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私の求道体験記 ①仏教は宗教か

自己を見つめ
自己を知る

ただそれだけのこと

他に何があるというのか
ここひとつを聞かせていただくのだ

それが
真実へと続く、ただひとつの道

自分とはなにものであるか
どこから来て どこへゆくのか

これを
徹底して、真剣に 
どこまで自分自身に問えるか

茶化さず
誤魔化さず 
投げ出さず
傲りを棄てて

これが分れ目

自分という人間の正体が
はっきりとわかった

その刹那

あなたは初めて聞くだろう
永劫からの呼び声を 

そして
すべては無効であったと
驚き、諦め、歓喜するだろう

 今から一年と少し前、不思議なご縁に導かれ、私は仏教に興味を持ち始めました。そして聞法(仏の教えを聞いていくこと)を開始し、日々色々なことを思い、考え、感じながら、気がつけば季節は一回りしていました。

 この間、本当に様々なことを学び、教えられました。また、今まで思いもしなかった新たな視点を養うことができました。少し大げさかも知れませんが、私は仏教と出会い、その教えを聞いたことで、世界の見え方が大きく変わったと感じております。

 そして、本当にごく最近のことですが、自分の中で大きな心境の変化がありました。その変化は予期せぬかたちで不意に訪れ、実に不思議としか言い様のない体験として私の脳裏に鮮烈に記憶されました。例えて言うならば、今まで自分が信じていたものがガラガラと音を立てて崩れ去り、ハッと目が覚めた、という感じです。そして私は、この体験をひとつの区切りとし、これまでの自分自身の求道体験を振り返りながら、記録として書き残そうと思いました。私が学んできたことや、心境が少しずつ変化していく過程を皆様にシェアすることにより、一人でも多くの方が仏教に興味を持ち、仏縁を結ばれることを心より願っております。このnoteが皆様にとってそのひとつのきっかけとなれば、これほど嬉しいことはありません。

そもそも仏教は宗教?

 さて、現在、仏教もキリスト教もイスラム教も、はたまた怪しげな新興宗教の類いも、一般的には、すべてひとくくりに「宗教」とカテゴライズされていますよね。私が仏教を学んだ上で強く感じるのは、この前提、つまり「仏教も数ある宗教の中のひとつ」という認識が、そもそも大きな誤解を招いているのではないかということです。

 仏教とは、文字通り「仏」の「教え」ということですね。ここで最初の疑問が出てきます。「仏」とは何か?その「教え」とは何なのか?ということです。仏教は「仏法」とも言います。私は仏教より「仏法」という言い方のほうがしっくりくると思っております。「法」とは真理、つまり過去・現在・未来を通して、決して変わることのない普遍の真実ということです。それを分別の心なく、ありのままに観ることができる存在が「仏」であり、この真実・真理である「法」を教えているのが、仏教ということになります。

お釈迦様の教え

 ご存知の通り、仏教、つまり「仏から観た真実・真理」を説いたのはお釈迦様です。歴史の授業でも習いましたよね。お釈迦様は、今から約2,600年前に生きられた方で、35歳で悟りを開かれ、80歳でその生涯を終えるまで、多くの人々に法を説かれました。仏陀、釈尊、釈迦如来など、様々な呼び名で呼ばれておりますが、これらは全てお釈迦様のことであり、この地球上で仏はお釈迦様ただ一人です。

 お釈迦様の前にも後にも「仏」と呼ばれる存在は地球には現れておりません。仏教とは、地球上でただ一人悟りを開かれ、生きながら仏に成られたお釈迦様が、言葉によって我々人間に真実・真理である「法」を説かれた教えということです。この「言葉によって」というところが実はとても重要なポイントなのです。神通力でも、超能力でも、奇跡でもなく、あくまで言葉なのです。

信仰心のすがた

 私は宗教について詳しいわけではないので、誤解があるかもしれませんが、宗教というものを「信仰心の具体的な現出」と捉えています。信仰心はそのまま、その人の日々の暮らしぶりや生き様など、目に見えるかたちで如実に現れるものであると。そして、信仰心には必ずその信仰の対象となる存在があります。それは、キリスト教やイスラム教などの一神教では、神=アラーであり、神道では日本国創生の古代の神々や八百万の神々などです。

 では、仏教では仏がその信仰の対象か?と問われると、そうであるとも言えますし、そうでないとも言えます。何とも歯切れの悪い言い方で申し訳ございません。ただ、ひとつ言えることは、仏教(その中でも浄土真宗)における信仰心と、その他の宗教における信仰心には大きな違いがあるということです。私自身最初はそんなふうに思っておりませんでしたが、仏法を聞いて、具体的にその教えを理解していくことで、仏教における信仰心(信心)というものが何なのか、少しずつ見えてきました。この点については、最も重要なことですので、今後詳しく書いていきたいと思います。

自己の発見、自己の解決

 現時点で私がたどり着いた理解としては、仏教とは「自己の解決である」ということです。つまり、自分とは何であるか?どこから来てどこへゆくのか?この問いに対しての答えを提示してくれるものこそ仏教であり、これは人間としてこの世に生まれてきた私が、そして、すべてのひと、一人ひとりが「人生の大きな目的と出会う道」と言い換えることもできます。

