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幸福度相対性理論〜行動指針を定めよ

本記事は、以下のブログ記事を著者本人が転載したものです。

二種類の快感

本サイトでやっていきたいことは色々とあるんですが、その中のひとつに、「過去の自分の言葉のサルベージ」ってのがあります。
つまり、いろんな場所にバラバラに書いてきた文章を、もう一度引き上げて、まとめていくつもりです。

まず手始めに、14年前にmixiに投稿した文章です。
当時24歳、大学院2年のときに書いてます。
インディーズバンドをやっていたころでして、もちろん学生ですので、当時はまだ音楽を仕事にしておりません。

[タイトル]:二種類の快感
[プラットフォーム]:mixi
[投稿日時]:2005年09月16日
俺は曲作りが嫌いです

ところで
多分 人間が快感を感じる時、それをある視点で分けると、二種類あると思います

一つ目
食う、寝る、射精する、痒いところを掻くなど
つまり 直接的にやりてぇ と思ってやること
俺はこれを本能的快感と呼ぶことにしてます
これ以外にも、マンガ読む、ゲームする
こういうのも本能的快感にいれときます

二つ目
直接的ではなく、何らかの行動の末、起こる事態を予測して行動し、達成したときの快感
俺はこれを筋トレ的快感(他にいい言葉を思いつかんかったし、これ十分いい言葉じゃい)と呼んでいます
筋トレを例に挙げると、筋トレって、間違いなく どう考えても おもんねーっすよね
きっちーだけで ゲーム性もないし 普通に考えたらやりたくないですよね
でも 人は 筋トレしますよね
なんでやるかっちゅうと
筋トレを続けた末、自分の体が美しくなるのを「想像」「期待」するからやるんですよね
俺にとっては 曲作りは まさにそうなんですよ
はっきりいって
曲作りは
基本的に「苦痛」です

俺の周りにいる連中は、暇さえあれば何かおもろいことをしでかしてやろうっちゅう連中が多いんですが、そんな皆さんはどうなんでしょう

おそらく、中には、作品つくりよう時が一番幸せとか そんな人もいるんでしょうか

もしかしたら 世の中の いわゆる アーティスト や デザイナー と呼ばれる人たち(広義の意味で)はそんな人ばかりなのでしょうか

そうだとすると 俺は音楽には向いてないのかもしれんなぁ と 思ったりします

ただですね
納得がいくモノが出来てきた時の「期待感」
出来たときの「達成感」「満足感」
これ すごいんですよ
さらに それをライブ演奏して 上手くいったり
レコーディングして音になったものを聞くとき
もう それはそれは 凄い本能的快感 も 感じます

うーん

やっぱ これがあるから 音楽をやりようんやろうな とね

そんなら もっと 曲作れよ 俺

ハイ 頑張ります

---引用終わり---

…以上が、14年前の僕が書いた文章です。
テイストがクソ腹が立ちますが、言っている内容については、ずっと変わっておりません。

僕は、2007年から約10年間ものあいだ音楽制作を生業にしていましたが、
音楽制作業を始める前、やってる最中、辞めた直後、そして現在にいたるまで、ずっと曲作りが嫌いです。
もうちょっと正確にいうと、曲を作るという「作業」が嫌いです。
その割には、自分の制作物全てに対してやっつけ仕事をしたことはただの一度もないです(これはマジで)。

そんな中、忙しいときには一日に3曲も4曲も作らないといけない時期もあったりして、心身ともに何度も倒れました。

なぜそんな状態で10年間もこの仕事を続けられたかというと、
無事納品がおわり、自分で自分の曲を聞いたときの「高揚感」、
お客様に感謝されたときの「満足感」や「達成感」、
そしてその仕事が世に出て、反響があったときの「自己承認感」といったものがとにかく気持ちよかったからだと思います。

自分で言うのもなんですが、めちゃくちゃ頑張ってきたと思いますし、頑張ることが正しいこと、カッコいいことだと信じ切っていました。
しかし、それと同時に恐怖も感じてきました。
それは、刺激に慣れてきてしまったからです。

