【児童文学評論】 No.228 2017.03.31

 http://www.hico.jp

   1998/01/30創刊

西村醇子の新・気まぐれ図書室 (25) ――怖がっているのは誰?──

 春になると、「桜」に注目が集まる。桜は開花から散るまでの期間が短いので、うかうかしていると、お花見をし損なうかもしれない。そう思っていたら、最近では「エア花見」といって、屋内で桜の画像を見て宴会する人がいるとか。花粉症にも天候にも左右されない利点はわかるが、ふと、桜に限らず画像で実物の代わりをすることに慣れ、それがエスカレートしたらどうなるかと、想像を巡らせてみた。タンポポや、イチョウ、ツバメ、モンシロチョウ、ホタルといった、季節を伝える生物が存在しなくなり、映像で代用することになる「近未来」。そのイメージは、かなり怖い……。

今月はスティーブ・アントニーの『ゆうかんな3びきと こわいこわいかいぶつ』(徳間書店2017年3月)から。本図書室の第15回で『女王さまのぼうし』(評論社)を、第16回号で『やだやだベティ』(鈴木出版)を紹介したが、今回の翻訳が国内5冊目となる。

昨年、取り上げそびれたのが『みどりのトカゲとあかいながしかく』(徳間書店、2016年7月)。この絵本で意表を突かれるのは、生き物である(緑の)トカゲと、図形の(赤い)長方形とを対立相手としていること。なかなか思いつくものではない。物語は、緑色の小さなトカゲと赤色の長方形とが、互いに相手をやっつけようと、争いをエスカレートさせるうちに収拾がつかなくなり、最後は平和への話し合いに転じていくというもの。生物と図形のありえない対決という設定そのものが、戦争のナンセンスさを際立たせる装置になっている。

 今回の『ゆうかんな3びき』の絵本も、「偏見」がひとり歩きするさまを描いた、思想性のある絵本と見ることができる。絵本の基調になっているのは水色。表紙でも水色の建物が四分の三ぐらいを占めていて、その陰から問題のかいぶつがのぞき見をしている。ただしリスのリックとハリネズミのハリーとハツカネズミのハックは、それに気づいていない。水色はその後も見開き画面の背景に使われていたり、夜の建物群を示すのに使われていたりする。茶色と黄色が挿し色だが、このうち黄色は空の月や建物のあかり、ハツカネズミの胸元(メダル?)などに使われている。かいぶつを探して街を歩くゆうかんな3びきは、逃げてきたさまざまな生き物とすれ違う。じつは画面には生き物たちと一緒に、「かいぶつ」の姿も小さく描かれているが、3びきは気づかないまま。やがて遠くでは小さく見えていた当のかいぶつと対面し、はじめて相手のばかでかさに驚くことになる。

両者の出会いの場面では、見開き左ページを大きく占めているのが、茶色のフードをかぶったかいぶつ。対する右ページは、画面下に3びきが小さく描かれ、文章が5行添えられている。つぎはそのうちの3行:

 

 ドブネズミのいうとおり、きょだいな オレンジいろの ひとつめ。

 コウモリのいうとおり、でっかい けむくじゃらの て。

 ネコのいうとおり、おっきな おそろしい くち。

 

これらの文章からどの生きものも、かいぶつの一面しか捉えていなかったことがわかるだろう。それはそのまま、われわれが偏った見方をする可能性を示唆している。

さて、かいぶつに出会った3びきはいったいどうなったのか。これについては絵本を見てのお楽しみ、としておきたい。

 新進気鋭のこの絵本作家スティーブ・アントニーに興味をもったのは、昨年イギリスのオンライン書評誌Books for Keeps 22号で、作家や画家の紹介欄(Authorgraph )に彼に関する記事をみつけたことも大きい。それによると、英国で1冊目の絵本が出版されたのは2014年5月。それからすでに9冊の絵本が出版されている。「女王さま」、「パンダ」、「ベティ」はそれぞれシリーズ化され、何冊かはペーパーバックにもなっているので、よく読まれている(売れている)と推測できる。

