【児童文学評論】 No.258  2019.09.30

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「おとなりどうし~にほん、かんこく、絵本でこんにちは!」フェアのお知らせ。


2019年夏。日韓の状況が非常に厳しく、戦後最悪な関係であると連日報道されているある日、児童文学作家のひこ・田中さんから、「韓国絵本の特集コーナー作りましょうか。」とメールでお声掛けいただきました。このご時勢に?いや、だからこそ?ともあれ、韓国で読まれている絵本は、どのような作品なのだろう。韓国語になっている日本の絵本はたくさんあるだろうけれど、日本語になっている韓国の絵本は、それに比べると圧倒的に少ないのではないのでは?どんな作家さんがいるのか?すぐ隣の国で、絵本はどのような表現をしているのだろうか。韓国の絵本のこと、もっと知りたい。まず、この思いが生まれてきました。


 フェアのきっかけになったもうひとつは、絵本作家の吉田尚令さんのtwitterのつぶやきでした。ご自身の作品の韓国語版が出た際、読者のレビューをご覧になられたなかで、「この絵本には残念な点があります。この絵本が日本の作品だということです。」と書かれていたと。韓国の読者がこのように絵本を捉えていることに、ただショックでした。


 子どもたちは、あの国の絵本は読みたくない。その国の絵本は面白くない。などは考えず、好きな絵本を手にとります。地球の同じ空の下、たくさんの子どもたちが読んでいる絵本。そこには、国境や人種の違いはありません。「国境や人種なんて関係なく、みんななかよくしたいね。」という吉田さんの言葉が、このフェアの大きな指針になりました。


 お隣の国、韓国の絵本フェアはそんなところから始まりました。10月から当店で開催予定のフェアでは、韓国の絵本のなかで、日本語になっているものを展開。さらに、日本の絵本で韓国語訳されている、ハングルの絵本を、原書である日本の絵本とあわせてご紹介いたします。また、「仲良し、楽しい」をテーマに、みんななかよくしたいね、という気持ちになるような絵本を集めてみました。


 韓国のおすすめ絵本のセレクトは『ヒキガエルがいく』を訳された申明浩さんと広松由希子さん。

また、申さんには韓国の絵本事情もお願いしました。

韓国の絵本で、未訳だけれど、日本でも是非紹介して欲しい絵本はどんな絵本があるか。韓国のなかで、人気のある絵本作家がどんな作家さんだろう?などです。


当店でのフェアをきっかけに、他の店舗や書店さんでも、韓国の絵本フェアが、どんどん広がっていけばいいな。絵本を通じて、ドアを開けるように、風通しがよい世の中になれば、もっといいな。そんな思いを込めて、このフェアの開催をいたします。(文:森口泉)


<開催日時> 2019年 10月1日(火)~2019年11月30日(土)

      平日09:30~22:00 土日祝 09:00~22:00

<場所>  MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店 7階 児童書フェアコーナー 

<お問い合わせ> 06(6292)7383児童書担当 森口まで。発起人/ひこ・田中 絵/吉田尚令 協力/広松由希子・申明浩

*なお、これは、MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店のためのフェアではありません。やってくださる書店様がございましたら、よろしくお願いします。こちらの資料は提供いたします。

*20ページのフリーペーパーもおいてございます。グックリストに使えますよ。

 

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ひこ・田中講演会:日時10月5日(土) 10:00~12:00 

場所:安来市学習訓練センター2階:入場無料。100名。

申し込みは、TEL:0854-22-2574 FAX:0854-22-2598

Mail:ys.tosho@soleil.ocn.ne.jp

安来市立図書館 安来市子ども読書推進ボランティアネット事務局 担当 川井野々芳 さんまで。

 

あと、京都新聞「絵本からの招待状」は50回で終わりましたが、10月から毎週水曜日朝刊にて、「子どもの本から世界を見れば」がスタート。絵本も児童書も紹介したいので、わがままを編集部に言いました。一回目 10月2日は最初なので王道、『若草物語』(ルイザ・メイ・オルコット:作 矢川澄子:訳 福音館文庫)です。

 今日音以外の方は図書館の地方紙コーナーで呼んでもらえれば、とても嬉しいです!

