【児童文学評論】 No.253  2019.04.30

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  <フォーラム・子どもたちの未来のために>in京都

「私たちの時代・私たちの表現 いま、子どもたちに何を伝えるか」

日時:2019年7月13日(土)14:00~16:30 

場所:「ひと・まち交流館 京都」

定員:200名 

会費:1000円

講演:中島京子

登壇:中島京子・あさのあつこ・長谷川義史・令丈ヒロ子。

お申し込みは以下からお願いします。

https://www.f-kodomotachinomirai.com/event-1


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西村醇子の新・気まぐれ図書室(38) ――語り騙られ──

 

 「目には青葉、山ホトトギス、初鰹」というのは、初夏の季語になるそうだが、ソメイヨシノが葉桜になったと思ったら、あっというまに陽気がよくなった。日ざしのぬくもりで、身も心もほぐれる・・・おや。手もとに『たいよう』という絵本があるからかな。

 『たいよう』は科学系絵本なのに、堅苦しさがない。原作・たいよう(と ステイシー・マカルナティー)、絵・たいよう(と スティービー・ルイス)という著者表示からもそれがわかるだろう。つけ加えると、訳・千葉茂樹、監修・渡部潤一、(小学館2019年4月)。先日、ブラックホールの写真が公開されたかと思えば、JAXAがクレーターを人工的に作ったと報道され、宇宙をめぐる科学技術が「日進月歩」だという印象が強い。とはいえ、もっとも身近な天体となれば、月や太陽だろう。

 本書は「太陽」をさまざまな角度から紹介している。そのひとつが説明に大小の対比を利用すること。たとえば太陽のまわりを8つの惑星が回っているが、その周回日数は地球が365日、すい星が88日、木星が4333日になる。あるいは、ぼく(太陽)がバスケットボールの大きさだとすると、地球は砂粒ぐらい、というように。

 この絵本の語り口はうまい。思わず笑ってしまう箇所もある。太陽は全体が均一に硬いわけではなく、回転するときお腹のあたりは頭や足のあたりより早く回っているそうだ。「おなかのあたりはおよそ25にちで」「あしのあたりはおよそ36にちで1しゅう。」と絵に添えた言葉のすぐ下には、「まねはしないでね。むりだとおもうけど。」とあり、いかにも太陽が語っている雰囲気がある。また、最後の裏見返しは太陽へのインタビューや、太陽に関する一連のデータが載っている。全体にアイデアが光る絵本である。なお本書は宇宙3部作の1冊目で、『つき』『ちきゅう』と続くそうだ。

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 石井睦美作『カイとティム よるのぼうけん』(アリス館、2019年3月)は、ささめやゆきの絵があってこそ。本にはクリームがかった紙が使われる傾向があるが、本書の場合は見返しと扉ページの地色はダークブルー系で、そこに文字が白抜きされている(ただし真っ白ではない)。また活字も基本は黒色だが、ところどころに絵と同じダークブルーの活字が使われ、全体として(まっくらではない)「夜」が演出されている。

 6歳の誕生日に大好きな恐竜ティラノサウルスのぬいぐるみをもらったカイ。「6さいのおにいちゃん」と何度も言われているうちに、つい、これからはひとりで寝ると宣言する。内心では取り消したいのだが、親に(気づいていたとしても)知らぬ顔を装われる。カイを部屋まで送り届けると、まっくらにしないように小さいあかりだけつけて、すぐに出ていったのだ。

 うすあかりのなかでカイが影におびえていると、妖精ティムが現れる。夜がこわくてひとりで眠れない子どもの世話をするのが仕事だという。最初は小さな妖精をばかにし、また強がろうとしていたカイ。だが、「きみがこれまで行ったことのないところに、わたしがつれていく。見たこともないものをきみは見る。きいたこともない音をきく。」と言われ、目をつぶると…。

 一晩目、カイが連れていかれたのはジュラ紀。本物のティラノサウルスのいる白亜紀にも行きたいとごねているうちに、いつの間にか翌朝。二晩目はゆうれい電車にのって宇宙へ。ところが次の晩、ティムはなかなか現れず、カイはやきもきする。次の夜、カイは待ちくたびれて寝てしまう。ようやく訪れたティムから、かけもちのせいで来るのが遅れたときいて、あっちの女の子といっしょに遊ぶことを提案。女の子に誰もきいたことのない「お話」をせがまれてティムは小さな人の国の話をしたという。この後、子どもふたりは小さな人の国(つまり「お話」のなか)に入って、いっしょに遊ぶ。

 エピローグでは、カイがいまでは小学3年で、ティムとの話がずいぶん前のことだと明かされる。読んでいて、夜の冒険の部分があっという間に終わり、少し物足りない気もした。それにしてもいまどきの「ネバーランド」はバラエティにとんでいる。子どもたちの個性と多様性を反映しているのかもしれない。

 同じく「お話」がもとになっても、ウィリアム・マクリ―リー作『こわいオオカミのはなしをしよう』(佐竹美保絵、小宮由訳、岩波書店2019年3月)の場合は、かなり毛色が異なる。5歳の息子が寝る前にパパが少しずつ即興の話を語るなか、「お話」がどのように作られていくかを示しているからだ。同じページ内で、親子の対話部分と中身のお話部分の活字が使い分けられていて、物語があたかも現実と地続きのように感じられる。これは新しいタイプのベッドタイムストーリー絵本だ、と言いたくなる。だが古今東西、即興の話をきかせるなかで、こうしたやりとりは現実に交わされてきたであろう。作者はこの本を5歳の息子のために書いたというが、本書もそうした経験を反映しているかもしれない。なおこの原書出版は1947年である。

 新しいお話をしてとせがむマイケル。パパは一羽のニワトリがいた、と言ったとたん、話をとめて名前をたずねる。そこでマイケルがレインボーという名前を提案し、カラフルな羽をしていたからとつけ加える。つぎにパパが話をとめたのは、ニワトリの小屋の近くにある暗くて深い森に住んでいたものの正体をたずねたとき。親子はやりとりをかわし、住んでいたのは、これまでのお話にたびたび登場してきた「オオカミのウォルド―」に落ちつく。ウォルド―がそおっと森からでてきて、ニワトリ小屋にしのびよった・・・とパパが話しているうちにマイケルはもう眠っている。