同じく記事によると、スティーブ・アントニーは7歳から15歳までアメリカで暮らしている。その後家族とともに英国のスウィンドンに戻った彼は、学資を稼ぐためにコールセンターで夜勤を始める。その後そこを退職するはめになったとき、いわば背水の陣をしき、前からやりたかった絵本の制作に向かったという。子どものときに色覚異常だと診断されたアントニーは、色鉛筆を使った。ラベル表示されている色名を頼りにしたのだが、それがフラストレーションになっていたとか。ところが赤と青を基調とした『女王さまのぼうし』の制作過程で、コンプレックスを逆手にとり、自分にみえる色を色として積極的に受け止めようと考えたそうだ。つまり、色の見え方が人と異なることを、自分の「イラストレーターとしての声」と捉えたことになる。(徳間書店版のカバー袖にも、7歳で色覚異常だと診断されたことが記されている。)スティーブ・アントニーに意欲と才能があったから絵本作家になれたのだろうが、彼のような背景をもつ絵本作家がいることで、勇気をもらう人もいるかもしれない。

 さて、「スティーブ」は「ステファン」や「スティーヴン」という名前の愛称だが、「アントニー」もまた男性の名前である。これが苗字というのは珍しい気がするが、彼の本名かどうかはホームページをみても確認できなかった。そしてこのアントニーの愛称に、「トニー」がある。

言語が変われば同じ名前でも、変化する。『3つ数えて走り出せ』(エリック・ペッサン作、平岡敦訳、あすなろ書房、2017年3月)の中学生アントワーヌとトニーを結びつけたのも、ふたりの名前だった。語り手はフランス人のアントワーヌ。自分の名前が英語では「アントニー」となると知り、ウクライナからの移民一家の息子、トニー(アントニー)と親しくなった。

物語は、いつものように「3つ数えて」競争をはじめた二人が、その日に限ってそのまま登校もせずに、どんどん遠くまで走っていく話である。最初は物語のタイプがわからず、恐怖小説になるのかと思ったり、途中から異世界に紛れこむファンタジー作品かと思ったりしたが、どちらもハズレ。二人は途中で休憩をとり、万引きでスナックを手に入れ、空き家に侵入してそこで眠るといった、通常なら「非行」に分類されるようなことを行いながら、何日も走りつづける。

走るうちに二人は、おそらくランナーズハイ、つまり高揚感を味わい、ずっと走り続けられると思ったのだろう。そして自分たちの限界を試したい気持ちや、このまま海まで行きたいといった気持ちにもなる。二人には明確な目的意識はなかったようだが、それぞれ、自分の抱えている悩みから逃げだしたかったことは否定できない。じつはアントワーヌには、日ごろからうっぷん晴らしのために自分に暴力をふるう父への嫌悪と怯えがあった。いっぽうトニーは、移民政策のせいでフランス領からの退去命令が届いていて、言葉もわからないウクライナへ送還されるか、家族がばらばらにされる恐怖があった

日数がたち、二人は親から捜索願がだされていることに気づく。十分な食事をとっていないので体力の限界が近づいているし、おそらく捕まるのは時間の問題だろう。この時点でアントワーヌが思いついた策は、地方紙の記者に接触することだった。その結果、二人はある種のヒーローに祭りあげられる。それが冒頭にあった「アントワーヌとトニー、家出のマラソンランナー」「フランスで学び、成長する権利を求めて走った二人の少年」という新聞の見出しである。

読んでいる途中では展開がよく見えないと思ったが、実際には前置きがあるので、二人がこの逃走劇から無事に帰還したことははっきりしていた。そして二人とも、幸福な結果を得ている。ことにアントワーヌの場合は、これまでと立場が入れ替わったことをつけ加えておきたい。父は、一躍マスコミの注目を浴びた息子アントワーヌが、いつマスコミにむかって自分の暴力のことを話すのではないか、今までの虐待が明るみに出るのではないかと、怯えるのだ。途中のさまざまな場所の様子もまたフランスの状況を提示していて、現代的な家出物語となっている。

