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 幕末の時代の流れ

 幕末の歴史は、非常に複雑なので、
私なりに、わかりやすく、幕末の歴史の流れを書いてみました。
 
 激動の幕末の時代が、始まるのは
アメリカのペリー提督の黒船来航からだ。
 そのアメリカとの条約締結のことで、
天皇の勅許を得ずに、独断で条約締結してしまったのは、時の大老、井伊直弼。
 直弼は、それに反対する者を強圧的に弾圧。
これが、安政の大獄と言われるもの。
 この大獄で吉田松陰、橋本左内などが殺され、山内容堂、徳川斉昭が隠居させられるなど、大量に処罰された。
 その反動で、現代の総理大臣といわれる、大老・井伊直弼が、白昼に、脱藩した元水戸藩士、薩摩藩士に斬り殺された。この大事件が、桜田門外の変である。この桜田門外の変で、幕府など大した事ない、という空気が産み出され、自称尊王攘夷の志士が、大量に京都に群がった。この京都の浪士たちが、幕府側の人物を殺しまくる無政府状態になった。 
 そのため、幕府は、会津藩を京都守護職に据え、その下に、かの有名な新撰組、見廻り組をおいて、不良浪士を切らせた。毒をもって毒を制する考えだった。
 幕末の政治の行方は複雑で、はじめは、長州藩が京都の政治を主導していたが、そのことに快く思わない薩摩藩、会津藩が手を組み、長州藩とその影響下にある公家を追い落とした(禁門の変・七卿落ち)。
 だが、幕府独走に危機感を覚えた薩摩藩は、密かに家老の小松帯刀、西郷隆盛を中心に坂本龍馬、中岡慎太郎を仲介を介して、長州藩と薩長同盟という、秘密軍事同盟を結んだ。
 幕府は、長州藩を叩いておこうと、
第一次長州征伐、これはうまくいったが、第二次長州征伐は、このコラムでも
でてきた、大村益次郎らが活躍し、長州藩が、幕府を追い落とした。その時に、ちょうど第14代将軍 徳川家茂が亡くなり、第15代将軍に徳川慶喜がなった。
 薩摩藩、長州藩は、徐々に幕府を倒して、朝廷を中心とした、新しい政治を行う考えに傾いていった。この薩長は、あくまで武力倒幕を目指していた。
 そこに、坂本龍馬らが、今まで知識人の中では、言われ続けられていた、
大政奉還を土佐藩の後藤象二郎に提案し、それを土佐藩が徳川慶喜に提示した。
 大政奉還とは、政治の権限を朝廷に返すということ。
 慶喜は、大政奉還しても、幕府が納めている土地などは巨大で、政治の主導権を握れると考えていたようだ。
 徳川慶喜は、大政奉還したが、薩摩藩、長州藩は武力倒幕を目指し、天皇から、王政復古の大号令という、倒幕の密勅をもらい、薩摩藩、長州藩が、官軍になった。
 徳川慶喜は、水戸藩の出身だ。
自分が朝敵になるというのは、耐えられないことだった。そのため、京都で薩長に鳥羽伏見の戦いで敗れた。兵力的には、まだ、十分、戦えたのであるが、
慶喜は、蒸気船で江戸に逃げ帰った。

 慶喜は絶対恭順の姿勢をとり、
その思いを伝えるため、勝海舟の承認のもと、山岡鉄太郎が、駿府の大総督府に行った。それが、西郷隆盛と勝海舟との
 会談になり、江戸が戦火から免れた。
大総督府は江戸に移り、ここに明治維新か成った。あとは、大村益次郎の指揮のもと、会津、函館の反抗勢力も潰し、
戊辰戦争も終わった。

 幕末の歴史を、解説してみました。

 


 

 


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