老害に孫の声を聴かせる話

今日の朝、通勤中に車を運転しながらこの動画

を見て(聞いて)号泣したので
みなさんぜひ見てください。

ぜひ見て欲しいのですが、これを見て私がどう思ったか、を話したいので
この動画の説明をネタバレありで書きます。
ネタバレが嫌いな方は先に動画を見てください。
おそらく内容を知った上で見ても十分泣けると思うので
内容を書いていきます。

極限まで要約すると、
オリラジの中田さんがお母さんに補聴器を買ってあげた話です。

以前からお母さんの耳が遠くなっていて、
なんとか補聴器を買ってあげたかったそうです。
しかし、お母さんは要らない、と固辞し続けます。
風の音も鳥の声も聞こえるしそれで十分と。

とはいえ、大きな声を出さないと会話にも困るぐらいだったので中田さん的には補聴器をつけて欲しい。
相方の藤森さんのお母さんも補聴器をつけて聞こえるようになったそうで
なおさらつけてほしい、
と思っていたわけですが、なかなか聞いてはくれません。

そこで、一計を案じるわけです。
お母さんの誕生日にお茶会を開いて両親を招待しよう。
お母さんは以前茶道を習っていたことがあり、
その時に中田さんに豊臣秀吉と千利休の不思議な因縁について語り、
それが中田さんの心に深く残っていた。
それが時を経て、中田さんも今茶道を習っている。
そのような経緯を踏まえつつ、お母さんをお茶会に招待したら相当喜んでくれるに違いない。
その代わり、補聴器を買いに行くことが条件である。
といういわばアメとムチ作戦です。

これを聞いていた私はため息をつきました。
高齢者はいつもこうだ。こちらが良かれと思って、純粋に本人のために勧めていることですら
謎のこだわりで断って、結局困るのは周り。
これが老害というものか。
そんな場面を医療でも実生活でも数えきれないぐらい見てきた私は
またか、みんなそうなのか、本当に世話が焼ける、やれやれだな
と呆れた気持ちで聞いていました。

それはともかく、結果的にはこのアメとムチ作戦は効を奏します。
補聴器を作るには診断書が必要なのですが、
お茶会までに診断書はもらってくること、という約束を取り付けます。
そしてお茶会後に補聴器を買いに行こう、という算段になりました。

お茶会とは究極のもてなしだそうです。
道具から空間まで全てをその人にカスタマイズしてもてなす
美術から建築までの総合芸術、それがお茶会である
と中田さんのこれまでの動画でも解説されていました。

全ての道具に意味づけをして、特殊な空間を作り、
濃茶という強烈なカフェインを摂取する秘儀的楽しみを含みつつ
特別な時間を提供する
そして、お茶会の最後の最後に茶杓、抹茶を掬う匙のような小さな道具を客に見せ
その銘を告げ、意味を説明する。
それが、そのお茶会全体のテーマを示すものとなり、大オチとなる。
そのような構造になっているそうです。

さて、当日、お茶会が始まり
中田さんがいろいろな道具にまつわる意味を
両親に説明しながら会は進んでいきます。
以前お母さんから聞いた、秀吉と利休の因縁。
それらに関連する道具を使い、説明しながら思い出と今とを繋ぐ話をしてもてなします。
しかし、お母さんはよく聞こえていません。
何度か説明を聞き直しながら進みます。
そこで中田さんは苛立ちと不安を覚えます。

この説明こそがお茶会の醍醐味なのに、
聞こえていなかったら意味がないじゃないかという苛立ち

そして、補聴器をつけても聴こえるようにならなかったらどうしようという不安。

それらを孕みつつ、会は進み、なんだかんだで両親は喜んでいます。
そして、最後、茶杓の銘の説明です。
この日のためにこだわりぬいて特注で作った漆塗りの真っ黒な茶杓。

しかし、意味づけに迷っていました。
会の大オチをどうつけるべきか、探っていたそうです。
黒はどういう意味を持つか。
中田さんは今、奥さんが第三子妊娠中、もうすぐ生まれます。
新しく生まれる命と、お母さんの誕生日。
そこを結びつけるものとは。
黒から、暗闇の中から新しく生まれる命をイメージしました。

そして、銘を告げます。
お母さんが聴こえなかったらいけないので耳元に近寄って告げます。

「頂いた命」

しかしお母さんは聞き取れません。「ん?命?」

「頂いた命です。お母さん産んでくれてありがとう」

今度は届きました。お母さんは喜んでいます。
「こちらこそ生まれてくれてありがとう」


この時点で私は涙ぐんでいました。
先ほど、老害だ、などと思ったことを反省しました。
こんな美しい親子愛の話があるだろうか、と感動しました。

しかし話は続きます。
正式なお茶会では抹茶を飲んだ後には食事も食べるそうです。
そして食事しながら中田さんは聞きます。
「診断書持ってきた?」
お母さんは
「それがね」
と答えます。
もしかして、持ってきていない?
するとお母さんは手紙を渡します。

「診断書は持ってきたけど、神経の問題らしくて補聴器では無理らしい。だからもういい。風の音も聞こえるし鳥の声も聞こえる。私は老いを受け入れていきたい」

そのような内容の手紙でした。

しかし、それでは納得できない中田さん。

なんだそれは。
鳥の声が聞こえたらいいのか
風の音が聞こえたらいいのか

いや、俺の声が聞こえないじゃないか

今日だって聞こえてないじゃないか

茶杓の銘を耳元で言っても聞き取れなかったじゃないか

俺は喋る仕事なんだよ

俺の才能は喋ることなんだよ

聞いて欲しいんだよ


と涙ながらに語ります。


この時点で私は号泣しています。車を運転しながら。
前が見えません。
話は続きます。

ダメでも良いから補聴器屋には行こう
それで聞こえなかったら仕方ないがやるだけはやろう
と説得します。

しかしお母さんはまだ反論します。
この前映画を見た、その映画は耳の聞こえない人が全財産はたいて補聴器をつけたら
街の喧騒がうるさくて愕然とした、という最後だった。
とのこと。

なんだそれは、と中田さんは憤ります。
余計なノイズが聞こえなかった、というのがかっこいいのか
その映画がオシャレなのか
街のノイズも大事だし
何より

俺の声が聞こえてないじゃないか!

