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人形とは何なのか?(映画M3GAN ミーガン感想)

「子供は常に人間という規範から外れてきた…つまり確立した自我を持ち、自らの意志に従って行動する者を人間と呼ぶならばね。では、人間の前段階としてカオスに生きる子供とは何者なのか?明らかに中身は人間とは異なるが人間の形をしている…女の子が子育てごっこに使う人形は実際の赤ん坊の代理や練習台ではない。女の子は決して育児の練習をしているのではなく、むしろ人形遊びと実際の育児が似たようなものなのかもしれない。」

押井守監督/映画イノセンス/ハラウェイのセリフより

近年ヲタク文化がパンピにも広がり、もはやフィギュアを買ったり持ったりすることは最上級キモヲタのステータスでも何でもなくなった。加えてぬいぐるみを持ち歩いて一緒に写真を撮る行為も珍しくなく、デカルトがこの時代に生まれていれば、愛娘に似せたフランシーヌ人形を海に捨てられることは無かっただろう。そもこのエピソード自体は原典が無く、澁澤龍彦の創作だった可能性が高い。しかしてこの創作からかの名作からくりサーカスなどのたくさんの創作物に影響を与えたという力は本物だろう。その澁澤龍彦曰く「人形愛とはつまるところ自己愛である」らしい(著書である少女コレクションより)

私自身も人形はかなり好きである。とは言ってもそれは美少女プラモやフィギュア、ガレージキットなど、あくまで二次元や架空の美少女を取り扱ったものである。ぬいぐるみも好きだが、これは主にキャラクターばかりであまり人形は居ない。なんとなく、人型のぬいぐるみは「生き人形」を思い出してしまい怖いのだ。生き人形とは死産してしまったり夭折したり子供を模して作られ、生きている人間と同じように衣服や食事、果ては豪華な装飾品を与えられたものである。伊香保のおもちゃミュージアムに現像しているが、その一帯だけは何故か空気が澱んで重く感じられる。私は霊感はあまり無いのだが、代わりに動物的直感や勘が非常に鋭い。その直感や勘を信じるならば「なんとなく何かが居るような気がしてならないのだが言語化が出来ない」という感じだ。

さて本題である。ミーガンはあくまで児童のおもちゃと開発されたアンドロイドである。人は何故人形、機械化されたアンドロイドを作りたがるのか。

昨年、私は横浜の等身大ガンダムを見て来た。はっきり言って感動した。それは実物そのものというよりも、たった一人の頭の中だけにあった妄想の産物でしか無かった「ロボットのおもちゃ」に魅せられたたくさん少年達が、本当に具現化させてしまったことである。要はガンダムが夢を与え人生を変えてしまった人達の狂気のような愛が、今ここに形を成して動いている。これは、ちょっとした恐怖である。

しかし兵器として考えるならば、ガンダムが人型である意味は無く、構造上はデメリットの方が大きい。これは横浜ガンダムが建築上では起動する自立するものではなく、建物であると定義されていることが明確に限界を示している。単純に物を2倍の大きさにしようとすると、体積や重さは4倍になる。陸上ではとてつもない重力が足にかかる横浜ガンダムに自立は不可能で、あの稼働が限界なのである。しかし人は人を模したものに憧れるし、焦がれる、なんならば崇めている。ガンダムが人型なのは「人型がかっこいいから」という身も蓋もない理由なのだが、ではなぜ玩具用の人形も人型である必要があるのか。

そも人形というのは、本来は子供の為の玩具ではなかった。古くは人間の代わりとして、埋められたり呪われたり祝われたり、玩具としては最も遠いところにあった。雛人形も、かつては人型の紙に自身の厄災を託して、燃やしたり川に流していた風習から来ている。

これは何かで読んだ仮説だが、現代になるまで幼児や子供の死亡率は非常に高かった。もちろん貧困や飢餓、医療的な技術や知識が足りずに亡くなったのが大多数だろうが、そういったことを避ける為に厄災を受け止め守る依代として、人形を幼児に与えたのでないだろうか、というものだ。私はこれは確かにしっくりくると頷いたのだが何が原典か忘れてしまったので、ご存知の方が居たら教えて欲しい。

本題から離れてしまったが、この「子供の厄災を受け止め守る為の人形」としてのミーガンは、最高の知識と技術を詰め込まれた正しい意味で正統の人形であり最新の呪物のようなものだ。

