【児童文学評論】 No.241 2018.04.30
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『13歳からの絵本ガイド YAのための100冊』(金原瑞人&ひこ・田中:監修 西村書店 本体1800円+税)。
*そうえん社でお世話になりました「レッツ」シリーズ(ひこ・田中:文 ヨシタケシンスケ:絵)が、講談社からフルカラーで再刊されます。
『レッツとネコさん』(六月刊)。『レッツのふみだい』(七月刊)。『レッツがおつかい』(八月刊)。続刊、ただいま執筆中。
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◆ぼちぼち便り◆ *作品の結末まで書かれています。
今回の読書会は『熊とにんげん』(ライナー・チムニク/作・絵 上田真而子/訳 徳間書店 2018年1月、原書Der Bär und die Leute 1954年初版)を取り上げました。
前半は、手まわしオルガンに合わせて踊る熊と、七つのまりでお手玉をする<熊おじさん>(以下、おじさんとします)が旅をする様子が描かれ、後半は、おじさんが亡くなり、一人ぼっちになった熊が、ロマの一族に売られたり、森の中で仲間に出会ったり、森の中で迷子になった少年と出会ったりします。それらの出来事が著者チムニクによるたっぷりのイラストとともに描かれている作品です。
読書会のメンバー全員がこの作品を楽しみ、印象深かった点を話し合いました。まず、「あるとき、ひとりの男がいた。」から始まる<熊おじさん>について、「心根のいいこと」という表現はふだん聞きなれない言葉だが、この作品にぴったり。訳者の上田真而子さんの言葉の選択がすばらしい。冒頭部分を声に出して読んだが、言葉が心に染み込んできた。おじさんは、熊に寄り添って、まるで父親のようである。おじさんが熊と神さまだけが友だちであると言っているように、よけいなものを何も持っていない、無駄のない人生を送っている。それでいて、星の話をたくさん知っているなど、心が豊か。生涯放浪し続けたが、放浪というより、地球全体がおじさんの家であり、居場所という感覚がした。おじさんも大きな自然の一部だと感じられた。おじさんが神さまに話しかける様子から、神さまが隣にいるような感覚を覚えた。おじさんが歩く、「ひと呼吸に三歩」というのが印象深く、この作品のリズムの基調となっていた。おじさんが静かに息絶え、熊が気付かずに話しかける場面がとても悲しかった、などの感想がありました。
一方、熊についても多くの感想が寄せられました。おじさんに星の話をせがむ様子が人間の子どものようだと思った。おじさんと別れた後半で、ロマの一族と旅をしているとき、ヨショーがどうやって熊が人間に捕えられ、踊れるように訓練するかを熊に語る。その部分が、熊が大人になる前に自分の出生から子ども時代を知るという過程を表している。その後、熊が口輪を自分で取るが、それは、親からの束縛を離れ、大人になった象徴として読み取れる。熊が口輪をとって仲間に会いに行っても歓迎されない様子に難民や移民の現実を思い、帰属できない悲しさを感じた。熊は作者自身が投影されているのではないか。熊の最後をどう考えたらいいのかと思った。森の仲間のところで死ぬのではなく、人間の子どもと一緒にいることを選んで死ぬとはどういうことなのかと考えてしまった。子どもは神の子のように感じられた、などの感想や意見が述べられました。
また、夜におじさんと熊が、星のおはなしの後に聞いた角笛は多くの人の心に残りました。特に、その角笛が森に響いてこだまする音は、まるで神様の声のように思った、聞こえてくるような気がしたという音に関する感想や、市で女の人の裸の踊りを見ていた人が、角笛によって我に帰り、熊とおじさんの芸を見に来たというシーンは、角笛=聖が俗に勝ったシーンだと思った。作品の中で何度も季節がめぐる描写があり、自然の美しさや、それが繰り返されることや、時間の流れを感じた。農家の人々が自然とともに同じ生活を繰り返している様子が印象に残り、夏、田園に「いく百いく千もの小さいくもが巣をは」る様子を見てみたいと思った、という意見が述べられました。
この作品は、挿絵がふんだんに使われており、文と分かちがたい関係にありますが、絵についても、多くの感想が述べられました。モノクロで繊細な線が、物語世界を豊かに語っている。道がくねくね曲がって奥行のある絵がおはなしの奥行、作品世界の奥行を感じさせる。その道がページの上部に向かっていることで、神様のところへ続いているような感じを受ける。そして、読者にも神の視点が与えられる。同じ構図の絵が反復されることで、季節が変わり、時がめぐる様子が視覚的に理解できる、などの全体的な印象とともに、動きのある絵で、おじさんが、七つのまりで芸をする姿は、足まで使ってリズミカル。戦いの場面は、何重にもぐるぐる重ねられた線が戦いのすさまじさを感じさせると同時に、おじさんが敵にフライパンで立ち向かうのがユーモラス。自動車の出現で生きる世界が狭くなった感じが絵から伝わってきた、というような個別の絵に関する感想もありました。
そして、全体として、「熊とにんげん」というタイトルの原題の「にんげん」は複数形であり、この作品は、熊がさまざまな人間に出会う話であると考えることができる。血生臭いことが何度も起こっているが、全体としては、静かで落ち着きがある印象。何度も死や絶望が近づいても不死身のように立ち上がるストーリー展開には希望が読み取れる。その立ち上がる時に誰かと心が行き交うことが描かれている。熊と人間と自然のかかわりが描かれていて、大きな時の流れの中で生きている実感がした。詩のようなお話で、熊おじさんの角笛の音が残るという結末に余韻が残る、などが語られました。