 この話の続きは、おやすみまえの時間だけではなく、マイケルの友だちもまじえて3人で遊びに行った公園でも、パパの車の修理を待つ間も、砂浜でも、少しずつ語られていく。とうとうパパは「めでたしめでたし」と、話を終わらせた。だが子どもたちは納得しない。そこでつぎの日曜日に3人が遊びに行く電車内で「むかしむかし、あるところに、レインボーというなまえのめんどりがいた・・・」という話がはじめられ、そこで終わっている。この後「お話」をどのように展開させるかは、いわば読者にゆだねられている。

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 「お話」といえば、さらに型破りなのが、『さらわれたオレオマーガリン王子』である。(作マーク・トウェインとフィリップ・ステッド、画エリン・ステッド、訳ひこ田中と横川寿美子、福音館書店2019年1月)

 土台になっているのは、かつてトウェインが幼い娘たちにせがまれて、雑誌の挿絵をもとにして語った貧しい少年ジョニーの話。だが、あとでノートに書き留めたこの話には肝心の結末がなかった。約1世紀後にトウェインの文書館で研究者がそれを見つけ、出版社から依頼をうけた作家のフィリップ・ステッドが話を完成させ、それに(パートナーの)エリン・ステッドが画を付けたというのが出版までの経緯だそうだ。

 この話は、1章(不運な主人公が登場する)から2章(パレードについて)までは、貧しく不幸な少年がニワトリを抱えて市場をめざして歩いたことがおもに語られるだけだが、3章(最高にめずらしいトリ)の途中から、少年のいる国が王の圧政に苦しめられていることや、王子が行方不明になっていることなどが少しずつ明かされる。また、ところどころにトウェインと「ぼく」の会話が挿入される。そしてトウェインに促されて「ぼく」が物語を語りはじめると、トウェインはそれを批評する側になり、さらには話の途中で姿を消す。

この構成は、未完でしかも断片的だったトウェインのノートをもとに、フィリップ・ステッドが会話で補強したり、ノートを引用したりしながら、物語を創りあげたからなのだが、社会批判を内包するポストモダニズム絵本が成立しているところが興味深い。これまでもフィリップと共作しているエリンは、今回も複数の手法を使ったユーモラスな画で、この複雑な構成の物語世界に命を与えている。

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 物語世界の複雑さでは、ミシェル・クエヴァス作の『イマジナリーフレンド』(杉田七重訳 小学館2019年4月刊)も負けてはいない。1章で主人公のジャック・パピエは、これから回想録を書こうと思うと宣言する。これは始まりとしてはあまり珍しくはないが、普通と異なるのは、「パピエ」家で暮らしているジャックを信じているのは、「ふたごの妹」フラーだけという点だ。もっとも、ジャックが嫌っているダックスフントのフランソワは、ジャックのにおいをかいで吠えるそうで、彼の存在に気づいているのかもしれない。  

 両親は子どもの想像力を大切にしていたため、これまではずっと娘フラーの話に合わせてきた。だからこそ子ども部屋に二段ベッドを入れ、食卓に余分の席をもうけ、教科書も1セット余分に用意、マジック・ショーを見るときも、ジャックの分のチケットまで用意してきた。

ところがマジック・ショーがきっかけで、両親はフラーのイマジナリーフレンドを問題視しはじめる。それを立ち聞きしたジャックは、フラーが自分にないしょで新しく「イマジナリーフレンド」とかいう友だちをつくったと誤解し、対抗策を考える。すると、フラーのパパは:

「こんなややこしい話があるか? 娘にイマジナリーフレンドがいるってのはまだいい。だが、そのイマジナリーフレンドにも、イマジナリーフレンドがいるってのはどういうことだ? 冗談じゃない、やりすぎだ」(35ページ)と怒りだす。え、どういうこと?

 これを耳にしたジャックはフラーと少し距離を置きはじめる。自分と同類だといわれたあるイマジナリーフレンドに教わって会合に参加し、あれこれ考えるようになる。そして、フラーから自由になりたいと願う。フラーは、彼の願いを聞き入れてくれた。だが、ジャックにとって予想外だったのは、つぎに自分が変わったのが、大嫌いだったダックスフントの姿だったことだ。じつはひとりの子どもにとって、ダックスフントがイマジナリーフレンドの姿だった。

 物語内でイマジナリーフレンドたちが、誰にでも見えるように実体化することはない。彼らの姿がみえるのは、同類とそのイマジナリーフレンドの相手の子どもだけ。そのイマジナリーフレンドが、それぞれひとつの個性をもち、考え行動し、さらにはどんどん変化していく。一読者として、ややこしすぎると感じて物語の展開に不安を覚えたところもあったが、いつの間にか、ジャックの運命の変転に惹きつけられた。そう、この物語は面白いのである。

 そういえば、2016年に出版されたA・F・ハロルド作の『ぼくが消えないうちに』(こだまともこ訳 ポプラ社、2016年)は、想像力豊かなアマンダの空想が生み出した(イマジナリーフレンドの)ラジャーの視点で語られていた。ハロルドの作品も、「見えない友だち」を食べる不気味な男が登場したり、アマンダが事故で意識を失ったせいで消滅の危機に見舞われたりと、やはり予想できない展開がみられた。もっとも本書に比べてハロルド作品では絵本作家エミリー・グラヴェットの画が占める比重が大きかった。いずれにしろ、仮想空間が何かと話題になる現代においては、こうした想像力の具現化ものはサブジャンルになりつつあるのかもしれない。

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 本日は最後に、た富安陽子の本を2冊取り上げておこう。

 その1冊は2018年9月に出た『オバケが見える転校生!』(小松良佳絵、ポプラ社)で、同じ作者の「内科・オバケ科 ホオズキ医院」シリーズ(全7巻)の鬼灯京十郎(ほおずき・きょうじゅうろう)医師がまだ子どもだったときを扱うシリーズ、「ホオズキくんのオバケ事件簿1」だ。