祖母曰く人型のモノには魂が入りやすい。だから人型のモノは粗末に扱ってはいけない、というようなことを教わった。

確かに十数年前に銀座のヴァニラ画廊で見た球体関節は丸で生きているようであったし、もし私に有り余る財力と管理出来る余力があれば、私はもしかするとアチラ側に行ってしまっていたかもしれない。幾重にも手を加えられて丁寧に拵えたこの世ならざる美しいモノに魂を奪われかけるという耽美で稀有な思い出だが、よくよく思い出せば鳥肌が立つほど怖いことだ。だが、世の中には無機物に魂を奪われてしまっているのだろう。自ら作り出したガラテアに恋焦がれたピグマリオン王のように。

本題に戻ろう。何度も言うが、人形愛は自己愛である。主人公が大して関わりが無い姪を引き取ったのも、持ち主が居なくなって捨てられてしまう女の子を拾ってあげたくらいの感覚だったのだろう。棚に飾られたおもちゃの収集物に、一つ加わった程度の。

しかし、人はパンとワインのみに生きるにあらず。子どもにとって一番大切なのは愛情なのだが、この目に見えない感情を数値化したり可視化することは難しい。衣服住が整った良い環境を与えること、高性能なデバイスを与え好きに使わせること、社会性の為に校外学習に連れて行くこと...だが、そこに中身が無ければ意味が無い。仏作って魂入れずとはいうが主人公が行っているのは保護者ごっこでしかなく、何一つ姪の救いにはなっていなかったように思う。あまつさえ、両親を亡くしたばかりの子のトマウマに付け込んで、自分の才能を世に知らしめたいってエゴの為に利用するって、あまりに人の心がなさすぎる。そりゃいくらプログラミングされてたって、自分が望む言葉や対応をすぐにしてくれるミーガンにしか懐かないよね。

この辺りはSNSで子供が犯罪に巻き込まれる事件を想起させるというか皮肉なんだろうなと思った。どんなに酷く悲しい事件が起きても人はそれをすぐに忘れ、高価なデバイスをほいほいと制約無しに与えてしまう。それが間違いだったと気付く時にはだいたいがもう手遅れの後の祭りだ。子どもが一番飢えているのは、親からの愛情だ。もっとわかりやすく言えば、君はありのままでここに居て良いんだという承認、つまりは目を見て話すというである。作中でも姪っ子は、ミーガンの良いところとして、自分の目を見てしっかり話を聞いてくれると言った。主人公は、自分のペースで身勝手に会話を始めたり止めたりする。まるで神が人間に逆らうのかというような尊大な態度で。ふたりの中を割こうとしたのがミーガンであれば、ふたりの絆を結んだのもミーガンである。

自分の命を顧みずに逃げてと叫ぶ主人公から、姪っ子は少なからず愛情を感じたはずだ。そして、襲いくるミーガンから助けようとした。この時、ふたりはようやく家族の一歩を歩みだしたように思う。これからも主人公は口うるさくコップをコースターに置きなさいと言うし、姪っ子は嫌いな具材をピザから省くだろう。幾度と無く言い争い、喧嘩になるだろう。もしかしたら家出をするかもしれない。しかし、それで良いのだ。問題の無い家族なんて居ない。人は関わりあい、傷付いたり傷つけられたり、そう言った中で成長する。ミーガンは確かに優しいし、ずっと彼女を守ってくれただろう。だが、それは彼女の成長する機会を奪うし、何より守られ続けた姪っ子はミーガン無しには何も出来ないし考えられずに駄々を捏ねる幼児の精神のままだっただろう。

これは私の完全なる偏見と侮蔑に満ちた差別的な意見だが、スマホの普及によって自分の手のひらで何でもできると勘違いし、それが敵わないとなるや公然で駄々を捏ねるような良い年した大人が増えたように思う。スマホは悟りの具にあらず、迷いの具なり。

これは斎藤緑雨の「鏡は悟りの具ならず、迷いの具なり。一たび見て悟らんも、二たび見、三たび見るに及びて、少しづヽ、少しづヽ、迷はされ行くなり」のパクリである。しかして今や電車の中でスマホを眺めて居ない人が居ないほどの今、真理に近いと思わないだろうか?

人形(やデバイス)あくまで代理であり依代である。それに人が惑わされている今は、精神的には呪いや呪術が存在していた古代から何一つ変わっては居ないのではないだろうか。ナンチャッテ。

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