私にとっては、なぜ、熊が、森の仲間に受け入れられたにもかかわらず、伴侶を見つけたり、子どもを得たりすることなく、人間を恋しく思い、鉄砲で撃たれながらも、人間の子どもと友だちになってその友情を続けて死んでいったのかというのがこの作品のテーマと大きく関わっていると思いました。作品のあとがきや雑誌「子どもの館」53号(1973年10月)のインタビュー記事などによると、チムニクは、現ポーランド領のボイテンから戦火を逃れ、親戚のいるバイエルンに逃れましたが、そこではチムニクたちの窮状は理解されず、父親も戦争で亡くします。15歳で高校を中退し、指物師の仕事をしますが、苦労して高校を卒業し、美術学校で学びます。熊が、森の仲間に安住の地を見つけないこと、熊はいつも孤独でおじさんや少年など一人の友だちを大切にすることと、チムニクが親戚に受け入れられなかったこと、いわゆる浮かれた美術学校生ではなかったこと、ナチス政権下で戦争を体験したことなどが重なるような気がします。そして、幸せは、同類といることではなく、音楽や物語を共有し合え、愛し合える人といることであり、どう生きるかは個々の選択によるというメッセージを感じます。
チムニクには他にも『レクトロ物語』(上田真而子訳 福音館書店 2006年6月)や『クレーン』『タイコたたきの夢』『セーヌの釣りびとヨナス』(矢川澄子訳 パロル舎他)などの作品が翻訳されており、そこには、旅や孤独、自由へのあこがれ、庶民であることや働くことへの誇り、幸せの模索など、共通のテーマを読み取ることができます。そして、どの作品もモノクロの繊細で美しく、ユーモラスなペン画が、それぞれの場面に応じて読者の感情を引き出しています。
訳者の上田真而子さんは、とても残念ながら去年12月にお亡くなりになりましたが、昨年、11月に上田さんにご講演いただいたときに「一番好きな作品」とおっしゃっていた『熊とにんげん』が2018年1月に徳間書店から再版され、とてもうれしく思っています。何度読んでも新しい発見があり、詩的な言葉と絵が作りだす物語を通して人生や人間の生き方について考えさせられます。上田真而子さんのご冥福をお祈りするとともに、この作品が読み継がれることを心から願っています。(土居 安子)
<大阪国際児童文学振興財団からのお知らせ> 詳細はhttp://www.iiclo.or.jp/をご覧ください。
● 国際講演会の報告集を販売しています
昨年7月に開催しました国際講演会「タンザニアの絵本作家 ジョン・キラカ自作を語る-バオバブの木の下で-」(主催:当財団、大阪府立中央図書館)の報告集。キラカさんの講演と子ども向けワークショップを記録しています。
発行:当財団 2018年2月 A4判36頁 1200円+税
● 講演会「ドイツの子どもの本の魅力」の報告集を販売しています
昨年11月に開催しました講演会「ドイツの子どもの本の魅力-ブッシュ、エンデから現在まで-」(主催:当財団)の報告集。 上田真而子さんの講演「ドイツの子どもの本の魅力-翻訳を通して出会った作家・作品たち-」と、酒寄進一さんの講演「ドイツの子どもの本-過去から未来へ-」を記録しています。発行:当財団 2018年3月 A4判36頁 800円+税
● 連続講座「アメリカと日本の子どもの本」の報告集を販売しています
昨年5月~7月に開催しました三宅興子さんの連続講座「アメリカと日本の子どもの本-その関係を探る-」(主催:当財団)の報告集。全3回の講演を記録しています。発行:当財団 2018年3月 A4判36頁 1200円+税
●国際講演会「ベルギーの児童文学」を開催します。
「ベルギーの児童文学とは」
講 師 : 野坂悦子さん(作家、翻訳家)
「ベルギーの児童文学-私の心に根ざす哲学」
講 師 : ワリー・デ・ドンケルさん(作家、国際児童図書評議会(IBBY)会長)
日 時 : 平成30年5月27日(日) 13:30~16:30
場 所 : 大阪府立中央図書館 2階 大会議室
参加費 : 1000円 ◎ 定 員 : 60人 ※ 申し込み受付中
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西村醇子の新・気まぐれ図書室(31) ――花はどこへ行った──
2月3月と、開室できなかった。その間に季節は進み、私が住む地域では桜も藤の花も、あっという間に終わり、いまやツツジやバラが咲いている。
書きそびれていた間の本のなかに、「イースター」をテーマにしたものがあった。わあ、ごめんなさい!! きょうはこの本から。
キャサリン・ミルハウス作・絵『イースターのたまごの木』(福本友美子訳、徳間書店、2018年2月)は、アメリカのペンシルベニア州(絵本の表記)が舞台で、イースターに木に卵を飾りつける風習を描いたもの。コルデコット賞を受賞しているが、1951年出版とあって、使われている色数は少ない。翻訳では本体53ページの幼年童話の判型になっている。
ある農家では毎年イースターの日の朝、親戚の子どもたちが家の内外に隠されている卵を探して競争する。今回が初参加で、いとこたちのように卵を見つけられないケイティ。思いあぐねて屋根裏部屋に探しにいき、古い帽子箱にきれいに色付けされた卵があるのをみつける。するとおばあさんは、その卵はみな昔自分が作ったものだといって、生の卵の中身を出して殻に絵を描く方法を教えてくれた。また、卵に糸を通して木につるすと、卵の木ができるという。