 

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スペイン語圏の子どもの本から(11)


 10年ほど前に私はスペイン語にかかわる知人や子どもの本にかかわる知人と共に、「日本ラテンアメリカ子どもと本の会」という小さなグループをつくりました。1990年代に入管法が変わって、ラテンアメリカにルーツを持つ日系人が労働力として日本に来るようになりましたが、その子どもたちが、学習やコミュニケーションにおいて、学校や家庭でさまざまな問題をかかえているのを知り、本を通じてなにかできないだろうかと考えたのです。そこで、私たちが最初にしたのが、ラテンアメリカのことを知る手がかりとなる日本の子どもの本の選書です。

 日系人の親と子、そして、教室で机を並べるそのまわりの子どもや大人たちが、それらの本を一緒に手に取って、ラテンアメリカのことを知ったり、親しみを覚えたり、話をしたりしてくれるといいなあと思いました。子どもの本には、家族や友だち、子どもの気持ちや感情、文化や風景など、人々のくらしぶりがたくさん描かれています。そういうことは、マスメディアではなかなかとりあげられません。それに、本なら、自分のペースで繰り返し楽しめます。

 この10月11月に、MARUZEN &ジュンク堂書店梅田店で「おとなりどうし〜にほん、かんこく 絵本でこんにちは」というフェアが始まるというのを知り、上記の活動を思い出し、人と人をつなぐ本の力を改めて思いました。私たちが分断されないように、絵本が心の距離をちぢめる一助となるといいなあと心から思います。


子どもの本でラテンアメリカめぐり(1)メキシコ

 これからしばらくは、ラテンアメリカが描かれている本をとりあげ、ラテンアメリカ各国をめぐってみたいと思います。


『うさぎのみみはなぜながい』(北川民次ぶんとえ、福音館書店、1962)

 長く住んだり、旅行で訪れたりして、ラテンアメリカに魅せられて子どもむけの本をかいた作家や画家は数多くいます。この絵本をかいた北川民次もその一人で、1923年から1936年までメキシコに滞在し、インディヘナ(北川の著作では「インディアン」と書いてありますが、先住民のインディヘナのことでしょう)の子どもたちに絵を教えた画家です。

 小さな体をもっと大きくしてくれるように、ウサギが神様にお願いすると、神様は、虎とワニと猿を自分で殺して、その皮を持ってきたら願いをかなえてやろうと言います。そんなことができるわけないと、がっかりするウサギですが、結局は悪知恵を働かせて3頭の獣をまんまとしとめ、神様のもとに皮を運びます。すると神様は、小さいが3頭の獣をやっつけた利口なウサギを大きくしたら、森じゅうの獣を殺してしまうだろう、「せめて、たったひとところだけでも大きくしてやろう」と言って、ウサギの両耳をつかんで海にほうりなげたので、ウサギは耳が長くなったというお話です。

 ウサギが3頭の獣をだまくらかして殺し、皮をはぐくだりは、えっ、こんなことするの?と、だれもがびっくりすることでしょう。藍と黄色の2色と、藍1色という、限られた色づかいながら、動物たちの絵は迫力満点で、ときどき表情にどきりとさせられます。どこかで見たような絵は一つとしてありません。あっけらかんとした残酷さは嫌味がなく、物語の強さとなって読者をひきつけます。

 小さいけれどもずる賢いウサギは、アフリカの昔話によく登場するそうですが、ラテンアメリカでも、コヨーテやほかの動物をだますウサギがよく出てくるのは興味深いところです。最後に皮をはがされる因幡の白兎と、どこまでもずる賢くしたたかなメキシコのウサギを比べてみてもおもしろそうです。

 2008年9月27日国際子ども図書館でのご講演で、松居直さんは「北川民次先生は、私が瀬戸へお願いに行ったら「もう描かないのだよ、金持ちになったからね。小遣い稼ぎに描いたけど、金ができたからこのごろはもう描かない。昔の自分が描いたのが残っているから、あれを絵本にしてくれたらよいのだけどね」とおっしゃって、それが『うさぎのみみはなぜながい』なのです。」と語っています。

 中表紙に「テウアンテペックの昔ばなし」とあります。テウアンテペック(テワンテペク)は、メキシコ南部のオアハカ州の地方です。アカデミー賞で話題になった1970年代のメキシコ市が舞台の映画『ROMA /ローマ』の主人公のお手伝いさんはミシュテカ語を話しましたが、メキシコには多数のインディヘナがいます。見返しの絵は、インディヘナの芸術とかかわりがありそうですが具体的な由来はわからず、今度メキシコ人にたずねてみたいところ。