 たとえどれだけ仏教を学んでも、仏様に手を合わせても、お布施をしても、いわゆる現世利益(家内安全、商売繁盛、子孫繁栄、健康、長寿、恋愛成就、志望校合格、等々・・・)が得られるわけではありません。このようなものを求めている人には、仏法を聞くことはお勧めいたしません。スピリチュアル○○や引き寄せの○○、風水や占いなどが良いと思います。

 多くの方が無意識に仏教を「神頼み」や「縁結び、願掛け」のようなものと混同しているように思います。だから初詣には神社だけでなく、お寺にも参って「今年も健康で無事に良い一年が過ごせますように」と祈願するのです。仏様にお願いすれば良いことがある、逆に仏様を無下に扱えば罰が当たる。こんなことは仏教では一切説かれておりません。仏教とは全くもって無関係な話なのです。言い換えるならば、仏教では、辻褄の合わないこと、根拠のないことは、何ひとつ説かれてはいないということです。仏教は恐ろしいまでに徹底したリアリズムの世界であり、「仏教的にはこう考える」というような曖昧な話ではないのです。

 仏教で説かれていることは、上で述べたように、人間とは何か、自分とはなにものであり、どこから来てどこへゆくのか、たったそれだけのことです。その解決がすべてと言ってもいいでしょう。「自分はそんなことにはちっとも興味がない。人生楽しく生きて死ぬだけだ。」と思っておられる方にとっては、何の意味もないことかもしれません。また、人生の中で、「これこそ私が生きる意味」と思える生き甲斐を見つけ、それに邁進している方にもあまり興味のない話でしょう。人は、何らかの縁に触れ、自分の中で「己とはなにものか」「死んだら自分はどこへいくのか」ということが、どうしようもなく大きな問題となったとき、初めて仏教を聞こうという思いが沸き起こるのです。多くの場合、その縁というのは、どうにもできないほどの人間の深い悲しみや、苦しみなのではないかと思います。そして、その解決への道を誰もが理解できるように「言葉」で、かつ「具体的に・詳細に」提示してくれているのが仏教なのです。

真実はどこに

 ところが、すべてとは言いませんが、現在日本の多くの寺院や仏教施設で「私とはなにものですか?」と問うても、明確な答えが返ってくるとは思えません。そもそも、そんなことをど真剣に問うためにお寺に足を運ぶ人などほとんどいないでしょう。大抵は、やれ桜だ、紅葉だ、枯山水だと、そんなもので、あそこのお寺は素晴らしいとか、いまいちだとか、分かったようなことを言っているのが我々です。

 お寺によっては、仏教の本来の教えは捻じ曲げられ、ともすれば現世利益を肯定するような活動すらなされております。仏教に従事する側の人間が、率先して祈祷紛いのことを行っては「家内安全」や「商売繁盛」などと言ってはばからず、立派な葬式や法事をあげては、「故人様や御先祖様の霊も大変喜ばれております」などと宣う始末。生きている時にはお経の意味なんか全然わからないのに、死んだらそれが突然わかるようになって、ありがたいと思えるようになる。そんなことあるわけないでしょう。ナンセンスとしか言いようがありません。

 現代は「末法の世」と言われています。仏教文化・思想が深く根付いている日本でさえ、人々は真実・真理を自ら遠ざけているのです。そんなものあるかと鼻で笑い、本当に大切なものを見失い、それを見失っていることにも気づかず、間違った方向に導かれ続けているのです。仏教は、あなたやあなたの大切な誰かの欲望(煩悩)を満たすためのものでも、死者を極楽へ導くためのものでもありません。仏法を聞けば聞くほど、現在の仏教を取り巻く状況には、疑問を抱かざるを得ません。

不思議なご縁

 そんな中で、私は本当に不思議なご縁で、本質から外れた仏教ではなく、真に自己を解決する教えとしての仏教に出逢わせていただくことができました。なぜだかは、全くわかりません。特に取り柄もなく、もちろん偉くもなく、勉強熱心なわけでもない私にとって、これは僥倖としか言いようがありません。

 今、このnoteを読まれている方の中にも、私と同じように「人間とは何か?私とは何なのか?」という疑問を持たれ、その解決を図りたいと考えておられる方がいらっしゃると思います。私は、そんな方にこそ仏教に、それも正しい仏教に出逢ってほしいと切に願っております。

 仏教は、「人間はどう生きるべきか」という道徳論のようなものではありません。確かにそういうことも説かれているのかもしれませんが、それは本質ではありません。また、「信じるもの(だけ)は救われる」という閉鎖的で排他的な信仰でもありません。それは、「人間」そのものを問う厳然たるリアリティであり、広大無辺の自利利他の世界へ「私」を押し出してくれる道であり、智慧であり、具体的方法論なのです。

 今回は、第一回目として「仏教とはそもそも宗教なのか?」というテーマで書いてみました。皆さんはこれを読んで、どう思われましたか?次回からは、私が聞法をしていく中で、具体的にどのように自己と向き合っていったのか、そのあたりについて詳しく書いていきたいと思います。ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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