子どもたちはこのきれいな卵に魅せられ、自分たちもたくさん作って飾りつけ、大きな卵の木を作った。やがてイースターの卵の木を見に、近所の人たちが訪れ、卵の木は有名になり……。
イースター用に卵に絵を描く風習があることは比較的よく知られているだろう。でもクリスマスツリーはともかく、卵で「卵の木」をつくることは、この本ではじめて知った一人である。本書では訳者が、イースターに卵を飾るいわれやウサギとの関わり、そしてこの絵物語がペンシルベニア・ダッチと呼ばれるドイツ系移民村を描いていること(納屋の描きかたからそれがわかるそうだ)などをあとがきで補っている。これらの情報は、どれも有益なものだった。
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アニタ・ローベル作『いたずらトロルと音楽隊』(あんどうのりこ訳 ロクリン社2018年4月)の場合、じつは表紙絵だけでは彼女の作品だと気づかなかった。というのは、『アンナの赤いオーバー』や『わたしの庭のバラの花』などのせいで、色鮮やかな絵を描く人だというイメージが強すぎたのだ。
初邦訳の本書の場合、原書はローベルがデビューした翌年の1966年出版だそうで、やはり色数は限られている。気になってアニタ・ローベルのホームページをのぞいたら、初期の絵本制作がとても面倒な手法をとっていたことや、その後、技術の発展にともない、異なる制作方法をとれるようになったことなどが述べられていた。
イラストレーターで作家の夫、アーノルド・ローベル(1933-87)に捧げられた本書は、昔話風の世界が舞台となっている。町を離れれば宿屋がないため、旅回りの音楽隊は森で野宿をした。疲れ果てて眠りこけていた一行は、音楽を聴きたがったトロルを怒らせ、知らないうちに、楽器に魔法で仕返しをされていた。つぎの町を訪れた一行が、評判の音楽を聴こうと集まった人々のまえで演奏を始めると、チューバからは「モォーォー」、トランペットからは「ガア、ガア」と、動物の鳴き声しか出てこない。腹をたてた人たちに町から追い払われた一行は、町の外でもう一度楽器を試すが、集まってくるのは楽器から聞こえる鳴き声に引かれた牛や馬、羊、ガチョウ、めんどり。
音楽隊のメンバーは途方にくれたが、トロルがやったことだとわかったので、魔法をといてもらう方法を考える。それは動物たちにも助けてもらい、贈り物を用意することだった。再びあの森へ行くと、今度はトロルのおかみさんと子どもたちに出会う。事情を聞いたおかみさんは贈り物を喜び、トロルだんなの鼻にパンチをくらわして叱りつけた…。
本書では人間が動物やトロルが交流している。ただしトロルといっても、『ホビットの冒険』に登場したような巨体・怪力のいきものではなく、いたずら小鬼のような妖精になっている。また草花がふんだんに描かれているが、ことに文字ページの周囲はそれぞれ少しずつ異なる花綱に囲まれて、音楽のメロディーに代わって、ユーモラスな話の雰囲気を盛り上げている。
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マリー・コルモン文、ゲルダ・ミューラー絵『マルラゲットとオオカミ』(ふしみ みさを訳、徳間書店2018年2月)は1952年にパリで発行された絵本で、「ペール・カストール」シリーズの1冊。
ペール・カストールことポール・フォシュ(1898-1967)はフランスの教育者・編集者で、1931年から動物ものをはじめとして、多数の絵本のシリーズを世に送りだした人物。最初期のイラストレーターは絵本作家[フェードル・]ロジャンコフスキーだった。本書の画家ミューラーはオランダ生まれ。パリに移住し、「ペール・カストール」シリーズに参加したという。ロジャンコフスキーの『かわせみのマルタン』や『のうさぎのフルー』などは動物の生態を描くことに主眼があったが、それと比べると、本書は物語性がつよい。また古さを感じさせないエスプリのきいた展開となっている。
マルラゲットは、キノコを採りに行った森で一匹の灰色オオカミと遭遇した。獲物としてさらっていこうとするオオカミ。マルラゲットは必死に抵抗したものの、巣穴まで引きずられた。ところが、巣穴の入り口でオオカミはおでこをぶつけて気絶し、少し出血もしている。するとマルラゲットはオオカミに同情し、あれこれ世話をし始めた。
森では動物たちに嫌われる一方だったオオカミは、優しくされてまごつく。でも、つききりで看病されるうちに、すっかりマルラゲットが好きになる。いっしょにいたいがために、動物を食べるのをやめると約束し、空腹をがまんしていた。でも、それを知ったきこりのおじいさんは、オオカミは肉食だからこのままでは体がもたないよ、とマルラゲットにいう。一晩悩んだマルラゲット。「これからは、ほかのオオカミとおなじようにくらしなさい」と、オオカミを約束から解放して、別れる。
本書では基本的に、1ページに1ないし2の挿絵があり、文章がその絵の下方、というスタイルがとられている。けれども物語の最終頁だけは、左上に少女、右上にオオカミの絵があるが、両者間のスペースに文章が入っている。このレイアウトから、少女とオオカミのあいだに距離が生じたことが示されているのだ。最後の文章もまた、相手を見かけるたびに、「うれしさとかなしさのいりまじったきもち」を味わったとなっており、絵と文が合わさって絵本の世界が作られることが、よくわかる。