 数少ないメキシコの昔話絵本のひとつ、読み聞かせでもお楽しみください。

 このところ、ちょっと停滞している「日本ラテンアメリカ子どもと本の会」の活動も、少しずつ続けていきたいと思っています。ご興味がある方はhttp://clilaj.blogspot.jpをのぞいてみてください。(宇野和美)

 

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西村醇子の新・気まぐれ図書室(40)――わたしにできること 

 個人的なことで恐縮だが、再開後の図書室が40回目となった。もともと、何回まで続けると考えたことはなかったが、ここまで来たら50回をめざすことにしよう。ただし、気まぐれに(!)開室したりしなかったりは、これからも変わらない。

 今年2019年の夏はイギリスへ行った。目的は、ダイアナ・ウィン・ジョーンズコンファレンスに参加すること。3回目となる今年は、最初と同じくブリストルで行われた。なお今、書こうとしているのは、コンファレンスのことというより、ゲスト講演者の1人、女性作家のロビン・スティーヴンズのことである。(ちなみにもう1人のゲストはダイアナの妹だった。)

 コンファレンスに参加するまでは、ファンタジーを書いていないミステリ作家のロビンがなぜゲストなのか、と思っていたが、彼女の講演を聞いて疑問が解けた。ロビンはアメリカ生まれだが、親の仕事の関係で転居を繰り返し、長く同年代の子どもがいない環境で子ども時代を送ったという。そこでごく自然に本を友だちとするようになり、その過程でジョーンズ作品にも出会って熱烈なファンとなったというのだ。

 犯罪学の修士号をもつロビンは、2014年に1冊目のミステリを出し、それが好評で、いまでは10冊もある(累計15万部を超えているとか)人気シリーズの生みの親である。

 じつは日本でも原書房から一般のミステリ文庫でシリーズの最初の3冊が訳されている。それが「英国少女探偵の事件簿」シリーズで、2017年4月に出たのが『お嬢さま学校にはふさわしくない死体』、その後2017年9月『貴族屋敷の嘘つきなお茶会』、2018年3月『オリエント急行はお嬢さまの出番』まで。物語の設定は1930年代で、13歳の少女探偵のうち、1人は香港出身のヘイゼル・ウォン、もう1人は英国貴族のデイジー・ウェルズ。この二人が探偵倶楽部をつくり、遭遇した事件についてヘイゼルが記録係となる児童書である。

 1冊目『お嬢さま学校にはふさわしくない死体』は、ヘイゼルが寄宿学校の室内体育館で死体を発見し、同室のデイジーと複数の殺人事件を解決するまで。事件発覚から解決に至るまで、情報収集や分析等、それなりに手順を踏んでいる正統派のミステリである。

 このシリーズのユニークな点は、香港出身の中国人ヘイゼルが英国社会と関わることだろう。ヘイゼルはイギリス文化が大好きな父親の影響を受けて育ち、自分も喜んで英国の女子寄宿学校に来た。ところが現実は、本で読んだ寄宿学校の生活とはだいぶ違っていた。また学業に優れている東洋人の彼女にたいする周囲の眼は必ずしも好意的なものではなかった。そのなかで金髪碧眼の美少女デイジーと意気投合するようになったのは、デイジーが自分の役を演じていることを見抜いたから。だからシリーズが英国文化礼賛一辺倒になることはない。またヘイゼルとデイジーの親は(当然のことだと思うが)「お嬢さまにふさわしくない」探偵ごっこ、つまり犯罪事件にかかわることを禁止するので、二人は監視の目をかいくぐって行動しなければならない。このミステリシリーズには、過去の作家や作品へのオマージュがみられることを書き添えておこう。900円台の価格帯はティーンにも手が出しやすいはずだが、こうしたコージーブックス文庫に気づけば、という条件つきだ。

 これにたいし、ハードカバーだということが、本来の読者対象ともいうべきヤングアダルトにとってハードルになるかもしれないと思ったのが、『世界のはての少年』(ジェラルディン・マコックラン、杉田七重訳、東京創元社、2019年9月)だ。マコックランといえば『不思議を売る男』をはじめ、いくつもの作品で「児童文学の」賞を受賞しているイギリスの作家なのだが、価格が2800円(!)では、簡単には手が出せないかもしれない。

 この本の表紙(装画・末山りん)には少年が無数の鳥たちに囲まれて立っているところが描かれている。見分けられたのはパフィン(ツノメドリ)とカモメだったが、巻末には「セント・キルダの鳥たち」として、9種類の鳥の名前があがっている。そのなかには人間による乱獲で絶滅したという鳥もいる。

