カメムシは甘いコーヒ-に溺れる夢を見る。

予期せぬ出来事は常に起こる。大概は嫌な事だ。
特に金が絡むとよい結末にはならない・・
仕事をしたら代わりに金をもらう。当然の事で
世界で多分もっとも普遍的な行為の一つだと思う。
それを簡単に無かった事にされるのは非常にこまる。

「お、悪いんだけど、この前のギャラね、いまちょっとうちも苦しくてさ、少し待って欲しいんだよ、よろしくな」
こんな留守電一本で2週間分のギャラを払わないで済む話はない。
こちらから連絡しても出やしない。

流石に頭に来て先方がいるであろう場所に押し掛ける事にした。
目途は付いている。
天気は晴れ、車の窓から入る風が気持ち良くてエアコンの要らない
貴重なドライブを楽しんだ。

で、ふと視界に何か動くものが・・いつの間にか車の窓の内側にカメムシがいる。
窓全開だからどこかで飛び込んできたんだろう・・・
そのうち出て行くかと思っていたんだが出る気配がない。
本人も出たいようなのだがどこに向かえばよいか分からず一生懸命に窓からサンバ-ザ-をよじ登り、横切り、今度はミラ-を上り反対側からまた窓に移動した・・
どうしたらいいんだろう・・ どうしたら彼は(彼でいいのかな?)
外に出る事が出来るんだろうか?

手元にさっき飲み干したコンビニのコ-ヒ-の紙コップがあった。
ほんの少しなかにコーヒ-が残っているけど溺れるほどじゃない。
カップの蓋を外して彼をカップの中に誘導して蓋をした。
快適かどうかは分からないけど間違えてつぶしたりする悲劇はこれで避けられる。一安心だ。

カップの中でカサカサ、という音がする。動いているなら生きているという事だからまあとりあえず車を止めてどこかでサヨナラできるだろうと意識から消えた。
問題は入ってこないお金の問題なのだ。2.3日分ならとにかく2週間分、というのは洒落にならない。生活に間違いなく支障をきたす。

さて、現地到着。と思ったんだが店が開いてない。ここは奴が今一番力を入れているお店で奴の彼女が仕切っているはず。
その店が・・・無い。いや、建物はある・・が看板は一切なく、店の中も外から見える範囲でほぼ空っぽ。空き店舗になっていた。
よく見ると入り口のドアのところに封筒が何枚か差し込まれている。
なんとなく状況は理解できた。
「飛んだな・・・」
多分夜逃げだ。ま、この業界ではよくある話で資金繰りがうまくいかなくて
最後は店の什器一切合切をたたき売って現金にして消える、というパタ-ン。専門の買い取り業者もいる。飲食店の設備って言うのは買う時は数百万かけて工事もするがこういう時はせいぜい10分の一にしかならない。多分今回の様に時間がない場合はさらに叩かれて20万がいい処だろう。
業者はそれをざっと2-300万くらいで売るはずだ。冷蔵庫、製氷機、ガスレンジ・・確かこの店はオーブンのいいやつが入っていた。それに調理器具に食器。買うとかなりの金額になる物ばかりなんだが、売る時はただの中古の鍋に皿、グラスなんぞは二束三文、ほぼ値段は付かない。

あてを無くして困惑した俺はそれで仕方なく車に戻った。
強い奴を一杯ひっかけたいところだがあいにくと俺は下戸だ。
やむを得ず、車をスタ-トさせて近くのコンビニへ行き
熱いコ-ヒ-をもう一度買いこんだ。さっきは砂糖を入れたが
今度は何も入れず苦くて熱い液体を口に流し込む。

ドアを開けてシ-トに座って苦いコ-ヒ-を飲んでいると
カサカサ、カサカサ、って音がする。
「あ、悪い悪い・・」
さっきのカメムシの事をすっかり忘れていた。
彼の入った空のカップを持ち、車の外に出た。幸いコンビニの駐車場のわきの方に草むらがあったのでそこで蓋を取って中にいた彼を
外に出してやった。
ふたを開けても出てこないので最後は逆さにしてやっと外に出たところを見ると案外と甘いコーヒ-は気に入ったのかな?

カメムシが何を食べるのか知らないんだが、
とりあえず無事に草むらに戻ったようなので安心して空のカップをゴミ箱に放り込んだ。
突然カップに取り込まれうすら甘いコ-ヒ-の中に落ちたカメムシはどんな気分だったんだろうな・・ふとそんなことを思った。

「今の俺も似たようなもんか・・」 
カップの牢獄から解放されたカメムシの事をふと思った。
俺の入っているカップは誰かがふたを開けて解放してくれるのかな?
いま俺は甘いコーヒ-に溺れた彼と同じなのかな?
牢獄だと思っているのは俺だけで中にいた彼には天国だったのか?
ま、どうでもいいか。
エンジンをかけて車をスタ-トさせる。とりあえず一度帰ろう。
相変わらず天気はいい。でも窓は全部閉めた。
今は一人になりたいんだよ、俺はさ・・


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