最後の燃料にしてよろよろと這うのしかできなかった。

そんな状態で新たな願書を書いてきたときに、夫の冒頭のこの言葉。思わず叫んでしまった。

「私は1つでも合格を見せてあげたい。たとえ進学しなかったとしても。国立は抽選があるんだよ。だめだったらそれも含めてご縁だよね、なんて今はどうしても言えない、思えない!」

大声で叫んだ。立ち上がる気力はないくせに声だけは張れる。学生時代に和民や白木屋で飲んだときに大声でオーダーしないと店員さんに届かなかったから、自然と腹から声を出す人間にいつの間にかなっていた。

普段は何も言わない夫がこう言った。

「よく書けるなと思う」

その声色は嫌味ではなく賞賛でもなく、もう立ち上がる気力の無いひとのそれに聞こえて、ハッとして夫の方を見た。

「とても素敵な子だと心から思う。希望は捨てたくない。」

普段は何も気持ちを露にせず、良くも悪くも凪のようにその場に佇んでいる夫がそう言った。その目には涙が溜まっていた。

「わかった」

それしか言えなかった。人の感情をこれほどまでに揺さぶる小受はどれだけのものなのか、改めて考えさせられた。

「子どものことになると自分のことよりずっとずっと辛い」

きっとこの一言に尽きるのだと思う。

いま考えている熱望校は果たして子どもにとっても熱望している学校なのだろうか。我が家の場合は、‘親が’子どものことを考えたらきっとここが良いと信じて熱望している学校だ。

子どもからしたら、どこへ行ったとしてもピカピカの一年生に必ずなれる。これだけは絶対だ。
子どもの視座からそこを覗いてみたら、進学した学校が自分の社会の全てとなり、きっとそこで楽しむことができるはずだ。
むしろどこへ行っても楽しめる力を身につけさせるのが、私の親としての役目なのではないか。あれだけ家庭の教育方針を考えて、願書には何とかして字ズラが良いことを並べたのに、きっと探していたのはこんなシンプルな答えだったのだ。恥ずかしいことにやっと今気が付いた。

一心不乱に願書を書く手を止めて、覚悟を決めた。もう残る国立に集中しよう。

気を緩めると涙が零れ落ちてしまうけれど、立て、立つんだジョー。

そういえばあんなに有名なこのセリフだけれど、実は2試合、計3回しか言っていないらしい。そして「立て立つんだ」と同時に「立つな」も3回言われている。
ジョーだって、立ち続けていたわけではないのだ。立つのと同じくらいに「立たなくてもいい」って言われていたのだと思うと、「人間だもの」と突然相田みつをのような声が出てしまった。

行くぞ、直前講座。贅沢に毎日総菜を買ってやる。
やるぞ、過去問。贅沢に問題集に書き込んでやる。

待ってろ、抽選。死ぬ気で引き当ててやる。

あれから数年が経ち皆既月食のあの日、

「お母さん!今日かいきげんしょうが起こるんだって!」

お友達と月を見ていたら帰りが遅くなった、と息を切らして子どもが帰ってきた。

「いやそれ皆既月食だから」と返しながら、月食していく姿は確かに怪奇現象に近いかもしれないねと笑いながら子どもと話す。

我が子の瞳には今宵の月はどんな風に映ったのだろう。
一生に一度しか見られない天体観測を「仲良し」と呼べるお友達と見られてよかった。あの学校に行ったからこそ出会えた仲間だ。

この先のまだ見ぬ景色も、今日のように怪奇現象だねって笑いながら見ていてほしいと心から願った。

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