最初のうちは、何者でもない自分のようなものに仕事をいただけるだけでも涙がでるほどありがたくてたまりませんでした。取引先からの電話がなるのが、とにかく嬉しかったのを覚えています。
しかし、だんだんそれがあたりまえになってきて、経済的にも余裕がでてくると、自分のマインドが徐々に変化していくのがわかりました。

のーみそ

次にご紹介する記事は、2012年、当時30歳、つまり約7年前に書いたものです。
この時期は音楽制作の仕事をはじめて4年目で、案件数も増えてきており、さらに一本あたりのギャラもどんどん上がりだして徐々に責任も重くなり、
なおかつお笑いもかなり本気でやっていて(よしもとで芸人をやっていました)、そちらのほうもかなり忙しかった時期でした。

当時mixi内では、公開範囲を友人限定にして書いています。
ではどうぞ。

[タイトル]:のーみそ
[プラットフォーム]:mixi
[投稿日時]:2012年02月09日
今、頭の中が、ぐちゃぐちゃなので、思う事を思った順番で書こうと思う。

頑張れば絶対報われる。
それはわかっているが、報われた先に何があるのか。
なぜこれだけ環境や周囲の人に恵まれているのに、辛いのか。
上京したての頃は、喉から手が出るほど欲しかった環境なのに、まだ先があるのか。
いつまで、あと何年間、次につながる何かのために働くべきなのか。
遠い。
幸福までの距離が遠い。

時々、誰も俺を必要としないでくれ、と思う時がある。
自意識過剰だと言われてもハッキリと言わせてもらうが、必要とされすぎている。
その、嬉しいはずのコトが、時々、重荷としか感じなくなる。

やりたい仕事だ。
これがやりたくて、上京してきた。
本来ならやりたいコトだけやればいいはずだ。
だが、やってみてわかったが、簡単に取捨選択できるような甘い世界ではない。
「やりたくなければ断ればいい」と簡単に言えてしまうのは、フリーランスで生き抜いた体験のない人か、相当運がいい人か、俺より一つ次のステップに行けている人だ。
俺には、やりたくない仕事を断れない。
仕事にはそれぞれ、細かい事情がある。
そして時には、金より時間より重い、仁義がある。
仁義を貫けぬなら、生きる価値なし。戦う権利なし。

贅沢な悩みだとわかっている。
何度でもいうが、こんなに恵まれた環境はそうそうない。
やりがいはあるし、仕事を通して人として成長できるし、収入もそこそこ安定している。
そんなのはわかりきっている。
そんなところは、何周も何周も考えに考え抜いて、何度も何度も通過した地点だ。

あと、俺は、なぜこういう類の文を人の目に付くところに書いてしまうのか、とも思う。
自分でも分からない。
発散せずに、溜め込む事ができない。
辛い。もう、ただただシンプルに、とにかく今は辛い。
やりたい事が死ぬほどある。
もちろん、仕事全てがイヤなのではなく、中にはやりたい人とやる、やりたい仕事もある。
もう、どうしたらいいかわからない。

今月の11日に、今の家を出て、新居に引っ越す。
環境が変わって、気分も変わる事を祈っている。
いや、住居と気分が変わったところで、根本的な解決にはならないだろう。
何かもっと、根本に関わる部分を、変える必要がある。
シンプルに、もっとシンプルに。
取捨選択。
上では、取捨選択はできないと書いたが、取捨選択をできないと思う俺の感覚自体を、無理やり俺から剥ぎ取って、捨てる必要がある。痛みを伴ってでも。

俺は、ただただ、毎日を幸せに生きたい。
他の誰よりもそう思っている自信がある。
そして、イメージする力、思う力は、どんな現実をも凌駕すると信じている。
俺は、ただただ、毎日を幸せに生きたい。
俺は、ただただ、毎日を幸せに生きたい。
俺は、ただただ、毎日を幸せに生きたい。
(後略)

