「お前は恵まれている」の言葉にイラッとして差別が強化されていく

ここ数日、いろんな種類の差別についてのそれぞれの考察が流れてくる。性差別だったり、人種差別だったり、LGBT差別だったり、オタク差別やら何やら…。差別がいいのか悪いのかという根本的な問題は一度おいておいて、「なぜ人は差別するのだろう?」と考えてみる。特に、最近は「差別はもうやめて!」っていう人に、いちいち反対する人がいる(アンチ反差別というのかな)

そういうわざわざ差別を固定化しようとする人たちってなんなんだ?「私利私欲のため」とか「自分を有利に立たせたいからだ」と、それっぽい理由はあるのだけれど、それらの理由は差別されてる側がしてる側の心理を推理しているときに出る結論に思う。

そこで、僕自身が差別したくなるときを振り返って、なんで差別したくなるのかを、差別しそうな(あるいはしている)側の当事者として、考えてみたい。

僕が偏見を持っている集団について

語るうえで、僕自身がどういう対象に差別したくなるのかの話題は避けられない。でもこれは、本来言ってはいけないことだと思う。思っていたとしても、本当は言ってはいけないことだ。僕が「これからは差別しないよ!」と宣言したって、一度このことを言ってしまってはもうなかったことにはできない。

だから悪いこととわかっていて悪事に手を染めるつもりで言うが、僕は家庭環境に恵まれなかった人に対して偏見を持っている。その属性をカミングアウトされた時「あっ…もしかして僕と合わないかもしれない…」と身構えてしまうのだ。

そういう人は友達にもフォロワーにもいる。じゃあその人たちが嫌いかっていうとそうじゃなくて、その人本人のことがわかってきて、その人自身を好きになれば属性なんて全然関係はない。ただ、出会った時、その属性がわかると「身構えてしまう」という感じ…これを偏見と呼ぶのだろうと思う。

たまたま嫌いな人が同じ属性を持っていた

まずベースとして、そういう人たちといい思い出が作れなかったという不幸が重なった時期があった。僕の嫌いな言説を支持しているとか、言い方が気に入らないとか、そういう人をよくよく観察すると、たまたま家庭環境がよくないというツイートをしているのを見つけた。

あるいは、嫌いなクラスメイトがそうであると知った、などなどだ。これは本当に偶然だと思う。たまたま友達になり切れない人たちにそういう共通点を僕が見つけてしまっただけだ。偶然とはいえ、僕にとっては偏見を持つに十分な経験則になってしまった。これが偏見の種になった。

「あなたにはわからない」という言葉による嫌悪感の固定化

しかし、偏見に嫌悪感という水をやったのは「家庭環境が恵まれている人にはわからないでしょうね」という言葉だった。これはいろいろな場面で言われた。家庭環境に悩んでいるのを慰めようとして言われたり、「家庭環境悪い人あるある」の話題のときに一人ついて行けなかったときに言われたりした。

この「わからないでしょうね」にはなんの反論の余地もない、実際わからないのだから。それに、そういう突き放す言葉を言うのも仕方ないと思う、それくらい辛かったのだから。

だけど、言葉の正当性や、配慮を欠くほどの本人のしんどさと、僕の「なんでそんな言い方するん…」という悲しみは全く別で、無関係なのだ。少なくとも僕の心はそれを関連付けて「仕方ないよね」と穏やかな気持ちになれるほどは大人じゃなかった。

「あなたは敵だ」と言われていて、それに対して言い訳のしようがないような、そんな気持ちになる。別に敵のつもりなんかなかったのに。いつのまにか、別陣営に分けられて、二度と同陣営になれないような気持ち。しかも、僕自身の努力とかではなく、先天的な理由によって、なのだ。この時明白に、「僕は恵まれていて、相手は恵まれていないんだ」と強く自覚したように思う(いいことでもあるのかもしれないが)

こういう突き放した言い方をされて、僕は元の偏見からさらに嫌悪感を持つようになっていった。しかも、違う属性であると明示されたその言葉の特質上、その言葉に対する嫌悪感がそのまま属性に結びついていった。

恵まれている側の苛立ち

ぶっちゃけ、自分が恵まれているというだけでなんで恵まれない人にちょっとイヤな感じのこと言われたり、嫉妬されたり、恨まれたりしなければならないのだろうか?恵まれていたら恵まれていない人の不満を一身に受けなければならないのか?やなこった!!!