 舞台はスコットランドの沖に浮かぶセント・キルダ諸島。唯一人が住めるヒルタ島では、毎年、鳥肉と油と羽根を獲るために一団の男が離れ岩に船で渡り、3週間ほどを過ごす。木も育たないような厳しい風土での彼らの体験は過酷で、「冒険」という言葉が上滑りしそうなほど、息をつめて読むことになる。

 物語は9人の少年のなかで年長のクイリアムを視点人物とし、彼がカツオドリの見張りを倒すことで、ほかの鳥を獲りやすくする「カツオドリの王」になったこと、その後一同が、上や中間、下の基地(といっても、岩のなかのちょっとした空間)を行き来しながら、猟を続けていく「日常」が描かれていく。ところが、そろそろ迎えの船が来るはずの時期に、迎えの船が現れない。情報を得る手段がまったくないため、彼らは何か「予兆」を見逃したのだろうか、何かが島で起きたのだろうかと、疑心暗鬼となる。

 クイリアムは年少の少年たちに「戦士の岩」と呼ばれるいきさつや、ほかの伝説を語り、少しでも落ち着かせようとする。一方、3人のおとなのうち、村では墓掘りでしかなかったコル・ケインは、いつしか牧師を自任するようになり、影響力を行使し始める。彼に逆らったクイリアムは中間基地から追放される。でもほかの子どもたちは、下の基地までこっそり会いに来ては、「音楽の番人」とか「思い出の番人」といった呼び名をつけてもらう。それでも状況はどんどん悪い方に変わっていく……。

 このあたりまで読んだとき、これは孤島で人間の獣性があらわになる様を描いた、ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』を、マコックランが書き直した話なのかと思った。確かに本作品でも状況の悪化によって精神のバランスを崩し、狂気に走ったり、自殺願望にとりつかれたりする人物が描かれる。とはいえ著者あとがきによると、マコックランはスコットランドで実際に起きた事を素材としたうえで、フィクション性や「語り」に価値を見出し、物語の骨格にも利用しているので、単純に書き直しているとはいえない。 

 春になり、鳥が産卵のために離れ岩に来るようになり、一同は餓死をまぬかれる。また思いがけないときに小さな船が迎えにきたため、救出される。ヒルタ島には本土に住む所有者(オーナー)がいて、ヒルタ島には足を運ぶことなく、いつもその執事が賃料をとりたてに来ていた。今回もそのために来た執事は、離れ岩に置き去りにされている一団がいると聞き、救出にきたのだった。ヒルタ島に戻った一同は、住人の大部分が亡くなっていたことを知る。島に届いた死者の荷物から天然痘が広がり、免疫のない住人たち大部分が亡くなったのだ。

 住民の誕生や死亡の記録を個別にとる習慣のなかったヒルタ島では「94人が死亡」と記されただけだった。そして執事は、ほかの島から「新たに良質な労働者を集めて、この島に送り出す」と約束した。これで労働者不足に悩むことはないというのが、その言い分である。しかし、クイリアムはそれを聞いて、逝ったのは「ぼくら以外のすべての人だ。自分の全世界。クイリアムの世界が終わった」(291頁)と思う。

 この言葉は本のタイトルにもなっている。だから物語はこれで終わったと思うのが自然だろう。しかし次の22章は、「スコットランドの西の諸島では──おそらくほかの地域でも──物語の語り手は、最初にその話をしてくれた人間に敬意を払うことになっている。よってこれから語るのは、ヒルタのクイリアム・マッキノンからきいた話だと、最初に断っておく。」という文章で始まり、「わたし」が短い後日談を語っている。この「わたし」は物語に無関係な作家などではなく、じつは物語の登場人物の1人でもあった。

 つぎにあるのは「著者あとがき」。これを読むと、作者のマコックランが歴史に埋もれていたヒルタ島で起きた1727年の出来事を、想像力でよみがえらせ、かつ改変していたことがわかる。物語を紡ぐ作者の力量を思い知らされる瞬間であった。ちなみに本作はカーネギー賞を受賞している。

 そういえば、あべ弘士が絵を描いている絵本『うみどりの島』(寺沢孝毅文、偕成社、2019年4月)は、日本の北にある島とそこに来る海鳥を扱ったものだった。印象に残っていたのは、表見返しが8種類の海鳥のカタログ(と島の場所を示す地図)になっていたからだ。『世界のはての少年』と並べてみる。同種と思われる鳥もあれば、まったく違う鳥もある。そう、生息地が違う以上、単に海鳥という括り方をしてはいけないのだった。