 小学4年の橋本真先(マサキ)が通う学校に、双子の鬼灯兄弟が転校してきた。マサキのクラスに入ったのは、とっつきにくい京十郎。学校の書類を届けに彼の家を訪れたマサキは、このところ自分を悩ませていた黒い影が、人の心のすきまに入りこんでとりつく「カゲビト」だと教えられる。京十郎によると鬼灯一族は平安時代から陰陽師として知られていて、いまもちらっとオバケが「見えちゃう」人や「ゆるーく予知能力のある人とか」が生まれるそうだ。姜十郎は自分がこういう話をすると、いつも冗談だとしか受け止められないのに、マサキがあっさり信じたことに驚く。彼はマサキのカゲビトを追いはらい、これからもマサキを助手にするという。シリーズ1冊目として設定が過不足なく紹介されており、子ども時代からすでに才能を発揮していた鬼灯京十郎と相棒マサキの今後の活躍が楽しみである。

 富安陽子のもう1冊は、「妖怪一家九十九[つくも]さんシリーズ」の新刊『妖怪一家のウェディング大作戦』(山村浩二絵、理論社、2019年2月)である。同シリーズは種類の異なる妖怪7人が「家族」として、人間にまじって化野原(アダシノハラ)団地で暮らしているという設定。市役所の地域共生課や団地には妖怪の理解者となる人間がいて、協力を欠かさない。異文化交流をさりげなく具現化し、しかもその意味を広げているところがこのシリーズの良さであろう。今回は、町で暮らすタヌキのカップルが人間の結婚式と同じスタイルでしたいと願ったことが騒動につながる。タヌキの親戚縁者31匹に加えてイタチ、ノラネコ、カラス、さらに妖怪までも山から客としてやってくる。しかも予定より早く着き、迎えが間に合わない間に、迷子が続出。食いしん坊のタヌキは食べ物をあさりに行くし、ナメコゾウは団地の窓ガラスにとりついているところを目撃され、踊りガイコツは踊っているところを撮影されたばかりか、その画像がネットで拡散・・・と、つぎつぎに厄介なことになる。彼らを捜索する側もトラブルに事欠かない。そのなかで、夜中の団地でなるべく人々に気づかれないように、また目撃されないようにと、これらのハプニングに対処していく九十九さんたちの苦労がユーモラスに展開しているのが、ファンにはたまらない。本日はここまで。 (2019年4月)


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スペイン語圏の子どもの本から(8)


          宇野和美


『世紀の100冊』から(5)

エリアセル・カンシーノ『ベラスケスの十字の謎』(宇野和美訳、徳間書店、2006)

1998年に選定された本書は、マドリードのプラド美術館にある、スペイン絵画の巨匠ベラスケスの名画『侍女たち(ラス・メニーナス)』についての物語です。絵の中のベラスケスの胸に描かれた赤い十字は誰が描いたのかという謎をめぐって、やはりこの絵に描かれた小人ニコラスが語り出します。

しかし、物語の中心にあるのは、十字の謎そのものではなく、『侍女たち』という、美術史上多くの議論を呼んできたこの傑作がどのようにして描かれたかということと、語り手ニコラスの成長です。生まれたときに母親をなくし、背が伸びず、父親から愛されることのないまま、親から棄てられるようにしてイタリアからスペイン宮廷に送られたニコラス。絵の成立に関する部分も、ニコラスの宮廷での生活も、史実ではなく作者のフィクションですが、まるで本当のことのように生き生きと描かれています。ニコラスの成長に牽引されながら、読者は17世紀のスペイン宮廷へと誘われるのです。

余談ですが、2013年に芸術家の森村泰昌氏は展覧会「ベラスケス頌:侍女たちは夜に甦る」を開催するにあたって、わざわざセビーリャに赴き、カンシーノと対談されました。これも、絵の真実へのカンシーノのフィクショナルなアプローチがいかにすばらしいかのひとつの証左でしょう。

カンシーノは、『侍女たち』にまつわる物語を書きたくて、何度も書き始めては、うまく続かず書きあぐねていたそうですが、この物語をニコラスに語らせようと決めてからは筆が進み、一気に書きあがったとのことです。カンシーノは、社会的に日向にいる派手な人物よりも、弱い立場にいる力のない者に心を寄せる傾向があります。『フォスターさんの郵便配達』の主人公ペリーコもそうでした。さらにカンシーノの関心は、威光を放つ人物が持つ影の部分、弱い部分にも向けられます。理不尽さや陰影をかかえた人間へ温かなまなざし、人間への肯定感が、この作品の隠れた魅力になっています。

 1997年にラサリーリョ賞を受賞して、1998年に刊行された本書は、スペインでは20万部を超えるロングセラーで、今も版を重ねています。作者のカンシーノは1954年生まれ。長く高校で哲学の教師を務めながら執筆をしてきましたが、本書で児童文学者としての地位を確立し、現在は執筆に専念しています。小さい人向けの本も書いていますが、本質的にヤングアダルトの作家だと私は思います。「人間にとって幸せとは何か、知りたくて哲学を学んだが、考えれば考えるほどわからなくなってね」と、以前話していましたが、生来、人間に興味があり、物の本質を考えめぐらすのがお好きなようです。「こういうことも考えてほしい」「知ってほしい」ということを、作中にちらちらと盛り込みます。本書でストーリー上、重要な役割を担っているダンテの『神曲』も、そういうもののひとつでしょう。全部わからずとも、何か感じて心のどこかに残してほしいという思いを感じます。

 翻訳にあたっては、読者をなるべく自然に17世紀のスペインの世界に運ぶのが大切だと思いました。徳川家康や江戸幕府なら、なんらかのイメージがある読者も、フェリーペ四世、マドリードといわれても、何のイメージもわきません。注に頼りすぎずに、物語を楽しめるところまで基本情報を提示できるよう苦心しました。読み返すと、今の私ならもっと広い視野で物語全体を見渡して訳すだろうと思う箇所もあるのですが、我ながらなかなかがんばったと思うところもあります。

 翻訳する価値のある作品とはどんなものかということは、ずっと考え続けている問題です。いろいろヒントをいただいたなかで、徳間書店の編集者上村令さん(デビュー作からお世話になっています)から言われた、「日本人には書けない作品」という言葉は、指針のひとつとなっています。ベラスケスへの敬意をこめ、資料を調べあげてカンシーノが書きあげたこの物語は、まさにそういう作品だと思います。


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◆ぼちぼち便り◆ *作品の結末まで書かれています。

 

今回の読書会は『一〇五度』 (佐藤まどか/著 あすなろ書房 2017年10月)を取り上げました。

 