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オオカミが登場するつぎの絵本もフランスの作品。色数は少ないが、出版は2014年である。ジャン・リュック・ビュケ作『赤ずきん オオカミのひみつ』(大澤千加訳 洋洋社 2017年12月)は、言わずと知れた昔話「赤ずきん」を絵本化したもの。なお本書にはページ数の表示がないので、以下では「むかしむかし」を1ページ目として述べている。
冒頭の3ページは文章だけで、我々にもおなじみの物語が、途中まで語られる。つまり、赤ずきんの紹介、病気の祖母のお見舞いに行くいきさつと、オオカミとの出会いの場面まで。
赤ずきんは途中でオオカミになれなれしく話しかけられても、相手の本性を知らないため、怖がることなくお使いの目的や行先を話してしまう。すると、自分にとっておいしい(!)情報を引きだしたオオカミは、赤ずきんに道草を勧めると、自分はまっしぐらに祖母の家へ駆けつける。そしておばあさんを食べてしまう。
4ページ目の文章は、「そして、おばあさんになりすまそうとオオカミは……」と、三点リーダー(…)二つで、文章を終わらせている。
ユニークなのはここからで、次のページからは、文章がほとんどない。たとえば5ページは「……」だけ。反対側(6ページ)のクローゼットにずらりと並んだ洋服と、そのまえのオオカミの絵を見れば、5ページがオオカミの気持ちだとわかる。つまり本書は、視点をずらし、オオカミ側から物語を描いたものなのである。
7ページから40ページまでは(見開きが2か所ある以外は)奇数ページが時計の絵、偶数ページがオオカミの絵となる。時計の針は時間経過を示し、右ページが洋服と悪戦苦闘中のオオカミの百態になっている。途中の23ページには、「最後の1着、これがラストチャンス」という言葉があり、洋服を着たことがないらしいオオカミが、どうしたらいいかわからずに失敗を重ね、まともな服が1着だけになったのだとわかる。
ここまでくると、オオカミよ、なんとかうまく着てくれ、さもないと物語だって進まない、と応援(?)したくなるから不思議だ。幸い、偶然にも助けられ、オオカミはようやく服を着ることに成功する。
最後の41ページから43ページまでは、二つのイラストがある以外は再び文章で、おなじみの物語の後半が語られている。
絵本化はもうし尽くされたとばかり思っていた「赤ずきん」。こんな新しい装い方があったとは! 感心するばかりだ。
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つぎは48ページの「絵童話」。『ぼくのドラゴン』(おのりえん作、森環絵、理論社、2018年2月)の舞台となっているある村では、子どもは誕生時に、自分だけのドラゴンの卵をにぎって生まれる。そのドラゴンが卵からかえると、その子の一生の相棒となり、しかもほかの人間には姿を見せないのがルールだ。
物語はぼく(アオバ)が語る形式。相棒のアオと過ごしていた幼い時代、やがて年長(6歳)になったアオバたちは、豆の畑の世話を任されるし、学校へも通いはじめる。そして相棒のドラゴンたちもそれぞれ成長し、翼が使えるようになり、大人への一歩を踏み出していくことが描かれる。
小さなドラゴンは、子どもの勇気を試す対象相手として使われることもあるが、ここでは子どもの内奥を象徴的に示すものだろうか。
アオは、こわがっていた。
自分の体が、かわっていくことを。(中略)
自分の背中をつきやぶって羽がでてくるなんて、考えるだけで
こわいんだもの、アオはもっとこわいんだ。(39ページ)
こういう、背景の設定がはっきりしないタイプの物語は苦手だ。でもドラゴンには惹かれる。ことにドラゴンが夜、アオバと枝に並んで座っている上の引用の場面や、アオバがおとなのドラゴンとなり、アオバを背中に乗せて空を飛ぶ場面は、森環の画とあいまって、とても魅力的だった。
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空を飛ぶといえば、2017年出版デイヴィッド・アーモンドの作品にも、空をとぶ天使が登場する。
『ポケットのなかの天使』(山田順子訳、東京創元社、2018年2月)は、ある日、バスを運転中のバートの胸ポケットに、とつぜん小さな天使が現れたことから物語が始まる。バートの妻でセント・マンゴー校の調理師をしているベティは、この小さな天使をアンジェリーノと名付け、夫とともに亡くなった息子の分まで愛情を注ぐ。ベティが勉強させようと天使を学校へ連れて行くと、子どもたちは自分たちの周りを飛び回る天使に大喜びし、いっしょに遊んだり、絵のモデルにしたり。天使はちょっとずつ大きくなっているようだが、自分がどこからなぜ、ここへ来たのかはわかっていないらしい。
一部の教師は、天使を無視するか、さもなければ学校の秩序を乱す存在だとして敵視する。また、最初の日にバスに乗り合わせ、天使を目撃した黒ずくめの若者(のちにケビンという名前だとわかる)は、ひそかに天使に目をつけていた。そして教会関係者や興行師のだれかに高値で天使を売りつけようと、誘拐する。そこで最初に天使と友だちになった3人の生徒がアンジェリーノの捜索に力をつくし、救出に一役買う。
物語を読み始めたとき、アーモンド作品なのにイギリスらしい地方色もあまり感じられないし、物語の雰囲気とテンポがこれまでと異なることに戸惑った。困った人物や厄介な悪人がぞろぞろ出てくるところは、レモニー・スニケット(本名ダニエル・ハンドラー)の『世にも不幸なできごと』などの作品みたいで、作者名が間違っているのでは、とさえ思ったほどだ。でも読んでいるうちにハタと気づいた。そもそも、デビュー作『肩甲骨は翼の名残り』も、どこからか地上にやってきた、謎めいた天使を扱っていたと。天使に関する説明がないことからくるわからなさは、本作と共通するものだ。