---引用終わり---

…以上が、7年前の僕が書いた文章です。
たまらないですね。こういう記事を読み返すと、我ながらゾクゾクします。
最後の3回繰り返すところとか、イタい。イタすぎる。なんでここだけちょっとポエム調にしたんでしょう笑

振り返って解説しますと、
これはもう…自分で読み返してみても一発でわかるくらいアブねー時ですね。心身ともに、完全に限界です。
で、それまではそれを超えるほどの承認欲求が自分をずっと支えていたんですが、それが満たされすぎて、心身の疲労のほうが満ち足りた承認を上回ってしまっている状態だと思います。
それが以下の一文から読み取れます。

時々、誰も俺を必要としないでくれ、と思う時がある。
自意識過剰だと言われてもハッキリと言わせてもらうが、必要とされすぎている。
その、嬉しいはずのコトが、時々、重荷としか感じなくなる。

また、責任や仁義といった、自分が決めたルールに自身が苦しめられているところも見受けられます。
この性質は、2019年現在でも自分の中に残っているので、生まれ持った性分なのでしょう。
今はこれをうまく利用して自分をコントロールしたりしてますが、それは別の話なので別の機会にするとします。

過去の自分が憧れていた自分のイメージ、そして周り人からみた自分のイメージと、
当事者である自分の状態のギャップにも悩んでいます。
勝手に、
「普通は音楽を仕事にすることだけで相当難しいのに、その状態である自分は、すなわち幸せな状態である。
幸せな状態であるのに、幸せだと感じられない自分はダメだ。どうかしている。贅沢病だ。天狗だ。」
という理論を打ち立てて、どうにか幸せだと思い込むために、「贅沢な悩みだ」と言い聞かせているが、まったくその効果がでていません。

そして、最も興味深いのは、以下の部分です。

何かもっと、根本に関わる部分を、変える必要がある。
シンプルに、もっとシンプルに。
取捨選択。

何かもっと、根本に関わる部分を、変える必要がある。
という発言からの突然の、
「シンプルに、もっとシンプルに。 」
という発言。これは、なんとなく辻褄があっているように見えて、今見返すとその後の「取捨選択。 」という言葉とも微妙につながっておらず、文中に出てくる突拍子もない言葉です。

今になって思うに、このときの自分は実は、
「仕事のバランスや責任感や仁義の件で悩んでいる」のではなく、
「物事をややこしく考えてしまい、シンプルに答えを出せず悩んでしまう自分の思考回路そのもの」について最も悩んでいたのではないか。
そして、そのことに頭で気づいていなかったのではないか。そんな気がします。

今なら、「自分の思考がシンプルではないので、シンプルに憧れているし、できるだけシンプルに考えるように意識している」ことまでを自覚しています。

とりあえず、分析はここまで。

では、この2つの過去の記事をもとに、考察と一般化をしたいと思います。

幸福度相対性理論

『幸せとは常に相対的なものである』
最初は、バンドをやっていました。
その時は、「自分が褒められたかった」というのが最も大きな動機づけでした。ハッキリいって、観客を楽しませたいという欲求よりも、観客や関係者から認められたいという欲求が強かったように思います。

その後、音楽制作業をはじめました。
ここで、「僕を信頼して仕事を頼んでくれた目の前のクライアントを喜ばせたい」という欲求が芽生えました。

そして、弟子を雇いました。
ここで新たに、自分が全責任を負って弟子を育てたい、つまり自分が主人公ではなく、弟子を主人公にしたいという欲求が芽生えました。

その次は、生まれ故郷でした。
自分がすぐに手の届く範囲の人だけではなく、故郷である田川地域全体を主人公として盛り上がるのを支えたいという欲求が芽生えました。

どんどん欲求が変化していき、段階を重ねるごとに難易度が高くなっているのがわかります。

普通に考えると、どこかに収まって、立ち止まるのが一番楽です。
僕自身ですら、客観的に見てそう思います。
ではなぜそうできなかったのか。
「向上心や野心があるからだ。常に上を目指し、満足してはいけない。男たるもの、そうあってしかるべきだ。」
たしかに、そういうマッチョな視点もあるでしょう。
ただ、もしそうだったとすると、しんどい思いをすることはあれど、悩むことは無いと思います。
僕の場合はそれよりももう少し冷静に言い表した言葉のほうがしっくりきます。
僕の答えは、「幸せというものが常に相対的であるから」です。