中学3年生で東京の進学校に編入してきた真(しん)は、イス職人だった祖父の影響でイスのデザインに興味を持っていますが、父は優秀な大学へ行くことが真の幸せだと思っています。編入先の学校の図書室で同学年でやはり祖父が椅子職人である梨々と出会い、真が105度に傾いた椅子をデザインし、梨々がモデルを作って全国学生チェアデザインコンペに出品します。梨々は学年で唯一スカートではなくスラックスを制服として着ており、みんなから変人扱いされていますが、真は、イスという共通の興味・関心があることで信頼関係を築いていきます。

 

読書会のメンバー全員から、読みやすかったということ、また、作者がプロダクトデザイナーであるだけあって、イスのデザインや設計についての詳しい描写が水が流れるように、いきいきとしていて、作者の熱い思いが伝わってきたという感想がありました。そして、みんなが、作品に直接関係ないものの、イス談義をしました。自宅や新幹線のイス、かつて万博記念公園(吹田市)にあった国立国際美術館の芸術的かつ座りやすいイスなど、この本をきっかけに、メンバーに座りやすいイスとは何かというイスの芸術性と機能性について(使いやすいものは美しい。用の美)やイスと空間の関わりについて考えを巡らせたことがわかりました。また、「座る」という行為についても、日本人にとっての「座る」とは?ということや、子ども時代病弱だった人にとって、長く座ることがいかにつらいことであったかなどが語られました。そして、そのおもしろさが、『一〇五度』というタイトルになっていて、とても魅力的なタイトルだという意見が出されました。一方で、イスのデザインについての描写や思いに惹かれながらも、デザインすることが世界を見る力を養うことになり、イスを作ることは時代を作ることにつながるということが書かれていたら・・・という人もいました。

 

この作品は、真が進路を悩む作品でもあります。イスを作る過程で一つのイスを作るのに、いかに多くの人が仕事として関わっているのかを知っていくことや、父の友人であるデザイナーや芸術家の生き方が興味深かったという人もいました。真の父は真にデザイナーの仕事につかせないように自らの友人にその仕事のたいへんさを語ってもらうように依頼します。ところが、たいへんさを語るはずの寺田さんが「朝も昼も夜も、夢の中でさえも、なんかしらデザインを考えている。やめられないんだ。やっぱりおもしろいんだよね。ほとんど病気さ。」(p.168)と語るように、好きなことがある人はやめられないんだというところに共感したという人もいました。

 

あり得ないと思ったという意見と、あり得ると思った人がいたのが、真と梨々のイスへの没頭ぶりとプロ顔負けの知識です。そして、中3というより高校生ぐらいに思った。中学生でコーヒーを大人が飲ませているのが不自然に思った、などの発言もありました。

 

家族関係の描かれ方については、さまざまな意見が出されました。権威的な父親があまりにもステレオタイプだという意見がある一方で、壁のように立ちはだかる父親の描写に、作者が体験したのではないかと思えるような真実味があるという意見もありました。ステレオタイプという意味では、祖父が出来すぎているという発言があった一方で、祖父が左半身が不自由な様子はリアリティがあるという意見もありました。また、体が弱くて自分に自信がない弟力と真の対峙は、弟に自分の弱さを出したところが印象に残った。語り合ったことでお互いを理解できたところがよかったなどの感想が述べられました。

 

梨々については、彼女がスラックスをはいて闊歩する姿が思い浮かんだ、デザイナーと設計図にそって椅子の模型を作るモデラーが対等であるということを伝える梨々の言葉に納得したという感想がありました。好きなもの、夢中になるものがあるのは幸せだなあという感想や、勉強もできて才能もある主人公に「こんな子いるかな」と発言した人がいましたが、「自分の経験上、そういう子は確かにいるから違和感はなかった」という人もいました。

 

この作品は、読書会のメンバーからもあったように、さまざまな視点で読むことができます。イスを作る過程とその魅力を知る本、真の進路について、梨々との友だち関係、家族の中での葛藤です。大筋としては、真が梨々と出会う(1~4章)、デザインを進める上で、真がモデラーよりデザイナーの方が上という意識を知らず知らずのうちに持っていたことに気付き、モデラーの梨々とけんかをする(5~9章)、真がイスやデザインに関わる人たちの苦労を知る(10~13章)、コンペの作品が完成して真がTK大を目指そうと思うまで(14~17章)という構成になっており、はっきりとした構成が読みやすさにつながっています。そして、一〇五度とは、人と人がちょうどいい関係を保つ角度であり、それを探ることが、イスを作ることと重ねて描かれている点が巧みだと思いました。

 

一つのものを作り上げることの難しさとおもしろさがここまで丁寧に書かれた作品はこれまで出会ったことがないように思い、新鮮に感じました。イタリア在住であることからアウトサイダーの目を持って日本の子どもたちを見つめている作者ならではの作品として、興味深く読みました。活躍中の佐藤まどかさんは、これまでにも、「職人」「異文化」「才能」「ジェンダー」「ロボット」など、現代の抱える課題に果敢にチャレンジした児童文学作品を書いていらっしゃいます。これからの作品も楽しみに読み続けたいと思います。

 

<大阪国際児童文学振興財団からのお知らせ> 詳細はhttp://www.iiclo.or.jp/をご覧ください。

● 国際講演会「ベルギーの児童文学」の報告集を販売しています

昨年5月に開催した国際講演会「ベルギーの児童文学」の報告集。ワリー・デ・ドンケルさん(作家、国際児童図書評議会 前会長)の講演「ベルギーの児童文学-私の心に根ざす哲学」と、野坂悦子さん(作家、翻訳家)の講演「ベルギーの児童文学とは」を記録しています。

 発行:当財団 2019年3月 A4判29頁 800円+税


● 講演会「ふしぎの描き方」の報告集を販売しています

昨年11月に開催した講演会「ふしぎの描き方-あまんきみこ&富安陽子の世界-」の報告集。講師それぞれにとっての「ふしぎ」についての講演と、対談「『ふしぎ』の描き方」を記録しています。

 発行:当財団 2019年3月 A4判41頁 1000円+税

 

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 三辺律子です。


 今月も力尽きて(またかよ)、『どこまでも亀』(ジョン・グリーン著)とか『物語北欧神話』(ニール・ゲイマン著)とか(両方、金原瑞人さんの訳ですね、相変わらずすごい……!)、新訳の出た『ビール・ストリートの恋人たち』(ジェイムズ・ボールドウィン著 川副智子訳)とか、BOOKMARKの特集以来ハマっているバンド・デシネの『ナタンと呼んで』(カトリーヌ・カストロほか著 原正人訳)など、ご紹介したい本はたくさんあれど、やる気に時間?が追い付かず……。すみません。

 が、

 映画は来月号だと公開が終わってしまうかもしれない! というわけで、どうしてもお勧めしたかった『RBG 最強の85才』を中心に三作を。『RBG』は中学生くらいから観られると思いますので、ぜひぜひぜひぜひ。



〈一言映画評〉 *公開順です


『ドント・ウォーリー』

風刺漫画家のジョン・キャラハンの実話を映画化。アルコールが手放せないジョンは、飲酒運転による事故で車いす生活に。だが、それでますます酒びたりに。そんな彼を救ったのは……?