さらに『肩甲骨は翼の名残り』に登場する、主人公の隣家の少女ミナは、学校教育にたいして懐疑的でかつ辛辣な意見を吐いていた。それを思いだしたら、学校での場面が多い『ポケットのなかの天使』で、教育関係者の権威主義や出世目当てのお粗末ぶりが戯画的に描かれていることも、不思議ではなくなる。
物語終盤に、誘拐事件では悪者だった若者ケビンが心を入れ替え、美術教室で生徒にまじって作品制作に打ち込む場面がある。このときケビンは、時間を遡って自画像を何枚も描いた:
……少年と青年のあいだの自分。成長の途上にあって、徐々に自分というものを理解しつつある、いまだ幼い若者。鏡の自分を見て自画像を描いていると、赤ん坊が、天使が、宇宙飛行士が、変装した悪党が、自分のなかに存在しているのがわかる。(249)
物語の結末は、バートとベティ夫婦にとっても満足のいくものとなり、読み手に幸福感をもたらす。だが、アーモンドが書きたかったのは、若者の複雑さを示す、引用した部分だったのかもしれない。
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最後に、児童書には該当しないが、「空を飛ぶもの」つながりで、エル・キャサリン・ホワイトの『龍の騎手』(原島文世訳、創元推理文庫、2018年2月)を。詳述は避けるが、害をなすグリフォン、庭の妖精などが登場するファンタジーで、ドラゴンライダーが特定の龍(ドラゴン)または飛竜(ワイヴァーン)と絆をもち、騎乗して敵を倒すという設定は、アン・マキャフリィの< パーンの竜騎士>シリーズを連想させる。それにもまして特筆したいのは、この作品がジェイン・オースティンの『高慢と偏見』をとても上手に間テクストしていることである。オースティン・ファンとしては、どの部分をホワイトが利用しているかを考えながら読むのが、とても楽しかったことを書き添えておく。
まだまだ書き足りない気もするが、本日はここまで。(2018年4月)
*以下、ひこです。
【児童書】
『MARCH 1 非暴力の闘い』(ジョン・ルイス、アンデリュー・アイデン:作 ネイト・パウエル:画 押野素子:訳 岩波書店)
キング牧師が暗殺されてから50年が過ぎました。
公民権運動の指導者の一人であり、1963から1966まで学生非暴力調整委員会の委員長を務めたジョン・ルイスの自伝的コミックです。非暴力で闘う姿勢をより多くに人々に伝えたい思いのあふれたコミックですと言った方がいいかな。
一巻目は、黒人に食事を出さないレストランへの非暴力運動がどのようにして行われたのか、そしてその徹底した非暴力は、どのような力を発揮し、何をどう変えていったのかが、とてもわかりやすく具体的に描かれています。
これはもう、コミックの力というほかはありません。文字媒体でも、アニメでも映画でもないコミックの持つ力。
この地に足のついた運動を描いた作品は、ささやかであれ、勇気を与えてくれます。
大森一樹の解説が、わかりやすくていいですよ。
全三巻です。
『ひとりじゃないよ、ぼくがいる』(サオモン・フレンチ:作 野の水生:訳 福音館書店)
オーストラリアの田舎町が舞台です。キーランの前にいとこのボンが登場します。キーランの部屋に泊まった折、キーランが大事にしているフィギュアを勝手に借りたりして、最初から印象が悪い。
ボンの母親は親の役目を果たさない人なので、ボンは同じ学校に転校してき、おばあちゃんの家に住むことになります。キーランの家族たちはボンを気遣いますが、それが面白くない彼は、ボンをいじめているグループから抜け出せません。
もう一人の転校生ジュリアに、キーランは惹かれますが、彼女はボンと友達になり、彼を気遣っています。ますます、ボンに腹を立てるキーラン。もちろん、キーランだって、そんななは違うってわかっているんでしょうけれど、止められない。
物語は、そんなキーランのどうしようもない気持ちを細かく追っています。
キーランの親も祖母も、そしてジュリアも、キーランの気持ちは理解しつつ、だめなことはだめなんだと決して妥協しないのがいいですね。ボンはボンで、受け身に見えますが、芯は強くて、決して譲らない。
だから、キーランは自分と向き合うことができるのです。
『ぼくたち負け組クラブ』(アンドリュー・クレメンツ:作 田中奈津子:訳 講談社)
アレックは大の本好きで、授業中も読んでいて怒られることが多い。スポーツ万能のケントからは本の虫とからかわれています。
両親の仕事の都合で放課後も学校の放課後プログラムに参加することになります。ここでは何かクラブに入らないといけません。そこでアレックは、思い存分本を読んでいい読書クラブを新たに立ち上げることにします。誰も入部してこないように、名付けて「負け組クラブ」。ところがそこにスポーツも読書も大好きなニーナが入ってくる。ケントはニーナが好きみたいで、色々介入してきます。そうこうするうちに、色んな子が入部してきて、アレックはどうすればいいのか……。
本の効能が様々に語られていて、本好き子どもにはたまらない一冊です。
たくさんの児童書が出てきて、最後にリストが載っているのですが、四十三冊が邦訳されています。それがすごい。
【絵本】
『空の王さま』(ニコラ・デイビス:文 ローラ・カーリン:絵 さくまゆみこ:訳 BL出版)