つまり、目指すところがあり、そこに到達すると、もうその時点で、幸せではなくなります。
もっと直接的に言うとすれば、「飽きる」です。
高校物理を習っている方でしたら、電位(絶対値)と電圧(相対値)をイメージして考えるとわかりやすいのですが、要は、状態が変化し、幸せになる”とき”に幸福度を感じるということです。
そして、変化し終わったあとは、ただただ基準値が変化したという事実だけがあり、幸福度には直接は影響しない。

「生活レベルは簡単に下げられない」という言葉は一般的によく使われます。
それと同じように、一度上がった幸福レベルは、その位置にあって当たり前、下がれば不幸という状態になります。
そして、絶対値を上げれば上げるほど、維持が難しくなっていきます。
これは、本当に幸福な状態なのでしょうか。
では、いったいどうすれば幸福度を保てるのでしょうか。

『制限を設けてハードルを下げる』
僕自身、もちろんその答えは見つかっておりませんので、ここで答えを出すことはできません。ただ、一つ、ヒントになるものがあります。それは、
「制限を設けてハードルを下げる」という考え方です。
これこそまさに、幸福レベルを下げることで、相対的に幸福を得やすくする状態だと思います。

Ustream全盛期に、僕が企画したネット番組があります。
それは、「1hmusic」という番組で、その名の通り、「番組中にリアルタイムで1時間で曲を作る」という番組でした。
そのあと、ニコ動に移動し、「60分で曲を作る人間TV」というタイトルに変え、暫くの間定期的にやっていたのですが、これこそまさに意図的に制限を設けてハードルを下げる仕組みを取り入れた企画でした。
「60分で曲を作る」という、プロでもありえない状況を作り出し、観客に楽曲のクオリティーへの期待をさせないようにしました。
なので、どんな完成度が低い曲でも毎回、「60分”なのに”こんな曲ができるとかスゲー!」というコメントを頂いておりました。
そのかわり、曲の完成度よりも、曲の足りない部分、欠けている部分を楽しんでもらい、作曲者の苦悩や疲弊した顔をそのまま伝えることそのものをエンタメとして伝えていこうという意図がありました。

上を目指して、ずっと突き進んでいくと、永遠に終わりがありません。
月収5万のときは15万を目指しますし、15万のときは30万を目指しますし、30万のときは50万を目指すでしょう。
ずっとこの螺旋から抜けられない状態は、しんどいです。

いや、この言い方だとちょっと語弊がありますね。言い方を変えます。
目指す先に何もありそうにないのに頑張り続けることがしんどいです。
でも少なくとも日本の現代社会は、頑張らないと社会で生かしてくれません。
じゃあ、何を軸に頑張れば良いのでしょうか。

指針を定めよ

『目標達成型と現場対応型』
僕は大きく分けて、目標達成型の人と、現場対応型の人がいるのではないかと思っています。

目標達成型の人は、とにかく決めた目標に向かって突き進むタイプです。
絵で例えると、書きたい対象物が決まったら、うすく鉛筆で下書きを書いてから徐々に輪郭を整えていき、全体像が見えたら色をつけていくようなイメージです。
特徴は、計画性がある、飽きずに続けることができる、プロジェクト自体の達成感がモチベーションになりやすいといった感じでしょうか。

現場対応型の人は、計画よりもその場で物事に対応していくことを好むタイプです。
絵で例えると、まず太い筆で大きくマルかなんかをかいてみて、それが何に見えるかによって書くものを決めていくようなイメージです。
特徴は、目標を決めることをめんどくさがる、そもそも決めても途中で飽きる、瞬発力が有り急な状況の変化を好む、達成感よりもむしろ自己成長感がモチベーションになりやすいといった感じだと思います。