主演のホアキン・フェニックスが相変わらずいい(好きなのです)! でも何よりかによりアルコール依存症の怖さが脳に刻みつけられます……。


『RBG 最強の85才』

 85歳にして現役アメリカ最高裁判所判事ルース・ベーダー・ギンズバーグ(RBG)のドキュメンタリー。今、アメリカでは彼女の存在自体がひとつのブームになっているという(トランプ・ショックが関係しているのはまちがいない)。

 女性やマイノリティの権利に関わる裁判で次々と勝利した彼女だが、初期の裁判に「妻と死別し、幼い息子がいても、夫には給付金が支払われないことは差別だ(妻なら支払われるのに)」というものがある。こうした裁判の勝訴をこつこつと積みあげてきた彼女の功績の偉大さを、ぜひ多くの方に観てほしい。(私は、ほとんど心酔してます)

コロンビア・ロースクールを首席で卒業しても女性だという理由で就職もできなかった若き頃の彼女の人生については、先日まで公開されていた『ビリーブ』にも詳しい。ちなみに、彼女の夫マーティンがまた魅力的な人なのです。


『ベン・イズ・バック』

先月ご紹介した『ビューティフル・ボーイ』に続き、薬物依存症の息子と(今度は)母親の葛藤を描く。薬物中毒から抜け出すことはほとんど奇跡に近いことを、思い知らされる。

『ビューティフル~』もこちらも、「親の子への愛」みたいに宣伝されているけれど(いや、実際、そうなんだけど)、親には何ができて何ができないのか、それをどう受け止めるのか、といったことも描かれていると思う。

 

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以下ひこです。

 

【絵本】

『えほん 東京』(小林豊:作 ポプラ社)

 おじいちゃんと少年が散歩です。少年はせっかくだから遠くに行きたい、海に行こうと誘います。するとおじいちゃんは「海なら、おまえの目の前にあるぞ」と言います。江戸時代、そこは海岸近くだったのです。

こうして現代と過去が溶け込んで、東京=江戸の世界が広がっていきます。

土地は歴史を、時代を幾層も重ねて成り立っていること、人もまたそうであることを見事に描き出しています。

 

『ひみつのビクビク』(フランチェスカ・サンナ:作 なかがわちひろ:訳 あかつき)

 『ジャーニー 国境を離れて』作者の二作目です。ビクビクは女の子の友だち。怖いときでもビクビクがいるから「ちょっとずつ ぼうけんをして、とよくなれる」。けれど、新しい国に引っ越ししてきてからビクビクは急に大きくなってしまいます。どんどんどんどん大きくなるビクビク。学校に行くのもしんどいです。

移民してきた子どもの不安をサンナは優しく包みこみながら描き、そして励まします。

新しく入学した子どもたちも共感できるでしょう。

「FEAR」をビクビクと訳されればそうなんですが、その言葉を思いつくのがすごいなあ~。私には無理。

 

『きょう なにしてた?』(はまのゆか:作 あかね書房)

 子育て中の四人のパパとママ。親の仕事風景と、子どもの園での風景が交互に描かれていきます。つまり、お互いが知らない、それぞれの時間が。

 親と子両方が語られるので、どっちの側からも話ができます。

 いつも通り、はまのの絵は隅々まで描かれていて、一人一人の物語へと想像を誘います。

 

『フウちゃんクウちゃんロウちゃんのふくろうがっこう: こわいものにであったらのまき』(いとうひろし:作 徳間書店)

 大人のふくろうになるための学校に通っているフウちゃん、クウちゃん、ロウちゃん。今日は怖いもののお話です。先生は大人は怖い物はないがおまえ達にはまだまだ怖い物があるって言いますが、どうなんでしょうか? みんなはお友だちになったかみなりさんを連れてきましたが……。怖いんでしょうか、そうでもないんでしょうか?

 次に先生は、子ギツネを見つけて、小さいときから怖がらせておけば大人になってもふくろうに悪さはしないからと飛びかかるのですが、親と離れてしまった子ギツネは先生に抱きついて泣き出してしまって、先生、どうするんでしょうか?

 まあ、そんなこんなで、授業は続いていきます。

 温かみが素敵。

 

『ねえさんといもうと』(シャーロット・ゾロドウ:文 酒井駒子:絵・訳 あすなろ書房)

 福音館で出ていた『ねえさんといもうと』(マーサ アレキサンダー:絵 やがわすみこ:訳)のゾロトウのテキストを使って酒井が訳し絵を付けた絵本です。

 仲良しの姉妹。妹は姉を崇拝していて、いつも一緒です。姉は何でも知っているし、何でも出来る。泣いたらはなをチンしてくれる。

 でも、あるときから妹はそんな姉のそばにいるのがいやになってきます。嫌いではないけれど、重たい感じかな。そこで小さな妹は一人で外に飛び出し、草原で「自由」なひとときを味わいます。

 妹を捜し回る姉の声がします。たぶん、妹は不安や後悔や、同時の心地よさも感じていることでしょう。

 やがで、妹のそばの草原で泣き出す姉。そっと近づき妹は寄り添います。

 

『あそびうたするもの このゆびとまれ』『あそびうたするもの よっといで』(中脇初枝:編 ひろせべに:絵 福音館書店)

 日本中のあそびうたから中脇が選んで、そこにひろせべにが絵を描きました。

 あそびうたって、意味不明に面白いのが多いですね。ローカル色も良し。そしてなんといっても、そのリズム!