陽射しがまぶしいくらいの町、ローマから引っ越してきた少年。この町は石炭のにおいがする。
新しい町になじめない少年にとって、エバンズさんがくれたハトだけがなぐさめでした。名前は空の王さま。エバンズさんのすすめで伝書バトのレースに出場するけれど、空の王さまは一度も勝てない。石炭の粉を吸った肺がやられたエバンズさんはすっかり弱って寝付いたけれど、それでも空の王さまはすごいハトだと少年に言ってくれます。
少年のふるさとローマから放つ遠距離レースに出場する空の王さま。果たして帰ってこられるのか? 少年の心は心配と期待とであふれています。
戻ってきたハトを抱きしめて、少年は思います。「ここが自分の居場所なのかもしれない」と。
自分の心の落ち着きどころを見つけられない子どもが、どう現実と折り合いをつけ、一歩前に進んでいくかが、しんみりと、でもすこやかに描かれています。
『スラムのくらし その笑顔の向こう側1』(米倉史隆 新日本出版社)
「シリーズ知ってほしい! 世界の子どもたち」第一巻です。
ケニア、ナイロビ郊外のキコンバにあるスラムの様子を紹介した写真絵本です。道路を一つ隔てた場所はきれいな住宅街。キコンバではゴミが堆積し、清潔な水もなかなか手に入りません。
そんな中でも、子どもは明るく遊んでいます。そのたくましさはとても美しい。ですが、貧富の差に怒りを覚えるまでには、わずかでしょう。
『どうぶつたちが ねむるとき』(イジー・ドヴォジャーク:作 マリエ・シュトゥンプフォヴァー:絵 木村有子:訳 偕成社)
ペリカン、ラッコ、アザラシ、ブダイ。様々な生きものの睡眠についてと、眠る姿を描いた絵本です。
安心しきった寝姿がカワイイのはもちろんですが、どのようにして寝ているかは、案外知らない知識なので、うれしい。大人のアザラシが水中で三十分もねていられるなんて知らなかった。
『羽毛恐竜 恐竜から鳥への進化』(大島英太郎:作 真鍋真:監修 福音館書店)
鳥類が恐竜の子孫なのですが、その間をつなぐ羽毛恐竜について、描き、語った絵本です。
なんかもう、それだけで、ドキドキします。
『あめのひ』(サム・アッシャー:作・絵 吉上恭太:訳 徳間書店)
あめのひ。少年は外で遊びたい。でもおじいちゃんは、雨がやむまで待ちなさいって言う。窓から外を見て少年は、雨の中での遊びを色々想像します。
おじいちゃんは、マイペース。手紙を読んで、手紙を書いて。
雨が上がった。さあ、手紙を出しに行こう。
雨に濡れた世界で、少年とおじいちゃんはたっぷりと、想像の世界を遊びます。
雨の情景をこんなに明るく描けるなんて、素敵です。うん。雨も楽しいかも。
『いっしょに おいでよ』(ホリー・M・マギー:文 パスカル・メルートル:絵 なかがわちひろ:訳 あかつき)
テレビのニュースを見ていると、世界をどうなってしまうのだろうと女の子は怖くなってしまいます。「いっしょに おいで」。おとうさんは、彼女を連れて地下鉄に乗ります。それでもテレビは絶望的な世界を映します。「いっしょに おいで」。おかあさんが、色んな国の食べ物屋さんが並ぶ通りに連れて行ってくれます。世界は、人は、そんなに捨てた物じゃない。外に出て、世界を見て、信じて、生きること。
『2016年4月 熊本地震の現場から あのとき、そこに きみがいた』(やじまますみ:作 ポプラ社)
熊本在住のやじまが、震災当時の現場を、絵本の形で伝えてくれます。ボランティアの若者たちが実にいいですね。
『王さまになった羊飼い チベットの昔話』(松瀬七織:再話 イ・ヨンギョン:絵 福音館)
羊飼いの男の子は、お腹を空かせたウサギに自分の食べ物を分けてあげます。百日が過ぎ、ウサギは悪魔に変身させられた神様だとわかります。お礼に何か願い事一つ。羊飼いは動物の言葉がわかるように願います。
男の子はその能力のおかげで、次々に人を救っていき、最後には王子様も救い国の半分をもらい、良き王様になります。
イ・ヨンギョンの水彩画が、実に素朴に昔話を伝えます。
『しっぱいなんか こわくない!』(アンドレア・バイティー:作 ディヴィッド・ロバーツ:絵 かとうりつこ:訳 絵本塾出版)
エンジニアを目指すロージーは、様々ながらくたを集めて、みんなを喜ばせようと発明を繰り返しています。ところが、心ない大人はロージーの発明を馬鹿にしたように笑います。すっかり自信をなくしてしまうロージー。
そこにやってきた、おおおばさん。飛行場で働いていた彼女は、自分の経験を踏まえて、ロージーを励ましてくれます。
失敗はして当たり前、失敗していいんだと、ロージーに伝えます。
自己肯定をはぐくむ物語です。
『アニマルズ 生きもののおどろき120』(エマ・ドッズ:ぶん マーク・アスピナール:え 福岡伸一:やく ポプラ社)
そうそう、こうして、知らなかった色んな知識の断片が身についていく。役に立つかどうかなんて関係がありません。少しだけ好奇心がざわめけば。
『なくのかな』(内田麟太郎:作 大島妙子:絵 童心社)
繁華街で両親とはぐれた子どもは、色んな動物を思い浮かべ、こんなとき泣くのかなと想像します。鬼でも泣くよ、こんなとき。
泣きたいときは泣けばいいという、内田の包み込む視線がいいですね。
『みつばちさんと花のたね』(アリソン・ジェイ:作・絵 蜂飼耳:文 徳間書店)
『ちょっぴりおかしな どうぶつえん』に続いて、アリソン・ジェイによる、女の子とミツバチの絵だけのストーリーに蜂飼が文をつけています。
びしょぬれのミツバチは窓辺にやってきて、女の子に何かを訴えています。助けて欲しいのかな?