もちろん、両者とも、あくまでも僕が思うだけの傾向に過ぎません。

ちなみに僕は、完全に後者の、現場対応型です。
実はここが、「シンプルでない」という言葉につながってきます。
まず、目標を定めてないから、毎回何かを決断するために演算する。
その演算過程がシンプルではなく煩雑なので、迷う。間違う。一度出した答えを疑う。
それで、計画を立ててみたりします。
ややこしいことに、僕は苦手ながら計画を立てることもできなくはないし、知識として、大きなプロジェクトや人を巻き込んだプロジェクトは計画性が高いほうが上手くいきやすいことを知っているので、稚拙な計画を立ててみたりします。
ただ、そこに少しでもアラがあると、完璧主義である自分が顔をだし、100点満点をめざして軌道修正したくなってしまう。
そうすると、自分の中では完璧に立てたはずの計画にほころびが生じ、そうなると計画を実行するのが馬鹿らしくなってしまう。こうなると計画なんて意味をなしません。

こういった経験をなんども繰り返してきているので、そもそも自分にとって(あくまでも、自分にとって)計画をたてるのが無駄だという結論になります。
実際、3年以上先の人生計画は一切立てないように決めています。そのときに社会がどうなっているかわからないから。
たとえ完璧に遂行できなかったとしても、ガイドラインとして、また他人への共有手段として計画を立てることの重要性を知っているにもかかわらず、無駄が生じるかもしれないと思った時点で、なんというか…やる気がでないです。

僕にとって、計画を立て、一歩を踏み出した時点で、「計画を立てたときの過去の自分に命令されて動かされる不自由な奴隷」になります。こうなってくると、とてもしんどいです。

でも、言わずもがな、大きな物事を推進させるには長い時間が必要です。長い時間をかけてやるようなことは、目標をきめ、計画を立てることが必要です。

『行動指針を定める』
じゃあどうするか。

まず、目標、計画を暫定的に決める。
それで、そのあとに、その目標に向かうためにレールをしくのではなく、目標に向かっていきやすいベクトルの方向性を決める、です。
方向性が大きく間違ってなければいつか目標付近に着くでしょうし、そもそもレールがなく、目標も暫定的に決めたものなので、ピッタリ到着しなくてもいい。

ここでいうベクトルを具体的に言うと、行動指針を定めるということです。

ざっくりですが、目標達成型の人は、未来に目標値を定めて、そこに突き進めばいいと思います。
対して、現場対応型の人間は、自分の行動指針を定めて、その瞬間ごとにそれに従えばいいと思います。
じゃあ、自分の行動指針とはなにか。

ここが問題なんです。これが、おそらくずっと明確じゃないのです。いまだにわかっていません。
おそらく、現場対応型には、刹那しかない。「いま、ここ」しかない。
ただただそれを繋げていくと線になり、それを積分すると資産や実績になる。
それを続けていくことになるんですが、指針がないと、もう迷いまくり、グラつきまくりなんです。

『自分の煩悩と徹底的に向き合う』
じゃあ、どうやったら行動指針を決められるのか。
僕が想像する一つの答えが、まずは自分を知ることです。

じゃあ、どうやったら自分を知れるのか。
それが、「自分の煩悩と徹底的に向き合う」ことです。
煩悩、つまりを道徳や美学を妨げる心の闇を知ることこそが、最も自分の心の輪郭を教えてくれると思っています。

ということで、2019年度の僕の抱負は「自分の煩悩と徹底的に向き合う」としました。
それにより、自分というモルモットが一体どんな心の動きを見せるのか。とても楽しみです。

4回にわたって連載でお送りしましたが、毎回毎回長文になってしまった割に、伝えたいことの30%くらいしか書けてない気がします。まいいや。
いつかもっと文章がうまくなったら、この記事自体をもう一度サルベージします。

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