 ひろせは、あそびうたに一ひねりくすぐりを入れて、なおいっそう笑わしてくれます。

 

『ともだちになろう―シリルとパット』(エミリー・グラヴェット:さく 福本友美子:訳 フレーベル館)

 大きな公園にいるリスのシリルにはともだちがいない。さみしいし、意地悪な犬に追いかけられても大変。そんなある日、自分とそっくりなパットと出会います。尻尾がフサフサじゃないけどね。

 楽しい日々。でも周りの動物たちは、あれはリスじゃないとシリルに忠告しようとしますが、幸せいっぱいの彼は聞く耳を持ちません。けれど、パットはネズミだとわかったとき、シリルはパットから離れてしまいます。

 また一匹になったシリル……。

 見かけなんか関係ない。友だちは友だち。

 

『どうぶつたちのうた』(二宮由紀子:作 中新井純子:絵 教育画劇)

 二宮の飛び跳ね、ねじれ、脱臼していく言葉に、ほんならこんなんでどうでしょうと、中新井が気ままに絵を付けていきます。

「チーターは、はしるのがものすごくはやい、アフリカのどうぶつだ。あんまりはやいので、みみだって、なかなか くちにおいつけない」てな言葉に、どう絵を付けるのだ! 描ける中新井はすごい。

 特にツルやヘビのページは最高です。

 

『たいよう』(ステイシー・マカナルティー:原作 スティービー・ルイス:絵 千葉茂樹:訳 小学館)

 太陽についての科学絵本です。

 語るのは太陽自身で、これがまためちゃくちゃかわいい太陽なので、なんかもう、話に耳を傾けてしまいます。

 情報はたっぷり語られているし、これ、いいのではないでしょうか。

 

『ミツ』(中野真典 佼成出版社)

 死にゆく猫に寄り添った絵本です。というか、愛猫から離れたくなんてありません。通い合う愛情があって、それは互いがいないと成立しないと、やっぱり思ってしまって。それでも、どちらかが先に逝ってしまうわけで。

 私も含めて、相棒の死に立ち会った人はわかる作品です。

 作者とミツの出会いから別れまでを奥付で書いている(聞き書き)のはいらないと思います。作品だけでいいのでは?

 

『うみどりの島』(寺沢孝毅:文 あべ弘士:絵 偕成社)

 天売島に住んで、海鳥の観察をされている寺沢さんが文を書き。あべさんが描きます。

 鳥たちの解説もあり、どう暮らしているかもわかりますが、なんたって生命力に満ちている姿がいいです。

 300人の島に100万羽の海鳥がやってくるんですって。すごいなあ。

 鉄道ではちとしんどそうなので、車の方はぜひ。

 

『やるとおこられそうなこと』(川之上英子・川之上健:作・絵 岩崎書店)

 いいですねえ。子どもがやりそうな、しょうもないこと満載です。ズボンを頭にかぶってウサギだとか、切ったキウイの断面を目に貼り付けるとか、スパゲッティを口からたらしてぶらぶらするとか。親に怒られるのを楽しんでいます。

 

『ねこの3つのねがいごと』(カリスタ・ブリル:文 ケナード・パーク:絵 横山和江:訳 岩崎書店)

 ひとりぼっちのねこは、捕まえたヘビを逃がします。そのときお礼に三つの願いごとを叶えてあげると言われますが、どうかなあ。

 おなかが減ったねこはさかなを捕りますが、いっぱい捕れて満腹。雨がふってきて寒くなったねこは、家があるといいなあと歩いていると、暖炉のある家を見つけて、ほかほか暖まって眠ります。ともだちだって欲しいねこ。すると、この家に帰ってきた少女。彼女は帰り道でヘビを助けて、3つの願いごとを叶えてもらいます。最後の願いは、友だち。ねこと、少女は願いがかなったのです。

 ねこの願いごと、少女の願いごとが重なるラストはほっとして、満たされますね。

 

『ねずみのシーモア』(池田朗子:作 福田利之:絵 あかね書房)

 シーモアはブックカフェで暮らすネズミです。好物はチーズケーキ。おいしいよね。

 今日もお客さんが残してくれたのを食べようとすると、本の中からネズミが現れて、名前はエニモ。シーモアはエニモに誘われるようにして本の中へと冒険します。

 たのしくてここに住もうかと思うシーモアですが、本の中は本の中にしぎないと、エニモが外へと送り出します。

 本の世界を知ってから、外の風景が変わったシーモアでした。

 

『いないいないばあさん』(佐々木マキ 偕成社)

 ものすごい、ばあさんです。孫と一緒に歩いているとき、この人は突然消えるのです。心配して、あわてて、孫が探すと、ばあさんはとんでもないところに立っている。デパートのショーウィンドウでマネキンになっているなんてまだまだかわいい。橋にぶら下がったり。公園の彫像の上に乗ったり。意味分からず、なんかすごいのだ。はっきりいって、あんまりほしくないおばあちゃんだけど、でも、いてくれると楽しそうなのだ。

 このわけのわからないおかしさは、やっぱり、いいなあ、佐々木マキ。

 

『たてる こうじのえほん』『こわす こうじのえほん』(サリー・サットン:さく ブライアン・ラブロック:え あらやしょうこ:やく 福音館書店)

 建てると壊す。正反対の行為ののようですけれど、もちろんこれは連動していて、この絵本は建てると壊すをしっかりと描くことで、物が作られていくことは、いずれ壊されることでもあると伝えてもいます。二冊セットってのがいいですね。

 建てる作業と、壊す作業が非常にわかりやすく細かく描かれているので、物を作るおもしろさが伝わってきます。

 

『なにがみえるのかな?』(きうちかつ:作 中乃波木:写真 「かがくのとも」5月号 福音館書店)

 一枚の紙の一部を折り、ひれを光にかざすことで色んな物が見えてくる、気づきそうで気づかなかった面白い遊びです。こ~したらどうだろう? あ~したらどうだろう? とやりたくなります。

 

『家をせおって歩く かんぜん版』(村上慧:作 福音館書店)

 「たくさんのふしぎ」からの絵本化です。

 村上さんは2014年に発泡スチロール製の、かぶって持ち歩ける家を作りました。地面に置けばもちろん寝ることも出来ます。もちろん電気ガス水道はありません。でも、かぶって移動できて便利。

 この絵本は、そうして村上さんが日本を、世界を歩いて回って、家を置かせてもらって寝ての記録です。

 2014年4月から2015年3月までの家を置いた場所180カ所の写真もあります。

 人って結構、家を置く場所を提供してくれますね。うれしいです。

 家を持つってどういうことなのか? 土地って固執するものなのか? 色々考えます。

 

『なまえのないねこ』(竹下文子:文 町田尚子:絵 小峰書店)

 黒のトラねこ。名前はない。あちこちの飼われているねこたちは名前がある。レオ、げんた、チビ、ハイジとクララ。自分だけは名前がない。いぬにも名前がある。でも、自分にはない。

 そんなねこが本当に欲しかったのは、名前?