恵まれていない人を助ける気がないのか?といわれたら別にそんなことは無い。助けてほしければ懇願しろよ!とも思わない。けどなんで、すごいそんな、そんな嫌な言い方する!?僕が攻撃したわけでもないし、僕が不幸にしたわけでもないのに!?と思ってしまう。

理屈の上ではわかっている。僕の方が恵まれているんだから、多少の不満のクッションになってあげるべきだ。それが本当のフェアだ。でもそこに何の苦痛も生じていないわけじゃない。そんな言い方されたら悲しいし苦しい。でも自分の痛みに必死な人にはそんな僕の悲しみをわかるほどの余裕もないし、僕自身がその点において弱者でない以上、不服申し立てをすることもできない。

大局的な差別は生み出さないが、アンチ反差別にはなりうる

この苛立ちや嫌悪感は、一人の人間が感じ得るもので大局的な差別の発生源ではない。ある一人の男の苛立ちが性差別を生んだのではないし、ある一人の白人の苛立ちが人種差別を生んでいるのではない。差別という社会的な問題の発生源に言及にするには、時間的にも空間的・人物的にも、もっとマクロな視点が必要だ。

でも、ある一人の男性がフェミニストを攻撃する理由にはなるし、ある一人の白人がBLM運動を嘲笑する理由にはなる。つまり、反差別に協力しない理由にはなる

なぜならもうすでに嫌いだから。
大嫌いな彼ら・彼女らが苦しんでいるのを助ける理由がないから。

すごくかっこつけて、自分がアンチ反差別であることの正当性を語っている人とかたまにいる。曰く、被差別者側に問題があると。まあぶっちゃけ、どんな集団にもダメな人や不道徳な人はいるので、言おうと思えばそんなのいくらでも言える。逆の立場であっても言える。ただ、正しく清い人もいる。だからそんなのただの揚げ足取りだと思ってしまう。

いやいや、だからさ~!ぶっちゃけ、「嫌いだから」なんだろう?

イライラするんだろ。自分が不幸な生まれだからって、ただ恵まれている僕たちを敵みたいに見て来るのがさ。イライラするんだよね。自分の生まれを理由に「もっと甘やかされてもいいはずだ」って言ってんのが。僕だってちやほや甘やかされたい、今よりもっといい待遇を!って叫びたいのに。つか「あなたと私は違うんです!」って言いながらの行進、単純に見ててしんどいし。

すっごくわかってしまう、その気持ち。恵まれている側がちゃんと話を聞かなきゃいけないという当たり前の理屈もわかるんだけど、心が追い付かない。

境界線を見つめすぎると嫌悪感が募る

僕のこの苛立ちや嫌悪感は、相手と自分の間に線を引いたときから始まったと思う。その線について言及されればされるだけ、どんどんどんどん気持ちが沈む。嫌いになる。

確かなのは、領域への言及ではなく、境界線への言及でよりダメージを受けるということ。「私の家さ、両親が離婚してて」は普通に聞けるのに、「ひげおのとこと違って、うちは両親の中悪いから」は結構なダメージが入るのだ。

僕だけかもしれないけれど、「貴女と違って私はこうだから」と言われると、責められているような気持になる。相手はそんなつもりないんだろうけど…。相手の過去や性質そのものではなく、「貴女と自分との違い」というふうな話され方をすると、属性の違いを強く意識して、悲しくなるんだと思う。

きっと境界線って見つめすぎてはいけないものなんだ。相手と自分の間にどんな線が引かれているか、視界に入るのは仕方ないけど、マジマジとこの境界線を見るとドツボにはまる気がする。

これは被差別側としても思うし、差別する側としても思う。

境界線を言及している人のそばにいると、いつの間にか二項対立に巻き込まれている気がする。そういう人の言説をわざわざ見に行って勝手にいらだってたりするのはマジで末期だなって思う(僕もたまにある)自分も差別の話に今興味があるけど、この境界線を見つめすぎるのもいかがなものかというのは、ちょっと覚えておきたい。

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