『3つ数えて走りだせ』の二人の主人公は、地方紙というマスメディアを自分たちの味方として、幸運な結末を手に入れることができたが、複数の送り手から複数へ情報が行きかうとき、(ネットワーク)メディアが怖いものに変化することもある。NHK「オトナヘノベル」制作班編の『SNS炎上』(金の星社2017年1月)は、こうした現代の高校生に起こりうる事例を、3つの短編で描いている。長江優子、如月かずさ、鎌倉ましろの3人がそれぞれ「切りとられた恋」「見えない炎」「炎のループ」の執筆を担当し、各話の終わりにジャーナリスト高橋暁子が解説をおこなう構成。体験談をもとにしたフィクションというだけあって、たとえばスマホで撮った見知らぬ人の写真を軽い気持ちでインターネットにアップした結果などが、リアルに描かれている。どれも身近に起こりうるもので、主人公たちは恐怖を味わう。そして各エピソードの解説は、ほぼ共通している。つまり、一度インターネット上にアップされた画像は、削除がきかないのだと肝に銘じる必要があるし、見せる範囲が限定されていないと、第3者によって拡散してしまうこと、またネットで「炎上」したときの対処法などが、繰り返し述べられているのだ。解説にもあったが、悪意をもって炎上を煽る人が存在するという事実がいちばん怖かった。

絵本の制作過程に、作り手がどのようなこだわりをもっているかは、一般にはわかりにくい。同様に、海外の絵本を復刊するときに出版社(編集者)がどのようなこだわりを持っているかも、わかりにくい。アルヴィン・テッセルト文、レナード・ワイスガード絵の『ちいさなうさぎのものがたり』(安藤紀子訳、ロクリン社、2017年3月)を見て素人の私にわかるのは、絵本全体がセピア色ということぐらいだ。でも(訳者に教わったのだが)このセピア色の濃淡は、できるだけ原書に近い色合いを出すため、茶色とオレンジ色の2色のインクを重ねるダブルトーンという方法を使ったものだそうだ。地色も白のかわりにほんのりグレーがかかった色になっているが、これも2色を使った印刷。地色が白の場合より目にやさしく映るし、たとえば葉の葉脈の濃淡や、ウサギの毛並みなども柔らかく見えている。

物語は牧草地のはずれで誕生した3羽の子ウサギのうち、おもに1羽を描いている。ウサギは巣穴できょうだいと過ごし、外で遊ぶこと、おいしい草を食べることを学ぶが、やがてワナにかかる。ペットを欲しがっていた農夫の息子に、檻で飼われるようになり、「リトル・ラビット」と呼ばれるが、野生の本能をすっかり失ったわけではなかった。あるとき、檻の戸がしまっていなかったのを見つけて檻から脱走し、野生のウサギの仲間に戻り、やがて子どもを産む…というもの。わずか32ページの絵本のなかに、季節ごとのウサギの生態が描きだされ、時間の流れが感じられる。

藤田伸『かがみのくに──うみ』(マルジュ社、2017年2月)は15センチx13センチと、小さなボードブック。アーティスト絵本と呼んでよいのか自信がないが、かなりのこだわりをもって作られた文字なし絵本だということは確かである。なにしろ全頁が鏡面になっていて、そこに海中のさまざまな場面が描かれているのだから。鏡面への印刷はことのほか難しく、また通常なら4色でおこなうのに、この絵本では6色でおこなったとのこと。この絵本を、少し角度をつけて開くと、鏡でたがいに絵が反射し、そこに奥行きが生まれる。水族館で水中を見ているのとはまた一味違う、不思議な浮遊感を味わうことができる。なおボードブックの外箱には、携帯アプリを使うと宝箱があく仕組みだという説明があったが、アプリの類やカメラを使いこなす能力がないため、うまく見ることができなかったのは残念である。  

本日はここまで。

*****

◆ぼちぼち便り◆ *作品の結末まで書かれています。


毎年、3月の読書会はマンガを読みます。今回は『夕凪の街 桜の国』(こうの史代/作 双葉社 2004年10月)を取り上げました。1955年広島の原爆スラムに住む皆実が仕事の同僚の打越さんと惹かれあいながらも原爆症で亡くなってしまう「夕凪の街」と、1984年を舞台に、皆実の弟旭の娘七波(小学5年生)が友だち東子とともに入院中の弟凪生を訪ねる「桜の国」(一)と、28歳になった七波が東子と再会し、父旭が広島を訪ねるのを尾行しながら、東子と凪生の恋愛が語られる「桜の国」(二)から構成されています。