 

『げそすけとじいじとばあば』(益田ミリ:作 平澤一平:絵 あかね書房)

 イカのげそすけが祖父母のところに遊びにきました。家に向かう前にちょっと遊びたいげそすけは二人を連れて海底への階段を降ります。するとなんと祖父母はどんどん若返り、げそすけと同じくらいの子どもに。

 それからは、三人で遊びます。ひょっとして祖父母の方が子どもっぽい? って辺りが楽しいです。

 

『どたんばたんおるすばん』(松田奈那子 あかね書房)

 いぬのフクとねこのトラジは、お留守番です。フクは悲しいけど、トラジはさっそく色々いたずらを始めます。

 トラジは、フクが飼い主との幸せな日々を過ごしていた時にやってきました。弟みたいなものですが、気持ちはちょっと複雑。

 うつらうつらしながら、そんな昔のことを思い出していたフクの耳にトラジの声が。あわててかけつけると、トラジはいたずらが過ぎて水槽の中で今にも溺れそう。大変だ!

 なかよしフクとトラジのお話。続編あるかな?

 

『ミクロの世界から人体を見る ミクロワールド人体大図鑑』(宮澤七郎・島田達生:監修 中村澄夫:編集責任 小峰書店)

 「電子顕微鏡で見る人体の不思議」シリーズ最終刊です。これまでは、「コネと筋肉」や、「呼吸器と心臓」といった分野ごとでしたが、今回は、顕微鏡から電子顕微鏡までの歴史と、それが医学にどのように貢献したかが描かれています。人類がいかに小さな物を見ることに情熱を注いだかもおもしろいし、電子顕微鏡で見た世界、これどこだ? もほとんど正解が出来ずに楽しい。

 好奇心を喚起するシリーズです。

 

【児童書】

『すばらしいオズの魔法使い』(ボーム:作 R・イングペン:絵 杉田七重:訳 西村書店)

これはもうしょうがないことだろうとは思うけれど、私の頭の中にある『オズの魔法使い』は、原作を読んでいてもジュディー・ガーランドの映画になってしまうのです。かかしもブリキ男もライオンも。もちろんドロシーも。

イングペンの絵は見事にそれを一掃してくれました。登場人物のどれもが、イングペンが解釈した個性で存在しています。

再生されたオズの世界って感じ。

これからはこれがオズだ。

 

『僕が神さまと過ごした日々』(アクセル・ハッケ:作 ミヒャエル・ゾーヴァ

:絵 那須田淳・木本栄:共訳 講談社)

 『ちいさなちいさな王様』コンビの最新訳です。ゾーヴァの挿絵、いえ、挿画を堪能できます。

 夜中、家に帰る途中の電車の中で僕はぼんやりと窓に映る自分の顔を眺めていますが、その顔が自分より先に行ってしまい窓になにも映らない経験をします。しかも電車はそのまま自宅の前まで連れ帰ってくれるのです。家の前に線路なんてないのに。

 次の日僕は、事務ゾウを連れて散歩に出かけます。ゾウといっても子犬ほどの大きさで、ある日僕の想像の中にやってきて、追い払ったら想像から出てきてしまったのです。ゾウの姿は僕以外の誰も見ることができないようです。あるアパートの前のベンチで休んでいたら、向かいに老人がいて、突然立ち上がり僕を付き飛ばします。ちょうどそのとき、上の階から夫婦げんかで堅い地球儀が僕の座っていたベンチに落ちてきたのです。老人のおかげで命拾いをして僕は、それから彼と話すようになります。

 実は老人は神様で、今の地球の現状を見るに付け、自分がビッグバンを起こしたことや、それからの進化の様子を悔やんでいる様子。僕は彼の嘆きに耳を傾けながら、だからといって、もう起こってしまったことは起こってしまったことであり、やり直しもきかずと、神様を慰めたり、時に怒ったりもするのです。

 ここには現代に対する皮肉も風刺もあるのですが、なによりもまず、今ここにあることを受け入れて、そこから良き方向に進むしかないという、ある種の柔らかな、しかししっかりとした決意が感じられます。過去がこうであったらとか、ああであったらと行っても仕方がないし、私たちは今自分の毎日で、平和を守るためにできることはあります。世界への、政治への関心を失わないこと、権力を持つ人々の嘘を見抜くアンテナの感度を上げること。

 

『イマジナリーフレンドと』(ミシェル・クエヴァス:作 杉田七重:訳 小学館)

 イマジナリーフレンドとは、さみしいとき悲しいときそばにいてくれる想像上の友だち。自分の思いを理解し、自分の言葉に耳を傾けてさえくれれば、人間でもいいし、動物でもいい。

 ジャック・パピエは、自分はフラーの兄だと信じ込んでいるが実は彼女のイマジナリーフレンド。そうであることに気づいたジャックはショックを受ける。一方フラーの両親は、いつまでもイマジナリーフレンドを離さない彼女を心配し始める。

 ジャックは自分が誰かを知ろうと、フラーから離れて行く。そして色んな誰かのイマジナリーフレンドとなる。

 イマジナリーフレンドを持つ子どもではなく、イマジナリーフレンドを主人公にすることで、彼らが子ども達に必要な存在であることが描かれていくのがいいですね。

 ラストがちょっとうまくいきすぎかな。

 古典の『トムは真夜中の庭で』をイマジナリーフレンド物として読んでも面白いです。

 

『初恋 まねき猫』(小手鞠るい:作 岡田千晶:絵 講談社)