説得して、なんとか予約していた補聴器屋に行くことになりました。

行ってみると、
絶妙にカスタマイズして作れば、聞こえてうるさくもなく
ちょうど良いものができるかもしれない、とのこと。
診断書はありますがその場でさらに検査をしてカスタマイズした補聴器をつけてみました。

すると、お母さんは驚きます。
自分の声が大きい、と。
耳が遠いと声が大きくなるものですが
補聴器をつけてよく聞こえるようになったので
自分の声の大きさに気づいたのです。
どうやら、悪くはなさそうです。

それでもお母さんはまだ言います。
車の音とか喧騒があると…

実際に外に出てみました。車が走っています。
そしてお母さんにどうなのか尋ねます。
すると

「普通」

つまり、うるさくもなく、ちょうどよく聞こえる、とのこと。

良かったじゃないか。
補聴器を買おうとしました。

それでもお母さんは、
「いやでもこれ高いでしょ」
と固辞します。

そこで中田さんは言います。

出せるよ
俺は欲しいものないんだよ
何のために金貯めてると思ってるんだ。

そう言って購入しました。

「聞こえて良かったじゃないか
もう世捨て人みたいになったのかと思ったよ」
と中田さん。

それに対してお母さんが隠していた本音を言います。

「この前、あなたの娘と息子を預かったでしょ。公園で遊んだのよ。
そしたらね、聞き取れない時があってね。その時思っちゃったんだ。
本当は聞きたかったな、って。思っちゃったんだよね。
鳥の声と風の音が聞こえるからいいかなと思ってたんだけど。
孫の声聞きたいなって本当は思ってた。
だから嬉しいよ。」


私はもう、嗚咽しながら運転していました。
もうすぐ駐車場に着きます。
始業時間も間近です。
しかし、これは最後まで聞きたい。
なんとか最後まで聞こう。
駐車場から職場までは徒歩5分ぐらいの距離。
走れば何とか始業時間には間に合うだろう。


そして補聴器をつけたままお母さんは帰ります。
電車の駅で別れ際に中田さんは言います。

中田さん「あ、母さん、誕生日おめでとう。今日、誕生日だったろ。」
お母さん「ありがとう!」
中田さん「聞こえてんじゃねえかよ」

そのままお母さんは帰っていきました。
というお話でした。

そして中田さんはもう少し話を続けます。
最新のテクノロジーで作った補聴器は高齢者を救っている。
聞こえなくなると人とコミュニケーションを取りたくなくなる。
認知症の進みも早くなる。
人と話すのは生きる力だ。

妻と子供に感謝している。
俺の声聞きたくないのか、と言ったが
母親の心を動かしていたのは
孫の声を聞きたかったということだった、と。

…いや、俺の声は!?

というツッコミがオチで話が一段落となりました。

さらに

頂いた命を繋いで孫が生まれて、その孫が母親を救ってくれたんだ
と思うと不思議だな、と思った

という感想で動画は終わりました。

さて、私はそれから
号泣した目を腫らしながら職場に走っていきました。
そして走りながら考えました。

中田さんは41歳、私は44歳、同世代。
私たちの世代の役割はこれなのかもしれない。
今の超高齢化社会で膨らむ社会保障費をなんとかしなければいけない
しかし、それは単に高齢者を排除すれば良い、という話ではないのだろう。
もちろん、高齢者にもかなり我慢してもらわないといけないが
それだって頭ごなしに言って聞いてもらえるわけではない。
アメとムチを使いながら、なんとか聞いてもらわなければいけない。
世話の焼ける話だ。
しかし、その労力を放棄してしまったら、
高齢者の命をいたわる心を失ってしまったら
生きている意味などあるのだろうか。
杜子春も最後に「お母さん」と叫んだことで地獄に落ちずに済んだ。
さすがにそれぐらいの人としての情は必要だろう。

そして何より、高齢者も自分のことばかり考えているわけではない。
自分の老いを受け入れる気持ちはある。
その遠慮が空回りして、結果的に悪気は全くないのに周囲に迷惑を掛けてしまう
そんな場面は今までいくつも見てきた。
そして高齢者も、本当は「孫の声が聞きたい」。
次世代を愛する気持ちは間違いなくある。
その気持ちが現実とうまく噛み合っていないだけ。
それをなんとか調整していくのが私たちの世代の使命なのではないか。
それは本当に苦しいことだ。
親の面倒を見ながら、子供のために働かなければいけない。
しかし、それをするしかないんじゃないか。
自分たちが良い思いをしようなどと思える状況ではないのはわかっている。
自分たちが欲しいものなどない。
次世代の子供達のために悪戦苦闘しているだけだ。
だとしたら、自分たちはその人柱となって繋ぐしかない。

俺らの声は?!
と言いたい気持ちもあるが
「頂いた命」を次世代の未来に繋ぐために
倒れて橋になるしかないのではないか。


などと息を切らして走りつつ考えているうちに職場に着きました。
後期高齢者が大半の病院に。
何とか始業時間にギリギリ間に合いました。


そしてふと
こうも思いました。

日本も今から本気で走り出せば
何とかギリギリ間に合うかもしれない。



そうは思いませんか?

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