女の子はミツバチを家に入れ、おいしい砂糖水を飲ませ、ドライヤーで乾かしてあげます。そうして仲良くなった女の子とミツバチ。
なんともかわいい絵と物語展開。
*絵本カフェ
『こどもってね……』(ベアトリーチェ・アレマーニャ:作 みやがわえりこ:訳 きじとら出版)
子どもは大人から、「子どもだから」とか、「子どもらしい」とか、ひどいのになると「子どものくせに」とか言われたりします。そのたびに子どもは、自分が大人じゃないのはわかるけれど、じゃあ一体自分はなんなんだろう? と混乱します。
この絵本は、そんな子どもに寄り添って、子どもに向かって、子どもについて語っています。
「こどもってね、ちいさな ひと。でも、ちいさいのは すこしのあいだ」。「こどもってね、ずっと こどものままじゃないんだよ。いつか きっと おとなになる」。そう、子どもと大人はつながっている。
「こどもってね、へんてきなものが すきなんだ。あさごはんに たべる わたあめ」。うん、ちょっとへんかも。
「こどもってね、スポンジみたい。なんでも すいこむんだ」。そう、色んな事に興味を持つ。
「おとなになんか ならないって きめた子は こころのなかは ずっと こどものまんま」。子どもの心を覚えている大人もいるんだね。
「みんなとは すこし ちがう子も いる。ちっちゃい子 まんまるな子 しずかな子」。子どもといっても色々なんだよ。
そして、みんなやがておとなになる日がくるけど、「でも、いまは そんなこと かんがえなくったって いいんじゃない?」。子どもは子ども時代を楽しめばいい。
こんな風に伝えてもらうと、子どもの中に自己肯定感が膨らんでいく。
ここに描かれた、個性的な子どもの顔たち、顔たち。それは、「未来」を支える顔です。
『いつか、きっと』(ティエリ ルナン:文 オリヴィエ タレック:絵 平岡敦:訳 光村教育図書)
小さな島にいる一人の子どもが、世界を眺めながら考えています。
戦う兵士の軍服を明るい色に塗りかえよう。そして、銃の先は小鳥の止まり木か羊飼いの笛にしてしまおう。
投げなわで雲を集めて、砂漠に雨を降らせよう。
お金やパンを分け合い、貧困をなくそう。
権力をかさにきる人の目をひらかせよう。駄目なら追いはらってしまおう。
汚れた水をきれいにしよう。
木々の声に耳を傾けよう。
「愛している」と、いえるようになろう。「愛している」と、いわれたことがなくても……。
ここまで読んでも私たちは、何故この子どもが、世界のことをこんなに色々と考えてくれているのかはわかりません。けれど、子どもの考えは、多くの人の願いでもありますし、残念ながらまだ叶っていない願いです。そして、完全に叶うことはないのかもしれません。
しかし、大事なのは、絶望を住まわせることなく、希望だけにすがることもなく、願いの実現を目指して一歩でも進む意志でしょう。
もう一度世界を眺めた子どもは、ついに決心します。
この世に生まれてこようと。
そう、この子どもは、世界に参加するかを考えていた、まだ生まれていなかった子どもだったのです。
私たちが、「いつか、きっと」、未来に願いを叶えるための強い意志を持つには、彼らが必要です。
ようこそ、未来へ!
『はたらく』(長倉洋海:写真・文 絵本 アリス館)
収穫してきた野菜籠でしょうか、必死で抱えて運ぶ子ども。
水道などない土地で、雪の中、斜面を下りながら水くみに行く子ども。
夕方、放牧を終えた、家に帰る子ども。
重い荷物を背負い、「冬虫夏草」を家族で探しに行く子ども。
朝早く、コーヒーの実を摘んでいる子ども。
森に暮らし、バナナを収穫し持ち帰る子ども。
路上で親と一緒に物売りをする子ども。
戦争で壊れた家族の家を直している子ども。
ここに出てくる子どもたちは、家族が生活を維持するための手伝いの延長としてはたらいています。とはいえ、その手伝いがないと家族が立ちゆかないのも事実です。つまり、彼らは働かざるを得ないのです。
もっと勉学に時間を割けた方がいい。子どもはもっと遊べた方がいい。
様々な思いを持たれるでしょうけれど、彼らの表情が決して暗くなく、怒りに満ちているわけでも、うつろな眼差しでもないことにも注目してください。ここにある表情は、おそらく家族に必要とされていくことからくる、生きている実感や、誇りや充実感や自尊であり、もっと経済的に恵まれている家庭での、「もっと成績を上げろ」、「宿題はしたのか?」と親から言われたときの子どもの様子とは別のものでしょう。
いずれは大人になり、はたらき始める子どもたち。彼らが、人と共に生きるための知恵であり、行為でもある「はたらく」ことの喜びを、どのようにして知っていけばいいのか。この写真絵本は、それを考えさせてくれます。
『発明家になった女の子マッティ』(エミリー・アーノルド・マッカリー:朔 宮坂宏美:訳 光村教育図書)
十九世紀に活躍した発明家、マッティことマーガレット・E・ナイトの伝記です。
マッティは、亡くなった父親の工具箱を使って道具を作るのが大好き。兄たちのための凧やスキーを作ってあげていました。女の子が作ったなんて、兄の友人たちにはとても信じられませんでした。
一家は織物工場で働くことになり、マッティも学校から帰ると工場に出かけて、熱心に見学していました。十二歳から働き始めたマッティは、事故で工員が怪我をしたとき、織機が安全に動くようにするアイデアを考え、それは採用されます。
