還暦記念1

おかげさまで還暦になりました。早生まれだからやっと、というべきだろうか。この三月生まれでおまけに早産で小さかったので子供のころは正直とても苦労した記憶しかない。早産で発育が遅いうえに同じ年でも11か月の肉体差は幼児ではでかいわけで。特にうちは両親ともどちらかと言えば小柄なほうなのでどちらに似てももともと大きくはならない、のは明白だし。

幼稚園時代はそれでも何とかなっていた。ただ今でもいくつも記憶があるけれど皆と同じことが出来ない事が多々あった。折り紙は特に苦手で全く理解できなかった。空間認識が弱いんだろうね。好き嫌いもすさまじかった。でもお弁当だし家まで幼児の足で3分ほど、と近かったのでどうにか過ごせた。

小学校に入学する際にこれは大人になって聞いた話だが知能テストとかそういうモノで僕は普通学級での学習は難しいだろう、と判断されていたらしい。ただ幸か不幸か当時の学校には普通学級しかなく学校側と相談してまず試してみてだめなら一年を二回やる、という選択肢もあったそうな!

実際一年の時の担任は大ベテランの女性でこの人は良くしてくれたと思う。発育のバランスのとても悪い僕は人並みにできる事もあれば全然ダメな事もあったからそれを把握するだけでも大変だったと思う。一年生の成績表を見ると普通である3の評価も多少はある。それよりすぐに泣く、という記述が当時の僕の恐怖心を表しているね。よくいじめられたし虐めようとしているんじゃないか、って疑心暗鬼になるし・・世の中は怖いものだらけだった。

なんとか二年に進級、低空飛行ながらギリギリ墜落はしないですんだ。二年の担任もベテランの女性教員だったがこの女は最低だった。多分僕みたいな発達障害的な子供の事をただの「甘えん坊」だと考えていたんだろう。ただのわがままな奴、だと扱われた気がしてならない。この教師のせいで小学二年でもう「登校拒否」が始まってしまった。

今も食の仕事をしているが僕は生まれつき匂いに敏感だ。50年以上前の給食は正直レベルが低い。特に豚肉は不味かった。安い肉は本当に酷い代物だったのだ。うちはエンゲル係数の高いタイプの家で(笑)まして好き嫌いの多い偏食の未発達児童は自分が食べられるもの以外は食べない、いや食べられない。親も喜んで食べる物ならとりあえずなんでも与えて栄養を、と考えたのだろう、ぼくの食事は少々贅沢だったのは事実だ。

ただね、今でもよく覚えているけどあの時代の安い肉、国産しかない時代の安い豚肉は本当に臭かった。家で食べる豚ひれとか脂身を取ったロース、とかは嫌いじゃなかったけどあの臭い脂身だらけの三枚肉なんてとても食えなかった。でも鬼担任は食べるまで昼休みにさせてくれず。そのまま午後の授業になるまで机で耐えるしかなかったことも幾度もある。

それ以来、自分が食べられない献立の日は4時間目前後でおなかが痛くなったり気持ちが悪くなったりして小学二年生にして「早退」を覚えた。帰宅すれば治るわけだからうちでふつうに昼を食べて午後は元気だ。酷い時は週に2回も早退している。この教師はまた僕の事をただの低能児だと思っていたのだろう。話を聞いてくれたことがない。

何かを聞かれてすぐに答えないと「ハイ次の人」って平気で飛ばす。そういう事が続くともう差された瞬間にパニクるよね。今でもよく覚えていることがいくつもあるけど一番記憶にあるのは授業中にこの教師が僕らに向かって「右側の〇×が・・・」と説明したんだ。当時の僕でも右と左はちゃんと判っている。ただ自分の疑問をうまく説明するだけの語彙はないしまして意地悪されている教師相手だからしどろもどろになりながら質問した。

「先生、どっちの右ですか?」

「右は一つしかありません!!!」と無視された。

分かるだろうか?僕がきいたのは自分から見て右なのか教師の側の右なのか? 対面だから教師の右手は僕から見たら左側だ。だからそれを確認したかったのだけど悲しいかな「語彙がたりない」から上記の質問になった。

僕はそういう子供だった。でも自分の名誉のために書くがこの頃僕は海で貝を拾い集めるのが趣味で大人用の図鑑を買ってもらいそれをいつも眺めていた。だから地元の海で拾い集めた数百種の貝の名前はすべて覚えていたし図鑑のどのページにあるかも分かるっくらいだった。本は好きで字も読めたからこの頃から父親が若いころに買った岩波文庫を読んでいた。旧かなだがけっこう読めるもんだった。トーマス・マンの短編はお気に入りだった。でも算数は二けたの足し算も怪しいし九九も出来なかった。大体担任が怖いし嫌いなんだからそいつのいう事は身につく訳もない(笑)

三年生になっても担任もクラスも変わらなかったが僕が少しだけ成長を始めたらしく少しだけ成績が上がるようになった。でも偏食はひどかったから外で食事をするときに食べる物は限られていたけど。この頃は学校はいやいや行く場所だった。楽しい記憶はほぼない。僕が学校を楽しめるようになるのはもう少し成長してからになる。今でもよく覚えているのは毎日登校して今日は虐められないだろうか、いやな事をされないだろうか・・・恥ずかしい思いをしないだろうか・・・そんな思いばかりの毎日。確かに過保護に育っているから弱虫なのだ。身体も小さいしやり返す、なんて想像もできない。ただ泣くだけ、そんな子供だった。勉強もできず、もちろん運動も出来ず、人より優れたものなど何もなく、体は小さく華奢な女顔で・・・

僕がボランティアで障碍者の施設で料理を教えていた時に施設の方からよく聞かれたのは「経験あるんですか??」だった。僕自体が彼らと同じような経験をしているから分かることがたくさんあるんだよね。これは何でも「すぐに出来た」普通の人には理解できないだろうけどね。自分が人が出来ることが出来ない、という事は当然分かるからね、あれは悲しいんだよね。

「なんで自分は出来ないんだろう??」って考えてしまう。考えるとどんどん落ち込むんだよ。でもその人がわかる伝え方っていうのもある。一人一人の理解力が違うから同じ説明では無理だけど個別に話すとある程度理解できることも結構ある。それに好き嫌いもあるしね。そういう事って出来ない自分を経験していない人には多分頭では理解しても分からないんだろうなぁ、っておもう。                   つづく


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