違和感①
天神の裏通りを歩いていて、「あれっ」と思いました。イタリアンの店が閉店していたのです。あんなに繁盛していたのに、コロナ下でも持ちこたえていたのに、ちょっとショックでした。立ち止まってしばらく考えるでもなく玄関を見つめてしまいました。
コロナになってもう何度も、「この店がなくなるのか」というのはありましたけれど、改めて背後で進んでいる世の中の変化の大きさを確認しないといけないなと思い直す出来事でした。
もう40年くらい前、児童養護施設に働き始めた頃、とても元気のよいやんちゃな兄弟(小2年、年長)がいました。屈託がない、と形容するのがふさわしい2人で、兄弟げんかもするし、わがままを言って叱られたりもするけれど、基本明るく楽しく生活していました。(少なくとも私にはそう見えました)
ところが、ある時期からこの2人の兄弟が荒れ始めたのです。ニコニコ笑顔が多かったのに、突然しかめっ面で攻撃的な性格に変わってしまったかのように、多くの時間を「ぎゃーぎゃー」わめくような姿が目立つようになりました。
2人一緒にそうなったので、単純に反抗期に入ったというのでもなさそうですし、自分の思い通りにならないからとか、理不尽な目にあったからとか、特に理由もなさそうなのにずっと落ち着かないし、不機嫌に荒れた感じなのです。「何か変だな」とちょっとした違和感はありましたが、忙しさの中で、2人にフォーカスして考えを巡らせることはありませんでした。
児童養護施設は、虐待やネグレクト、グリーフ体験、いわゆるACE経験を抱えた子どもの宝庫のような空間です。日々子どもたちは問題やトラブルを巻き起こしますし、それが彼らの表現行動だったり、癒し活動だったりするので、荒れ始めた兄弟の変化も多くの子どもたちに紛れて、スタッフからはちょっとは心配はされましたが、特別に注目されてケース会議で検討されるということもありませんでした。
1月くらい経ち、それにしても2人はずっと落ち着かないなあ、とスタッフもまわりの子どもたちも思っていたころ、児童相談所から電話が入って、遠く四国に住んでいる母親から問い合わせがあったということでした。激しいDVがあって、母親は子どもたちを置いて逃げ出してしまったけれど、その後やっと落ち着いて再婚もして、この1月いろいろ探し回って兄弟の所在を突き止めた、ということでした。
2人の兄弟は、あっけなく母親に引き取られていったのですが、その時の2人の笑顔が忘れられません。基本1月前に戻った感じでしたが、毎晩のように夢みたであろう母親にめぐり会えたわけですから、弾けるような特別な笑顔だったように思います。
「ああ、お母さんに引き取られてよかったね」「ちょっと寂しくなるけれど、2人が幸せになると思って辛抱しなきゃね」とスタッフが言うのを聞きながら、私は1月前に感じた違和感に思いを向けていました。
後から分かったことですが、2人の兄弟が荒れだしたのは、ちょうど遠く四国に住む母親が2人の所在を探し始めた頃だったようです。もちろんその頃2人と連絡は取れていないですし、ましてや会ったり物陰から見たりもできない状況だったのです。実際の接触はない状況だったのに、何らかの影響が兄弟に現れていたようなのです。母親の子どもたちに会いたい一心の思いが、遠い距離を隔てて伝わったとしか思えないのです。
それがテレパシーなのか何なのかは分かりませんが、そういう隔たりを軽々と越えて、何か人が繋がったり伝え合ったりすることがあるというのは、間違いないように思いました。
そして、「何か変だな」と感じる違和感は、大切にしなければならないと思うようになりました。多くはその時には分からず、しばらく時を経てから後追いでしか確認できないものだと思いますが、そういう経験を重ねることで、「何か変だな」と感じる精度が上がっていくと思うのです。その背後に何かの力が働いているんじゃないかという視点をもつことが必要だと思います。
さて、イタリアンの店の閉店で感じた、小さくない違和感の背後にあるものはいったい何だったのか、とぎれとぎれにでも考え続けたいと思います。
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ヒゲリンが若い時分から、ものごとを捉えるときに使ってきた道具(TOOL)としての考え方や理屈を紹介します。中核になるのはユング心理学、シュ…
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