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【エッセイ】さようなら此の花旅館

誰でも大好きな思い出をひとつくらいは、
持っているものだ。
それが集約された場所に、
涙は似合わない、笑顔でさようならを。

祖母が四十歳から一人で営んできた、
旅館「此の花」を廃業して、高崎に引っ越してきて、
一緒に住むようになり一年が経った。
今、大好きな祖母と暮らせているのは嬉しいけど、
 あの旅館は僕にとっての核シェルターであり、
人生の辛い時、病気で苦しんでいた時、
唯一の逃げ場所になってくれた、
特別な場所だったから。
綺麗な思い出にしたくなくて。

今まで言葉にしなかった。

でも僕は本当に忘れやすい人間なので。
文章に書いておくべきだと思うんだ。

そもそもの話、此の花は、
父と母が出会った場所でもあるので、
僕は生まれたときから、
何度も連れていかれて、行けば、
祖母だけじゃなく、二十歳くらいだった叔母や、宿泊しているお客さん達にも可愛がられた。

お小遣いをもらったり、
ドラえもんのビデオをもらったり。
宅配ピザや、ラーメン屋の出前を頼んでくれる、楽園のような場所だった。
皆の真ん中で炬燵で蜜柑を食べながら、
スーパーファミコンで遊んだり、
カラオケを歌ったり。
あの頃の僕には、心配事も不安も何もなかった。
今思うと、此の花旅館には、
昭和の賑わいの余韻のような匂いが漂っていた。人と人の距離が近くて、温かかった。

僕が初めて、一人で高崎駅から館林駅にある、
此の花旅館まで、電車で行ったのは11歳だった。
片道たった二時間くらいの距離だし、
乗り換えは一回しかなかったけど、
当時は携帯電話なんて持っていなかったから、
乗り降りを間違えたら一貫の終わり。
銀河鉄道みたいに、どこか知らない場所に、
連れていかれたらどうしようという不安で、
景色なんて見る余裕は一切なかった。

母がメモしてくれた、駅名を一駅ずつ確認しながら、心臓が破裂しそうな思いで、ようやく館林に着いたとき。
手は冷たい汗で濡れていて、喉はからから。
ものすごくぐったりしていたけど。
改札口で待ってくれていた祖母の姿を見て、
一つの冒険を終えた勇者の気分になった。

それから僕は夏休みと、冬休みの度に。
此の花まで一人で旅にでるようになった。
館林駅に着くと改札を抜けて、
旅館を目指して、線路沿いの道を進む。
途中に醤油工場があって。
そこから豆を煮ている変な匂いがした。

此の花には客室が5部屋しかなくて、
部屋には「星の間」や「花の間」など、
名前がついていた。僕が一番よく泊まった部屋は、「星の間」だった。日当たりがよくて、
冬でもぬくぬくする猫の気分になれる部屋。

僕は専門学生に進学して、
東京で暮らすようになっても、
定期的に此の花に行った。
旅館に併設されているスナックで、
アコースティックギターを弾いて作曲をしたり、
祖母の揚げてくれた手作りポテトチップスを、
ばりばり食べながら、
作家気取りで詩を書いたりしていた。

小さなテレビと鏡台しかない部屋には、
生活感が全くなかったし。
あそこでは僕はいつでも旅人だった。
不思議と自分と向き合えて、
本当の意味で一人になれる場所だった。

もし此の花旅館が無かったら、
生まれなかった歌や詩がたくさんあると思う。

僕は専門学校を卒業したあと、
就職もしないでバンド活動を続けて、
下北沢のライブハウスなんかでバイトを始めた。
一日12時間以上働いて、自給は100円。
昼夜逆転の貧乏生活(光熱費も払えないレベル)を送り、体重が激減して、睡眠不足になり
その内、精神が壊れてきて。
音楽自体が嫌いになってしまった。
気付けば病気になって、寝小便するようになった。

結局、バンドを解散させて、仕事ばっくれて。
多くの人に迷惑をかけて。
逃げるようにというか、完全に逃げて。
僕は実家に帰らず、此の花旅館に逃げてきた。

祖母はぼろぼろになった僕をみて。
「今のあんたからは死人の匂いがする」と言った。
実際、もし逃げる場所がなかったら、
自分で命を絶ってしまったかもしれない。
寸前のところで止まれたのは、
此の花旅館の懐が深かったからだろう。

それから色々あって(館林でホームセンターのバイトしたり、やめたり)
僕は入院手前くらいまで堕ちたけど、
家族のサポートでなんとか命を繋いで生きた。

そして去年、祖母は82歳で引退して、
此の花旅館は40年の営業に幕を下ろした。

建物は売却されて、何かの会社の寮になった。
立て壊されないことは良かったけど。

僕はもう二度と東武伊勢崎線に乗って、
グリーンのシートを指でなぞったり、
車窓から見える菜の花に、
心を奪われることもないのだろう。

故郷じゃないけど、僕の故郷だった。

優しさや、温もりや、懐かしさを、
寂しさや、悔しさや、愛を。
置き去りにして。
一つの歴史が終わった。
まるで美しい夢みたいに。
いつまでも僕は此の花を忘れない。


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