 

読書会のメンバーにはふだん、マンガを読みなれていない人も多いのですが、全員がとても読みやすかったという意見がありました。コマが基本的に四角く、安定していること、人物像に過度の誇張がないことなどが理由なのかと思いました。コマ間のギャップは大きく、実験的なマンガ手法も多く使われていますが、文学好きのメンバーはそれを楽しみながら読んでいるという感じを受けました。

 

原爆を題材にした作品という観点からは、日常生活を送っていても原爆の記憶が戻ってくる部分が衝撃的だった、死体が記号化されて描かれている、川に浮いた死体に瓦礫を投げつけたという言葉が印象に残った、多くの人がケロイドの傷を負っている銭湯のシーンが言葉より絵で見せられることで強く印象に残った、河原のススキが人の手に見えるように描かれている絵に死んだ人たちの怨念が感じられた、生き残った人の複雑な気持ちが「ぜんたい この街の人は 不自然だ」のような表現で巧みに表現されていた、おばあちゃんが、七波のことを死んだ娘翠の友だちと間違えて、生きていることを責めるシーンが印象に残った、などの感想が語られました。

 

また、『はだしのゲン』との違いについて考えた人たちもいました。『はだしのゲン』は黒っぽくて手に力が入っている感じがするが、この作品は意識的に頼りなさげな線で描かれていて、そこに、体験していない人が描いていることを意識させる、『はだしのゲン』に負けないぐらいリアル、などの意見が出ました。

 

マンガの手法についての感想も多く語られました。特に、イメージが重ねられ、時間や人の思いが重ねられているように思った人は多く、「桜の国」(一)冒頭の桜と凪生の入院先での桜吹雪と(二)の凪生の東子宛ての手紙を七波が紙ふぶきにするところと七波の両親である旭と京子の結婚の申し込みが描かれるところが桜のイメージで重なっている、フタバ洋装店が何度も出て来る、(二)の冒頭で七波が桃をむき、父がお墓に桃を供えるなどの例が挙げられました。

 

その他にも、皆実が打越さんに原爆に合ったことを話したとき、打越さんが「生きとってくれてありがとうな」と言って、手のアップによって、皆実に打越さんの手のぬくもりが伝わって、皆実の肩の力が抜けたところがコマの流れと選ばれたせりふで伝わってきた、皆実が亡くなるところの絵がないコマが並ぶところが想像力がかきたてられる、その部分で「嬉しい?」というセリフが心に残った、現実と回想が複雑に入れ込んでいるが線が異なるため、視覚的に理解できる、マンガのイメージが変わった、絵がきれいでシンプル、などの意見も出ました。加えて、さまざまな人物とその視線を描くことで、多様な視点から作品を読むことができ、どの視点でどれぐらいとどまるかは読み手の自由という意味では映像より自由に楽しむことができるように感じた、という意見も出ました。

 

全体としては、広島弁が懐かしい、歌が利いている、「このお話はまだ終わりません」(「夕凪の街」)というメッセージが強く心に響いた、じわじわと戦争の悲惨さが伝わってくる、人間の弱さを感じた、信じられるのは日常だと思った、偏見について考えさせられた、灯籠流しを思い出した、蒸し暑くて風がない「凪」がこの作品の雰囲気に合致している、東日本大震災を経験した日本や戦争が起きている世界の状況を思い起こした、などの感想もありました。

 

私は「この世界の片隅に」のアニメーションを見て、すずが大人になっても子どもに見えることにやや違和感を抱いたのですが、その原作マンガでも『夕凪の国 桜の国』でも童顔の主人公たちを「子ども」だとは思いませんでした。そして、その理由の一つに、人物たちの手足が大きいことがあるように思いました。手足の大きさは生活力を象徴しており、日々の生活をしっかり生きている様子が想像できます。そのことによって、童顔とも言える顔は、世の中をまっすぐ見つめる「子ども」の目を持ち続けていると考えることができるように思いました。

 

