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唯ぼんやりとした不安

 鵜飼くんはとてもきれいだ。

 いつも窓際の席に座って、空っぽの眼で、どこでもないどこかを眺めている。かれの机はいつしか空っぽになり、いまはそのうえに花瓶がぽつんと乗っていた。鵜飼くんは鳥になった。なんでもない晴れた日に突然席を立って、わたしたちには見えないどこかへ飛んでいってしまった。

 鵜飼くんが死んで何ヶ月か経って、進路を決めたりするのに忙しくなって、あの日のかれが校庭に刻みつけた鮮烈な赤が、みんなの脳から剥がれおちかけていた。そんなある日の夕方、わたしは音楽室でひとりピアノを弾いていた。わたしは推薦で音楽コースのある高校に入ることになっていた。

 ピアノを弾くのが下手くそだったあの子。家がピアノ教室のくせに、譜面どおりに鍵盤を押さえるしかできないのだといって、みんなを笑わせていた。鵜飼くんはきれいだ。だから、笑われるんじゃない。みんなを笑わせるのだ。わたしだって笑っていた。鵜飼くんはきれいに笑っていて、だけどちっとも楽しそうじゃなかった。


『ね、明日世界が終わるといいね』


 いつか。放課後の教室で日直の仕事をしていたとき、鵜飼くんは不意にそう言った。

 わたしが反応に困っていると、かれはひどくきれいに微笑んで、それから教卓の上の花瓶を落っことして、世界が割れたよって言って、ますますわたしを困惑させた。あのとき笑ってあげればよかったんだろうか。いまはひびわれてしまったあの時間、鵜飼くんはなにを考えていたのだろう。

 譜面なんかなくたってピアノぐらい弾けるんだよって、教えてあげたらなにかが変わったのかな。

 教室が真っ赤に染まっているよ。鵜飼くん、わたしの叩く鍵盤はきれいですか。きみが最期に見た校庭のアスファルトは輝いていましたか。鵜飼くんだって、死んだらちっともきれいじゃない。箱詰めにされて焼かれた鵜飼くんはただの灰になった。けれど、鵜飼くんは鵜飼くんだと思ったのだ、わたしは。


 だから、で繋ぐことを、鵜飼くんはきっと望まないけれど。
「ごめんね、また来ちゃった」


 鵜飼くんは今日も、教室の窓からひょっこり顔をのぞかせる。ここが校舎の何階かなんて常識も、死んでしまったという事実も、音楽室の二重窓だって何もかもはじめからなかったみたいに、鵜飼くんの存在はわたしのピアノと結びついてしまった。

 どうして、って尋ねてみたら、鵜飼くんはばかみたいなことを言った。

 きみはクラスで一番ピアノがうまいから。僕はきみをなぜか恨んでいるんだよ、なんて、あのきれいな笑顔で言うのだ。憎しみなんてちっとも見えやしない透明な笑顔は、わたしがピアノを弾くのをやめれば途端に溶けてしまう。鵜飼くんは灰だ。生きていたって死んでいたって、あの子はただの有機化合物だった。わたしだって、燃やせば死ぬ。

 わたしがまた、この即興曲を終わらせてしまう前に。

 燃やせば死ぬような指になんか執着しないよって、鵜飼くんにささやいてほしかった。あのきれいな冷たい声で、わたしにしか聞こえない約束を紡いでほしかった。指きりなんて声だけでできるのだと、音楽よりも数学が得意なあの子に証明してほしかった。どうしてわたしなんかを呪ったのだろう。わたしのほうがずっとずっと、鵜飼くんを恨んでいる。


 鵜飼くんはなにも知らないような顔をして、きょうも半分透明なまま、窓際に立ってほほえんでいる。

 ピアノも弾けないくせに、なんて上手な呪い方なんだろう。


 わたしのつまらないピアノなんかきっとただの遊びに来る口実。愉快犯だ。意味がこれで合っているのかわたしは忘れてしまったし、鵜飼くんもきっと忘れてしまったって言うだろう。

 数式と蝶の名前以外に興味がないような顔をして、その実ほんとうに興味がない、きみがすき。

 せめてこの曲に名前をつけてくれないかと願ったって、きみはただ、意味のない数字を羅列するだけだ。

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もし章が中三で死んでいたらという話


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