響き合う安房のコミュニティー

安房と書いて、「あわ」と読む。千葉県南の鋸山や清澄山系以南の館山、鴨川、南房総、鋸南町を指す。その昔、安房国だった。徳島の阿波から古代氏族が黒潮を渡って切り拓いたという伝説がある。

現人口は、12万ほど。県人口でいうと2%なので、非常に少ないが、半島の突端に位置するため、ある意味島国の独特のコミュニティーが育まれている。

房日新聞、という日刊の県域紙が、この地域限定で今も残っていること自体が稀有なことで、住民が気づかないぐらいに自然に、地域性がある。

今日は、コミュニティーの適性人数からはじめたい。

昔、古代ギリシャの賢人、アリストテレスは、ポリスの適正人数を1万人だか、5万人だか基準を示した話を大学の講義で聞いた覚えがある。大事な点は、まちを歩けば、見たことがある人がいるが、誰かは分からない、というのが日常に多々ある状態という密度だと記憶している。

東京では、目的地に着くまで、数千人会っても知らない顔ばかりだろう。反対に、100人ぐらいの村だと、全員の素性や裏話まで熟知している状態で、どうにも窮屈である。

安房も、一か所に住めば、当然、周囲の人は気の知れた密度の高いコミュニティーになる。そこには、何百年も前から受け継がれた伝統があり、郷に従う必要もある。

一方、館山の中でも、そういった密な、比較的大きなコミュニティーが10か所ぐらいあり、相互に仕事や結婚などで人の移動はあれど、緩やかにつながっているだけで、介入はない。

ある意味では、自治体の区分とは別の、自治が成り立っている。

その証左が、祭りである。祭りは、地域にあるひとときまで不文律で継承されてきた、営みそのものが無形文化である特殊な制度。日中は、背広をきている人も、炎天下で農作業をする人も、祭りになれば、上下関係は別だ。地域の人として、仕事とは別のペルソナがあり、営利関係から離れているがゆえに、風通しのよい関係が生まれる。

きょうは、とある祭りをコロナ禍で開催するか、しないか、やるならどこまでやるか、といった会議の場に取材で入った。

あの祭りは中止した、あの祭りは合同で集まるのを途中でやめた、といった情報がある。それに対して自分たちは、どうするか。特に中心となる町は決断を迫られるし、批判を一手にうける度量も求められる。

それぞれが、独自の判断で決断し、それが他の町へも波及して、判断の材料になる。響き合っている。

あまりに大きな組織だと、自治意識は生まれない。ある程度の顔が見える関係で、代表を選び、代表者の決断に従う、といった営みは、絶妙なバランスで出来上がっている。そう感じた。

その点、安房は人口が減る一方ではあるが、三方を山に囲まれ、都会にほど近くあれど、古来の風習が今も残る地域である。

ちょっと話は飛んでしまうが、そういうコミュニティーでの意思決定のプロセス、葛藤、協働、この全てがポリス的人間の「幸福」なのだと思う。

全国紙を読んでいても、国への帰属意識は生まれないだろう。他方、地方紙の中でも、特に数万ほどの県域紙には、人々の「響き合い」がある。


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