 春から中学二年生になる龍樹だけど、骨折をしてしまって家で療養中。大好きな剣道部にも行けません。療養に使っているのは一階の姉の部屋だったところ。姉は三年前京都の大学に進学したけれど、自ら命をたちました。龍樹は姉の日記を発見し、そこに書かれていることを読みながら、どうして姉が死んでしまったのかを知りたいと思います。

 春から小学6年生になるしおりは、空き地で猫のサージュを前にして歌の練習をしています。親友の誕生会で披露するつもり。彼女は、自分はちっとも素直じゃないけど人の前ではいい子にしていると思っています。

 なんの気まぐれかサージュは龍樹の部屋へやってきます。ひと目惚れした龍樹は彼を雌猫を勘違いしてアンジュと名付け、やってくるのを毎日心待ちにします。やがて、アンジュの飼い主にメッセージを届きようと龍樹は思いつき、その首輪にメッセージを書いた紙を結わえ付け……。

 こうなってくれたらいいなという思いを満たしてくれる、幸せ気分を招く初恋物語。お互いがお互いを未だ知らない頃から読者は二人を知っているので、ドキドキするのです。

 岡田の絵がピタリ。

 

『海辺の町の怪事件 ステラ・モンゴメリーの冒険1』(ジュディス・ロッセル:作 日当陽子:訳 評論社)

 ヴィクトリア朝の時代。少女ステラは両親がいなくて、三人の口うるさい叔母と一緒に、今は海辺のホテルで過ごしています。孤独な彼女は世界地図帳で世界を夢想するのだけがなぐさめです。

 ある日彼女は逗留客の一人フィルバート氏が木の根元に何かを埋めるのを発見。好奇心にかられて掘り出したそれが何かが中に入ってうごめいている瓶でした。その瓶を探し求めてやってきたのが凶悪な教授。手下を使ってフィルバート氏を追い詰め、どこに瓶があるかを言わせようとします。教授が連れ歩いている少年ベンは特殊な能力を持っていて、フィルバートが木の根元に埋めたのを教授に伝えますが、そこにはありませんでした。隠れていたステラを発見したフィルバートは、その瓶を守って欲しいと告げますが、その後教授に殺されます。

 瓶の中身はなにか? そして教授のねらいは? ステラの活躍によって明らかになっていきますが、同時にステラ自身の生い立ちや、彼女にもベンとは別になにやら能力がありそうなことがほのめかされています。その辺りは、次作でお楽しみに。

 作者が絵本作家ということで、挿絵も描いていますが、これがまた作品の雰囲気をうまく捉えていてすごくいいです。

 

『子ぶたのトリュフ』(ヘレン・ピータース:文 エリー・スノードン:絵 もりうちすみこ:訳 さ・え・ら書房)

 父さんは牛を飼っている農家で、母さんは獣医。ジャスミンは動物が大好き。近所の豚を飼っているカーターさんのところで母さんについて行ったとき、豚の一匹は子どもを生んだばかりで、11匹。ところがジャスミンがよくみると小さな子ぶたが兄弟達の下敷きになっていました。小さすぎて育たないとカーターさんは殺すことにしますが、ジャスミンは盗んで帰ってしまいます。家にある豚の初乳をのませたり、オーブンであたためたり。子ぶたは元気になります。でも、父さんがぶたがきらいです……。

 ジャスミンの心には、将来アニマルケアセンターを作る夢も芽生えてきます。

まあ、とにかく、子ぶたのトリュフがかわいい。利口だしね。

 

『かがやけ! 虹の架け橋』(漆原智良 アリス館)

 3.11.遠藤伸一さんは子ども達三人が小学校の体育館で無事なのを知り、彼らを迎えに行って自宅に連れ戻ります。これで安心。それから、心配だった親戚の様子を見に行きます。と、そのとき津波が襲い、小学校より海側だった自宅は波に飲み込まれ子ども達はなくなってしまう。自宅に連れ戻さなかったら……。

 そこから遠藤夫妻はどう生きてきたかが綴られています。当事者の日々を描いた貴重な作品です。

 

『カイとティム よるのぼうけん』(石井睦美:作 ささめやゆき:絵 アリス館)

 6歳になった日、カムは一人で寝る宣言をします。実はちょっと心配だったりはするのですが、そうも言えないしね。

 ちいさな明かりだけを付けてもらって横になるカイ。

 やっぱり不安な気持ちのカイですが、そこに声がしてティムという妖精があらわれます。小さいけれど本人によれば422歳です。なんでも夜が怖くて眠れない子どもの面倒をみるそうです。ティムの言うとおりに目を閉じると、カイは冒険の世界へと旅立ちます。

 カイは夜ティムを待つようになりますが現れない。実はティム、もう一人女の子の面倒も見ていたのです。そこでカイがティムにした提案は?

 どこかなつかしい感じのする物語。それは古いという意味ではなく、普遍的な核を持っているということですね。

 

『チギータ!』(蒔田浩平:作 佐藤真紀子:絵 ポプラ社)

 千木田は卓球が好きで、親友のマッスーと毎日卓球場に出かけて練習している。クラスのレクリエーションは毎月一度行われますが、どのスポーツをするかは多数決で決められるため、数の多い男子、それもクラスの人気者の男子によって決められてしまいます。それって、ヘン? 千木田たちは卓球をレクリエーションでやるために色々考え始めます。

 多数決は民主主義か? をレクリエーションを使ってわかりやすく示していきます。

 

『シェーラ姫の冒険』(村山早紀:作 佐竹美保:絵 童心社)

 手に入りにくかったフォア文庫版全10巻の『シェーラ姫の冒険』がなんと、上下巻のハードカバー愛蔵版として登場です! 「とりあえずは今回のかたちで、いったん完成」です。幸せな物語。

 

【ノンフィクション】

『スイーツの仕事』(サイトウヨーコ:マンガ・イラスト ポプラ社)

 「好き」で見つける仕事ガイドシリーズです。「好き」で仕事が見つかるほど世の中甘くないのかもしれませんが、この本は、子どもが憧れる仕事には実は色んな分野があることを伝えて、仕事の多様性を発見してもらおうというものです。

 スイーツといえばパティシエ。かわいいお店を持ってとイメージしがちですが、商品としてのスイーツに関係する仕事は店舗販売や営業や企画、料理教室と色々あります。つまり視野を広げて考える一助にこの本はなります。と同時に、憧れを具体性に変えていく。

 なかなか面白い発想のシリーズの登場。

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