”愛”とは _ 天気の子_宮本から君へ_観て
2本の映画を観た。
1つは最新作”すずめの戸締まり”が上映している新海誠監督作の”天気の子”。そして、もう1つは漫画原作の”宮本から君へ”。
いわゆるセカイ系と呼ばれるジャンルの現代的なアニメ映画と、バブル崩壊直後の日本を舞台に描かれたヒューマンドラマ。
一見、共通項がないようで
どちらの作品でも、愛が語られている。
本noteでは、2本の映画を通して”愛”について考えてみた、という話だ。
古典ギリシア語では、愛を表現する言葉が4種類存在する。
性愛を示す「エロース」、友愛を示す「フィリア」、自己犠牲的な愛を示す「アガペー」、家族愛を示す「ストルゲー」。
確かに愛情を向ける対象によって、そのナカミは異なるだろう。細分化するとすれば4種類どころか、それこそ人の数だけ存在してもおかしくないだろう。
そう、正解など、定義などないのかもしれない。
その上で、青臭く”愛”について考えてみる。
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※以降、作品のネタバレを含みます
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主人公森嶋 帆高(もりしま ほだか)がヒロイン天野 陽菜(あまの ひな)を求める、愚直な愛。社会のことなんて、周囲の大人のことなんて1つも気に留めない省みない行動。
陽菜自身も帆高に助けを求めてなどおらず、帆高は自分の好きという感情と、勝手に背負った責任感と使命感をガソリンに突っ走る行動は、愛、なんだろうか。
暴走して銃を振り回し、衝動のままに突っ走る映像とともに流れるRADWIMPSによる主題歌「愛にできることはまだあるかい」は
これが、愛、なのか。
と疑問に感じる大人の私と、これこそが愛だよなと納得する少年の私がいた。
僕の全正義、とあるように
社会通念上の正義ではなく
”僕の”正義なのである。大人に諭されても反抗し、警察に追われ、結果的に東京を沈めることに繋げた帆高の行動を、正義、といっているんだろう。
そんな勝手極まりない行動を、”君”に全乗せしている。
頼まれてもないのに。
簡単にあらすじを記載する。
物語の中で宮本が愛のために突っ走り、言動のすべてで愛を示そうとする。宮本は圧倒的な対格差のある拓馬に挑んで、歯も抜ければ骨も折れる、しまいには金玉がつぶれるほど喧嘩をする。
この行動の源泉は、いちおう、"愛"だと思う。
靖子を愛するが故、そして靖子への愛を示すための行動。
しかし靖子はそんなことを頼んでもなければ、ボロボロになった宮本を見て一歩引いて呆れる様子すら見せる。
「そんなこと頼んでない」
「自分が納得したいからじゃないの」
「自分のプライドが傷つけれられたからでしょ」
愛、ときけば美しく尊いものを想起するが
本作では、メッキが剥がれる。
不格好な、エゴの塊でしかない。
”天気の子”も”宮本から君へ”も
描かれる”愛”は、相手の気持ちや都合なんて深く考えていない、自分本位な衝動に任せた行動でしかない。
社会的な価値観でもなんでもない、自分だけの美徳の為だけの行動、その背景に大事な誰かがいれば、愛と呼称して取り繕えるのかもしれない。
愛とはエゴである。
しかし、エゴは愛ではない。
ここは間違えてはいけない。
帆高は、天候のバランスを崩したことも陽菜が人柱になることも東京を沈めたことも、自分の責任と捉えて、その上で陽菜と一緒になる。宮本は、お前がどう思おうが死ぬまでそばにいて、子どももまとめて幸せする、と言い放つ。
自らのエゴを愛とするなら、その責任を負う、あるいは取らないと、”愛足りえない”のだ、と思った。
自分の感情や行動に不安になることがある。これは自分本位な、実に利己的で卑しい打算のもとに起こっている感情や行動なんじゃないかと不安になることがある。
これからの人生においても、そんな不安に駆られることは幾度かあることだろう。そんな時は、またこれらの作品を観て、思い出したい。
愛するなら責任とって愛するんだよ。