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【短編小説】旅する懐中時計

 この物語は人の手から手へと幸せを運ぶ、不思議な懐中時計の旅の記録だ。時を遡って話を始めよう。
 フック船長が祖父から譲り受けた、金の懐中時計は星座の細工が施されていて、世界に一つしかない特注製だった。その美しい輝きは、あらゆる悲しみを忘れさせてくれた。
 チクタクワニに左手を食べられたり、ピーターパンにコケにされて、悔し涙を飲んだ日もあったけれど。全てを売り払っても、その懐中時計だけは肌身離さずに持っていた。
 
 夜空に魔法の月が漂うと、フック船長はドクロ岩に腰掛けて、手下共に海賊の唄を合唱させた。そして懐中時計のゼンマイを巻きながら、琥珀色のグラスを傾ける。

 柔らかい酩酊に飲みこまれながら、嵐や雷鳴の渦を越えて、七つの荒海を制覇した。
 巨大なタコの魔物を剣で倒して、血の染みた地図を辿り、霧に覆われた黄金の島を発見した時、フック船長は九十歳の誕生日。体は病に侵されて、泳ぐことすらできなくなっていたが。ティンカーベルや、ウェンディや、タイガーリリーがお祝いに来てくれた。目を閉じればワンダーランドの出来事も、昨日のようだった。
 
 ご馳走に、酒に、ダンスパーティ。金貨の雨をピストルで撃ち抜いて、宴は三日三晩続いた。しかし黄金の島は少しずつ沈没していった。もう思い残すことはないと、フック船長は大事な懐中時計を宝箱に封じ込めて、島と共に海底で眠りについた。その姿をピーターパンが寂しそうな顔で上空から眺めていた。

 ヨーホーヨーホー野郎ども、この世の果てでまた会おう。高笑いが静かに濡れていく。
海の上で生まれて、海の下で死んだ。
大海賊フック。その伝説は世界中に轟いた。
 
 暗黒の底に沈んだ宝箱を次に開けたのは一体誰だろう?潮の満ち引きを繰り返し、海はまた静けさを取り戻していく。

 ゼペットじいさんは波を漂うクジラの腹の中で退屈していた。行方不明になったピノキオを探して、海に出たら大きなクジラに小舟ごと食べられてしまったのだ。
 小さなランプの灯りを頼りに、寒さに震えて助けを待っていた。しかし、ずいぶん長い時が過ぎて。本を読むのにも、魚を捌くのにも飽きてしまった。そこでゼペットじいさんはくじらの腹を探検し始めた。

 暗闇の中を進んで行くと、色々な物が落ちていた。椅子にベッドに花瓶。蓄音機やタイプライターまで転がっていた。
 ゼペットじいさんは絵の具が入っている木箱を拾うと、十二枚の花の絵を描いた。絵筆を握ったのは初めてだったけれど、時間を忘れて夢中になった。

「人生にこれほど楽しいことがあったとは知らなかった」と苦笑いした。

 ある日、クジラの腹で奇妙な扉を見つけた。その扉の先でタコの紋章が刻まれた、宝箱が青白く発光していた。恐る恐る開けると、金の懐中時計が入っていた。その秒針が回るのを見ていると、ゼペットじいさんの胸は落ち着いた。
 次の日、ピノキオが助けにきてくれて無事にクジラの腹から脱出できた。
 町に戻ると木々は紅葉していて、金木犀の香りが鮮やかに漂っていた。ゼペットじいさんは石油ストーブを灯して、本格的に絵を描き出した。その絵はコオロギや妖精のモチーフが多く、独学だったけれど、個展を開くと大勢の人が来た。

 それから十五年が過ぎた頃、ピノキオが大学で勉強したいと言い出した。鼻が伸びないところを見ると、どうやら本気らしい。絵を売ったお金では学費が足りなかったので、迷った末にゼペットじいさんは、クジラのお腹で見つけた、懐中時計を骨董屋に売った。

 ピノキオは都会に出てしまい、ゼペットじいさんはまた一人きりになったけれど、毎日、世界中の人達が絵を見にくるので、もう孤独ではなかった。ピノキオを一人前に育てたことを誇りに思い、ロッキングチェアに腰かけて、パイプを吸い、満足そうに月を見上げた。

 同じ月の下、竹の根に腰かけて、泣いている少女がいた。かぐや姫が月に帰らなければいけない、十五夜まであと三日だった。

残り2605文字+あとがき付き

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