読書会でも語られたり、理論書等でも指摘があったりするように、マンガメディアを生かしたさまざまな実験的な手法が興味深い作品ですが、私が特におもしろいと思ったのは、言葉での思考のみでなく、視覚的な思考が促されているという点でした。風景、イメージ、言葉、表情、アングルなど、何度読んでも新しい発見があり、ゆっくりじっくり、行きつ戻りつしながら読ませる作品になっており、そのこと自体が「原爆」や「生きる」や「人間とは何か」ということを考えさせられることにつながるのだと思いました。そして、その立ち止まる時の感覚が「凪」であり、時が流れる感覚、前へ進む感覚が「桜吹雪」につながるように感じました。    (土居 安子)

 

<大阪国際児童文学振興財団からのお知らせ>

● ウェブサイト「マンガのひみつ大冒険!」公開

当財団では、インターネットでマンガについて知ったり、お気に入りのマンガを探したりできるサイト「マンガのひみつ大冒険! おすすめのマンガがいっぱい!!」を開発、公開しました。

サイトは「マンガをさがす」「マンガってなに?」「おすすめはこれだ!ゲーム」の3部で構成されており、佐々木マキ先生の「怪盗スパンコール」をナビゲーターに、子どもも大人の方にも楽しく親しんでいただける内容になっています。ぜひご利用ください。(平成28年度子どもゆめ基金助成活動)

 → http://manga.iiclo.jp/ 

 

● 記念展示「マンガを楽しもう!」

上記のウェブサイト「マンガのひみつ大冒険!」の公開を記念して、サイトに掲載のマンガの中から国際児童文学館所蔵作品を展示します。紹介している作品の一部は、国際児童文学館内で読んでいただくことができます。

会 場:大阪府立中央図書館 国際児童文学館 展示コーナー

期 間:4月1日(土)~6月28日(水)午前9時~午後5時

休館/毎週月曜・第二木曜、6月6日(火)~9日(金)  ・入館無料

主 催:大阪府立中央図書館 国際児童文学館 /一般財団法人 大阪国際児童文学振興財団


*****

 三辺律子です。


今月の言い訳(いきなり)。先月お知らせした共同通信の連載が毎週のため、紹介する本を読み直すことにほぼ終始し、新刊をご紹介する力がなくなってしまいました(また?!)。

共同通信の連載は、『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ)から始め、『アラスカを追いかけて』(ジョン・グリーン)、『ふたつの旅の終わりに』(チェンバース)、『移動都市』(フィリップ・リーヴ)、『すばらしい新世界〔新訳版〕』(オルダス・ハクスリー)、『ヘルプ 心をつなぐストーリー』(キャスリン・ストケット)、『スピニー通りの秘密の絵』(L.M.フィッツジェラルド)・・・・・・などを紹介していきます。自分が好きな本ばかりなので、かなり楽しくやっています。今後、古典やノンフィクションも入れてみたいなと思ったり。若い読者にも、面白いと言ってもらえる自信のある本ばかりなので、どうぞよろしくお願いいたします。


〈一言映画評〉 三辺律子 *公開順です


『タレンタイム』

 マレーシアの青春映画。切なく、ぐっとくる! マレー系、インド系、中国系など民族や宗教の違う人々が暮らすマレーシアを、若者の視点から垣間見ることができる。


『はじまりへの旅』

 コピーは、「森で暮らすヘンテコ家族が、旅に出た。世界中が大喝采!笑いも涙も溢れ出る、最強で最高のロードムービー!!」だけど、それよりもっとシリアスで批判的な印象。文明嫌いの父親は、6人(!)の子どもたちを連れ、アメリカ北西部の森林で暮らす。が、妻の葬式に出るために森を出ることになり・・・・・・現代版モスキートー・コースト。あ、確かに笑うシーンは盛りだくさん。


『ゴースト・イン・ザ・シェル』

 士郎正宗の人気コミック『攻殻機動隊』を、思いっきり真面目に実写化。脳以外、全身義体化された最強戦士を演じるスカーレット・ヨハンソンの美しさと、近未来都市の造りこみ方は、観て損はなし。


『LION 25年目のただいま』

5歳でインドで迷子になり、オーストラリアの夫婦に養子として引き取られたサルーが、25年ぶりに母の元へもどったという実話を基にした映画。もどったきっかけが、主人公サルーの驚異的な記憶力とGoogle Earth。Google Earthすごい・・・・・・。