十八歳になった彼女は独り立ちし、紙袋工場で働き出します。当時の機械は封筒型の紙袋しか作れませんでした。そこでマッティは、平底の紙袋を作ることができる機械を設計します。しかし、その金型を作った工場の職員が彼女のアイデアを盗み、先に特許を取ってしまうのです。
裁判を起こすマッティ。女性に機械の複雑なしくみが理解できるわけがないと、相手の男は主張しますが、マッティは自身が描いた図面や研究ノートを裁判官に提出し、見事に勝つのです。そして、ある製造会社からその特許を売って欲しいと持ちかけられても断り、自分で事業をはじめます。
女性が女性であるというそれだけで、知性はなく、機械のこともわからないと思われてしまっていた時代に立ち向かった彼女の姿は、現代の少女たちにも勇気を与えることでしょう。
マッティが考案した平底のある紙袋を今も私たちは使っています。
『猫魔ヶ岳の妖怪 福島の伝説』(八百板洋子:再話 斉藤隆夫:絵 福音館書店)
福島県の伝説四編が収められています。
タイトルとなった「猫魔ヶ岳の妖怪」は、耶麻郡磐梯町、北塩原村にある猫魔ヶ岳に残る猫又伝説の一つです。殿様の奥方が妖怪にさらわれ、家来たちを差し向けるも誰も戻ってこなかった。そこで殿様は腕のいい猟師の若者に妖怪退治を依頼する。山に入って小屋を作った若者の元に小さな猫があらわれ、若者は飼ってかわいがるのですが、この猫は一体何者? 妖怪である悲しさと、それを退治しなければならない若者の悲しさがにじみ出ている話です。
「大杉とむすめ」は、若者たち誰もが恋する美しい娘おろすの悲恋物語。彼女は一人の若者に惹かれますが、どこの誰ともわからない。そこで若者のはかまのすそに糸を通した針を刺しておきます。あくる朝、その糸を辿ってみれば、若者はこの里に何百年も立っている大杉の化身でした。不安を感じた村人たちは、大杉を切り倒す。それを知ったおろすは病に伏してしまいます。大杉はお城の橋の材料に使われますが、夜な夜な悲しげな声がする。城主の命で、大杉をなだめにいったおろすは、橋の上で帰らぬ人となったのです。
伝説は、本当にあったかのように(実際にあったかは別として)語られてきたものですから、地域と強く結びついています。読むことで私たちは、その地域にほんの少しだけ近づくことができます。
他に伊達市山舟生の「天にのぼった若者」と福祉町松川の「おいなりさんの田んぼ」。どれもおもしろいですよ。
『あさがくるまえに』(ジョイス・シドマン:文 ベス・クロムス:絵 さくまゆみこ:訳 岩波書店)
この作品には派手な展開も、笑い転げてしまう出来事もありません。かわりに、大切な幸せとしか呼びようのない、穏やかな温もりが溢れています。
冬の夕方。犬の散歩を終え、母子が家に戻り、暖かい部屋で家族三人、夕食をとっています。
制服に着替えた母親は洗濯物を畳み終え、ボストンバッグを乗せたキャリーバッグを引き、バスに乗って仕事に出かけます。たどりついた空港のロビーから、同僚と一緒に雪が積もっていく様を眺めている彼女はパイロットのようです。
空港は白一色となり、トラクターは雪かきをしますが、フライトは中止になったようで、彼女は帰宅のために、仕事を終えたトラクターに乗せてもらいます。
一面、雪におおわれた街のパノラマ。その中に小さく描かれたトラクターが道路の雪をかきながら進んでいるのを発見できるでしょう。
家に戻り子どもを抱きしめる彼女。そして、ダイニングテーブルで、家族そろってののんびりとしたひととき。
次の日、橇遊びをし、ベーカリーでケーキを買い、リビングでお茶の時間を楽しむ家族。
文を担当したシドマンの最後の言葉は、「ゆったりした たのしいひとときが めぐってきますように」。
スクラッチボードで描かれたクロムスの絵をぜひじっくりとご覧になって下さい。どんな家族かがわかるように、注意深く繊細に画面の隅々まで、作り込まれているのがわかるでしょう。それは、さりげない日常がいかに愛おしいかを私たちに教えてくれます。
『マルコとパパ ダウン症のあるむすことぼくのスケッチ』(グスティ 宇野和美:訳 偕成社)
ダウン症の息子マルコが生まれてから、グスティがどのように考え、どのように一緒に生きているかを綴った一冊です。
グスティはマルコが生まれたときの気持ちをこう書いています。
「ときどき 子どもについても 絵とおなじことがおこる。できたものが イメージとちがうことが。絵なら やぶりすてられる。消して、もういちど かきなおしてもいい。」「だけど、子どもは…… ほんものの子どもは そうはいかない」「マルコのことは、そういうことだった。おもってたのとちがう子が うまれてきたんだ」。
なんてひどいことを考える親だろうと思う人がいるかもしれませんが、戸惑いを正直に自覚することが大事なのです。そこをきれい事で回避してしまうと、毎日の生活は続けていけません。グスティはここからマルコの親としての第一歩を始めるのです。
グスティも私も含めた多くの人が抱いている硬直化した価値観は、マルコがやってきたことで柔らかくなり、拡がりを得ます。それは、グスティ自身による実に表情豊かな絵とコラージュされた写真によって伝えられます。ページを繰っていくと、最初あった緊張感がしだいに解きほぐされていき、だんだん愉快になっていくのがわかるでしょう。
そこにあるのは、紛れもなく子育てのダイナミックな喜びです。
最後にグスティはこう書きます。「『うけいれる』とは、さしだされたものを、じぶんからよろこんでうけとることだ。」
その通りだと思います。
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