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風的進化論 (2014年作)

 風が身体じゅうを吹き抜けてった。急な山裾の先に続く海を見渡しながら、あたしたちは立ってた。視界いっぱいの水平線でぱっちりと二色の青がくっついていた。
 彼女に誘われてあたしが車を出し、朝から走ってここまで来た。連絡があったのは昨日の午後遅くだった。
「明日ってなんか予定ある?」
 メールじゃなくて電話だった。ちょっと湿った感じの声で、軽やかにスイングするようなホノカの口ぶりを、少し懐かしいように感じた。ほぼ二日間降り続いた雨はやっと止んだらしかった。切れ目の入った雨雲の上を、夕日がゆっくり追いかけて来てるのがブラインド越しにわかった。
「明日は雨がひと休みってことだしさ、ちょっと出かけようよ。どっかにびゅうっとさ」
 その天気予報はあたしもさっきラジオで聞いたところだったけど、すでに予定が入ってた。
「晴れるってね、でも……。あ、うん、行こう行こう」
 先約のキャンセルをとっさに決めた。気の進まない用件だったから、こんなきっかけをひそかに待ってたくらいだったんだ。ましてそれがホノカからの呼び水とあれば迷うまでもなかった。彼女が夏休みに入ったらまた長い旅行に出るのは知ってた。けど、あたしは連絡も入れずに雨がちの日々をぐずぐずしてたのだった。

 あたしより一歩、展望台の柵に歩み寄りながらホノカが言った。
「私、風が好き!」
 ぶるるっ、とスカートが波打つ。
「うん、知ってる。ホノカの名前に風って字、入ってるしね」
 彼女の名は“穂風 ”と書いて“ホノカ ”と読む。
「ほんとに風ってよくない? 形も色もないのに、こんなに幸せな気持ちにさせてくれるんだもん」
 風が好き、というフレーズがちょっとおかしくって。前に同じこと言ってたの、あたしは覚えてた。
「つかまえようがないし、目にも見えないし、形がないからこの風には一度しか会えないのに、すごい存在感だよね」
 と言うホノカも、ちょっと風みたいなとこがある。突然現われたと思うと、しばらくぜんぜん姿が見えないこともよくある。独りの印象はないのに、必ず一緒の仲間がいるわけでもない。いつも変わらないのにどこかが新鮮。

「風って花粉とか種も運ぶし、生き物とかも。いろんなこと、世界中に伝えてるんだよね。空気の流れって言えばそれまでだけど、そんな無機質なのと違う」
「でも伝える意思なんかなくて。水も公害も運んで、伝えてくけど、どこに行きたいとかも思ってない。やっぱりただの流れなんだけど、すごい運動」
 あたしは口論別れのままになってる人のことを思った。伝えたいことがなけりゃ行動しちゃダメなんだ、それが社会に対する活動の基本だと言ってた。そんな彼の持論にどうも共感できなくなってた。社会の基本はそうかもしれないけど、生き物としての基本はどうなんだろう?
「ホノカは、……どこかでこれがしたい、とか思う? それともただの流れだったり?」
「なぁんだろねー。会いたい人がいるところに行って、与えられた場所で寝て起きて……。風みたいに、答えとか結果とか求めないで流れの中にいて……。みんないつも動いてて、流れてくからわかんないな。これって何かから逃げてるってだけのことかなぁ」
「そんなことない。そうやって生きられたらきっとキレイだよ。いい風になれるよ」
 やっぱりちょっと風みたいな人だと思う。あたしは彼女のそんなところに惹かれてるのかもしれない。……てことはあたしも「風が好き」なのかもな。
 そうだ、きっと好きなんだあたしも、風みたいのが。私がとかあの人がじゃなく、私たちがとか彼らがってゆうのでもなく、そんな境目のあることじゃなくって、もっとこう……大きい何かが流れてて、響きみたいな波が渡り合ってるって事実……。あたしがどこで何をしてたって、風はすべての物や行いの合間を更新しながら、その運動で地球上を満たしてる、たった今も。だからあたしはここにいて、それでいいんだ……。

 想いが大きな話に膨らみ始めたところで我に返ると、ホノカは風に身体を預けるように柵から身を乗り出してた。
「とくに海の風はいいよねー。産地直送って感じ」
 海から駆け上がる風を浴び、舞う髪までも嬉しそう。そうだ、ホノカは島育ちなんだった。
「よいしょっ」
 ホノカは柵をそっと乗り越えた。
「えー!? 危ない危ない!」
「だいじょぶだよ、そんな下に行かないよ……。ヨッ……」
 何か捕まえたみたいだ。草むらから立ち上がった彼女は、細身の大きなバッタをつまんでいた。
「久しぶりに捕まえてみよって思って」
「うわ……。さすがホノカ。虫、だいじょぶなんだ」
「苦手なのもいるよ。カマドウマとかね」
「何それ」
「ネットで調べてみなよ。いくらでも写真あるよ」
「……いや、いいわ」
 彼女はバッタをじっと見つめている。
「キレイだよね……。ホラッ!」
 あたしの顔の前にそれを突きつけた。
「わぁ!!」
「あははは!」男子かお前は。「虫ダメ?」
「べつに。そうでもないけど、でも急に接近されるのはやっぱちょっと」
「ほら、キレイって思わない?」
 ホノカの長い指に捕らえられたスマートな緑色の生き物に視線を注ぐ。それが虫だというだけで、まじまじと見つめたい相手ではないのに、ホノカの手に捕らえられるとちょっと素敵な物に見えた。
「ふうん……。確かにキレイなもんだね。自然の美しさだねえ、こんなに小っさいのに」
「うん、どうしてこんなふうに進化できたんだろうね」
「進化論? ダーウィン? 突然変異と自然淘汰だっけ」
「信じらんない、そんなトーナメント戦のまぐれ勝ちみたいの。……バイバイ!」
 と、ホノカはバッタを頭上に放り投げた。広げた翅がキラッと光って風に乗ったのが見えたけれど、真夏を控えた太陽がまぶしすぎてすぐに見失ってしまった。
「ねえ、これから市場に買出しに行かない?」
 あたしは不意に思いついてそう提案した。この時間ならまだいい野菜も魚も残ってるはず。
「せっかくここまで来たけど買い物だけしてさ、あとはもう寄り道なしで、この風を浴びた感じを持って帰ろうよ」
「なんだか温泉の上がり湯みたい。そうしよ!」
「そんでおいしいものをのんびり作っていっぱい食べよう」

 漁港のある町の市場で、あたしたちはあれもこれもとはしゃいで食材を仕入れた。バッタを見つめた視線でそれらの美しさを愛でながら。進化の不思議とあたしたちの今日をおおらかに重ねながら。
 そして帰り道のおしゃべりは、進化についてのいろいろで占められた。ヒトはよりよくなろうと知恵を絞るがために、敵を作ったり正義を掲げたりしてしまう。でも生き物たちは長い長い物語の中で、風みたいに流れて流れて、何にも考えずに生かされる方へ方へと転がって、そうして美しい形へ磨かれていった……と、あたしたちの風的進化論。
「ところで、旅行の準備はもう万端?」
「あといくつか連絡取ったりだけど、そんなに準備ってほどのもの無いよ。もう、梅雨が明けたら出発しちゃおっかな」
「そっか。あたしは、ほんとの夏が来る前に大掃除しようかな、って今思った」
「それもいい! いい風、流さないとね」
 早めの帰途は渋滞もなく、気づけばもう、見知った街並みにさしかかっていた。

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