養父母はもう一人、インド人の養子マントッシュを引き取る。でも、生来人なつこくて愛されるサルーと違い、マントッシュはうまく馴染むことができない。彼のように「損」してしまうタイプの子供を思い、胸が痛んだ。


『ぼくと魔法の言葉たち』

 自閉症で話すことのできない少年オーウェンが、アニメを通して徐々に言葉を獲得し、自立への道を歩んでいく姿を追ったドキュメンタリ。ディズニーアニメは表情やセリフが大げさなので、自閉症の子供にもわかりやすいそう。

 オーウェンの場合は、家庭が経済的にも理解という面でもかなり恵まれていた(それでも大変なのだ)。支援の重要性を再認識。


『メットガラ ドレスをまとった美術館』

 ニューヨークのメトロポリタン美術館で開かれるファッション・イベント“メットガラ”に密着するドキュメンタリ。主催者はVOGUE編集長アナ・ウィンター。ガラ当日の華やかさと、そこまでの道のりのすったもんだのギャップは面白い。それにしても、アメリカのセレブ社会のゴージャスさは、魅力を通り越して異常(といいつつ、リアーナやジャスティンやクロエが映ると興奮するわたし)。


『人生タクシー』

 『オフサイド・ガールズ』のパナヒ監督が自らタクシー運転手に扮し、教師、金魚鉢を持った老女、口うるさい姪っ子(笑います)、弁護士などさまざまな乗客たちを乗せていく。ほぼタクシーの中だけで繰り広げられるドラマから、現代のイラン社会が浮かびあがるさまは、秀逸。表現の自由がきびしく制限されている本国では、上映禁止。


『スウィート17モンスター』

 思春期ど真ん中の、超個性派変わり者女子高生ネイディーンをヘイリー・スタインフェルド(『トゥルー・グリッド』)が好演。ネイディーンは,みんなから好かれているとは言いがたい変わった女の子だけど、親友クリスタとそれなりに楽しい学園生活を送っていた---が、クリスタがイケメンの兄と付き合いはじめ、なにもかもめちゃくちゃに。パーティ、スリープオーバー、プロムに誘われるなどなど、アメリカ学園物の王道をいきながら、主人公ネイディーンがぜんぜん王道じゃなくて、とても魅力的。脇役の教師に注目。笑えます。


『Don‘t Blink ロバート・フランクの写した時代』

 写真集『アメリカンズ』でアート界に多大な影響を与えた写真家ロバート・フランクのドキュメンタリ。人物や作品をまっすぐ紹介するというより、その影響を映像や音楽を使って伝える形をとっていて、面白い。


*****

以下、ひこです。

【児童文学】

『ホイッパーウィル川の伝説』(キャシー・アッペルト&アリスン・マギー:作 吉井知代子:訳 あすなろ書房)

 ジュールズの姉シルヴィは足が速い。走るために生まれてきたかのようにいつも走る。とりのこされるジュールズが隙なのは石。色んなところで拾った石を集めている。

 今上には奈落の淵と呼ばれる危険な場所があり、そこへ行くことは父親から固く禁じられている。だけど禁じられたら遊びたくなるもの。淵で石投げすれば願いが叶うとも言われているし。

 ある雪の朝。学校に出かける前。シルヴィがちょっと走ってくると行ったまま消えてしまった。永遠に。

 遺されたジュールズと父親。そんな暮らしの中、ジュールズの前に子ギツネが現れる。やがて子ギツネがジュールズを導く先には・・・・・・。

 喪失の痛みと、それを支える自然の力を描いています。

 

【絵本】

『ぼくの草のなまえ』(長尾玲子:さく 福音館書店)

 太郎君がチューリップに水をあげていると、プランターの中に知らない草が。どんな名前か知りたくて、おじいちゃんに電話をします。でも、春の草は一杯あって、太郎君の説明だけではなかなかわからない。そこでおじいちゃんは、3つの質問を順番にします。茎の形状、葉っぱの形、葉っぱの付き方。つまり、絞り込み検索ですね。

