見出し画像

 智謀の人 大村益次郎 ②



 大政奉還、王政復古の大号令を経て、
徳川慶喜が、江戸城を新政府に差し出した、明治元年。
 上野の山、上野東叡山に籠もって、解散の説諭に応じず、通行の官軍を暴殺し、軍用品を奪うなど、傍若無人の輩がいた。彰義隊である。
 朝廷、ここに至って、大村益次郎を
軍防事務局判事として、東下させ、
彰義隊に処することになった。
 軍議の結果、益次郎のたてた彰義隊討伐の軍配は、上野黒門口を薩摩藩に
攻撃せしめ、横合の根津方面は、因幡藩、長州藩、本郷の加賀邸には、肥前藩の、アームストロング砲を置く。
 最高軍議の席上、薩摩藩は、敵の主力というべき、黒門口を担当し、至難の攻撃につくべきことが、分かっていたから、誰ひとり声を出すものがいなかった。
 突如、薩摩の一将は、辞色はげしく、
益次郎に向かって、
 「朝廷は薩摩皆殺しのご所存であるか」と、にじりよった。
 益次郎、「左様」の一言。
その態度の超然として、しかも圧力に、
何人も語を返せることが、出来ず、
部署わりは、定まった。
 黒門口の頑強なる抵抗を、西郷隆盛の
率いる薩軍がついに突破し、根津方面の長州軍も敵を圧迫し、肥前藩のアームストロング砲が、トドメを刺し、彰義隊は
全敗となった。
 しかし、一時は、勢猖獗(いきおいしょうけつ→好ましくないものの勢いが盛んなさま)にして、官軍も相当な苦戦を
つづけたのである。
 その時、益次郎は、江戸城西丸の一室におり、柱によりかかって沈思していた。戦場からの情報では、敵勢勢猖獗にして頑強に抵抗していることを、しきりに通達してきた。このままでは、夜間の戦闘になると。益次郎にその処置を詰った。
 益次郎しずかに懐中から時計をだして
衆に示し、最早何時になるから大丈夫である。別に心配するに及ばぬ、夕方までには、必ず戦いは終わるであろう、今
しばらくの辛抱と諭し、上野方面にあがる兵煙を見守っていた。
 黒煙は次第に濃くなる。しかるに、
兵煙は猛火の色となって天を焦がす。これを見るや益次郎、掌を打って、これで
始末はついた、あの炎々たる猛火は上野の山を焼くもので、敵の退却は必然である、これで戦闘は全く終わったと言った。そのあと、すぐ伝令があり、戦闘集結を告げた。

 こんな調子で朝廷に従わない奥州や榎本釜次郎が軍艦をひきいて函館の五稜郭にこもって朝廷に抵抗しても、難解な数式をスラスラ解くように、戦闘を終結させた。

 益次郎は、奥州、函館の戦争は内輪もめに過ぎず、外国と対立して真の戦闘を為すには、整然たる統一され、よく修練した兵を設けるのが急務であるといった。
 士官を養成が肝要で、幼年学校と青年学校とを設け、また、陸軍は、フランスの制を用い、海軍は、英国の制を学べよ、と。
 はやく、武士を解体し武士の帯刀を禁止するべきと。
 その兵制改革、藩兵解体、帯刀禁止等は、武士階級に異常なる衝撃を与え、
それがもとで、暗殺された。
 享年、46歳だった。

 大村益次郎を見ていると、蘭学でまなんだ数式のような、理路整然とした思考法で、医学、戦争、政治に分け入った。
 ただ、革命期にはよくいる、人の気持ちを忖度出来ないという欠点があった。
 それが天才の天才たる所以であるが、
それがあれば、もう少しながく生きられ大きな仕事をしたのでは、なかろうか? 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?