 ものの調べ方が、わかりやすく説明されています。

 それと、刺繍で出来た絵が、素朴で、リアルで、親しみやすい。

 よく出来ています。


『バンビと小鳥』(桶上公実子 ポプラ社)

 昔、おじいさんがおばあさんに贈った鹿革のスカート。それをいつもはいている娘はバンビと呼ばれていました。

 ある日小鳥がやってきて膝の上に座ります。毎日やってくる小鳥に誘われてむすめは森へ。そこで出会った雄鹿は・・・・・・。

 『バニラの記憶』(松本侑子:文)で鮮烈な印象を残した桶上、初の自作絵本です。幻想的な物語に、凜とした画が似合います。


【絵本カフェ】(公明新聞)


2017年1月

『それでも、海へ 陸前高田に生きる』(安田菜津紀:写真・文 ポプラ社)

 二〇一一年三月十一日の震災から、まもなく六年。多くの人にとって、それを思い起こす時間は徐々に減ってきていることでしょう。

 この写真絵本は、津波で大きな被害を受けた陸前高田で漁を営む菅野修一さんのあれからを追っています。

 港町、根岬。菅野さんはここで生まれ育ち漁師になりました。今六十四歳。

 絵本は根岬から太平洋を眺める風光明媚な風景から、漁を終えて帰ってきた菅野さんの姿へと画面が移っていきます。今日の水揚げは、貝やカニ、そしてカジカ。

 そして次のページ。青空を背景に、タオルを頭に巻いて長靴を履いた小さな男の子の元気そうな笑顔の姿。菅野さんの孫の修一くんです。根岬の人たちからは“しゅっぺ”と呼ばれています。

 震災の後の修一さんは亡くなった仲間を思うあまり、漁ができなくなりました。缶詰を食べる毎日。そんなとき、しゅっぺが言ったのです。「ねえじいちゃん、じいちゃんがとってきた白いお魚が、もう一回食べたい」。

 修一さんははっとします。どれほどの大惨事があったからとて、目の前の海の恵み、ずっと受けてきたそれを捨ててはならないと。

 二ヶ月後に修一さんは再び漁にでます。そうして徐々に、根岬は活気を取り戻し始めます。

 自分たちの、かつてあった暮らし。できるだけそれを取り戻し、毎日を生き続けていくこと。それこそが亡くなった人々への鎮魂であり、しゅっぺたち新しい世代へと受け継ぐべきことなのです。

 この写真絵本は、そんな大切なことを修一さんとしゅっぺの姿を通して伝えてくれます。


2017年2月

『こわい、こわい、こわい』(ラフィク・シャミ:文 カトリーン・シェーラー:絵 那須田淳:訳 西村書店)

 食べ物を探しに出かけていた母ネズミが大慌てで戻ってきます。「こわい、こわい、こわい。ネコよ、ネコが追いかけてきたの」。子ネズミの反応は、「ネコって何?」であってもおかしくないはずですが、娘のミナは違いました。こわいがどこにいたのか知りたがるのです。そうじゃないという母ネズミの説明に納得しないミナは、穴を抜け出し、「こわい」を探しに出かけます。

 ライオンは「こわい」など自分にはないと自慢し、むしろこわがらせる方だとばかりにミナの目の前で吠えますが、「こわい」を知らないミナはちっともこわがりません。大きな声だとは思いますけれど。

 カバも、スカンクも、ハリネズミも「こわい」を持っていません。ゾウも持っていませんが、「こわい」は、ぞわっと寒くなると教えてくれます。犬は、それは匂いでわかると言います。カメは280種類の「こわい」を知っていると話し始めますがミナはますます分からなくなるばかり。

 次に出会ったのはヘビ。このときミナは今まで感じたことがない感情にとらわれます。早くこの場から逃げ出したい。そう、それこそが「こわい」です。

 巣へと無事に帰ったミナは母ネズミの胸で安心して眠ります。

 ここに描かれているのは「何が」こわいかという経験知を積み重ねる子ネズミの冒険ではなく、「こわい」とは何かという概念を巡る物語です。難しいはずのそうした知の営みを、絵本は小さな子ども向けにも易々と伝える事が出来るのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?