* *

 村上しいこ作『夏に泳ぐ緑のクジラ』(小学館、2019年7月)は四国のある島を舞台にした物語。ここでも島へのアクセスは船(フェリー)に限られていて、運航しないと島は閉じられた空間となる。島には中学が1つあるだけなので、高校に進学する者は島を離れる。中学3年生の京(みやこ)はこの夏、母と島にきた。島に住む祖母やおじ、いとこたちとは前にも会っているが、今回の里帰りで会うと、みな少しずつ様子が変わっていた。なかでも幼馴染の家に不幸があったことが、ほかにも響いているらしい。いっぽう、京の母は精神的に不安定だし、ネット取引で借金を抱えた父とは離婚寸前。1人娘の京は、島に置き去りにされるかもしれない。不安と孤独を抱える京の前に現れたのは、生きものとも妖精ともつかない不思議な「つちんこ」。おとなが信用できないと盛んに言いたてる。京にも、過去にさかのぼる人間関係の行き違いが今なお影を落としているとわかってくる。

 大人たちの所業は昔も今も子ども世代に我慢を強いている。でも子どもはそれをどうにか乗り越えなければならない。そんなことを描いている物語だが、最後になって明かされる「つちんこ」の正体――戦争のときにおとなに裏切られた子どもの亡霊らしいーーは、私にはあまり釈然とするものでなかった。

 同じく中学3年生の夏を描いている伊藤たかみの『ぼくらのセイキマツ』(理論社、 2019年4月)の場合。ボクとヒロ、保健室登校常連のナナコの3人は文芸部のメンバー。下級生が入らなかったために、もうじき廃部になることが決まっている。ときは1998年。来夏には世界が終わるというノストラダムスの大予言には少なからず心を動かされる。でも間近には受験と将来への道の選択が待ち構えている。海から遠く離れた場所で暮らす3人は、青春の思い出作りに「海」に行こうと思い定める。セイキマツがキーワードになっていた年の夏の日々だが、中学から高校を迎える時期の日常という普遍性もある。  

 笹原留似子(るいこ)の『怪談研究クラブ』(金の星社、2019年8月)もまた、夏向きの作品といえるかもしれない。

 小学4年生のるい子は、小さいときから不思議なものが見えていたが、それが普通だと思っていた。たとえばるい子の家には天狗じいさんがいて、雨をもたらす竜をあやつれる。

同じように不思議なものがみえるクラスメート2人と3人でクラブをつくり、怖い事象について調べることにした。最初のテーマは人魂。3人はいろいろな人に話を聞きながら、人魂について、いろいろな種類と異なる意味があることを教わっていく。

 作者は怪異現象を興味本位に捉えるのではなく、その根底に古来からの習慣やものの考え方が関わっていることを押さえ、エピソードを重ねている。宗教面でも実際の仕事面でも、長く命とかかわってきた人だそうで、実体験をもとにした「小説」になっている。

 世の中にはほかにも怪異と関わる人がいる。中村まさみの「怪談5分間の恐怖」シリーズ(金の星社)もまた、実話をもとにした怪談。すでに15冊も出ているが、戦争がもたらした多くの死者の声をとりあげる狙いもあるようだ。ただ、笹原と異なるのは「5分間」で読めるように、どれもが短いエピソードに整えられていること。バラエティに富んでいる反面、やや物足りなさもある。他方、笹原作品はクラブ活動という設定なので、同じメンバーが継続しておこなうスタイル(あれ、続編は出ないのかな)。読み手がどちらを選ぶかは、好みによるだろう。

 ジュディス・ラッセル作『お屋敷の謎』(日当陽子訳、評論社、2019年8月)は、昨年12月(新・気まぐれ図書室36号)でとりあげた『海辺の町の怪事件』(ステラ・モンゴメリーの冒険1)の2作目。今回は、かつて母親が暮らしていたという一族の屋敷にステラが送られ、そこで(父親が海外にいる)いとこのストライドフォースやホーテンスと、家庭教師について勉強する間のできごとを描く。ステラは自分に姉妹がいたらしいことを一枚の古い写真から気づくが、おとなたちは口を閉ざして、何も教えてくれない。

 物語はヴィクトリア朝の文化に強く依拠している。祖先の収集癖は、環境への配慮などまったくなく、金にあかせた傲岸なもの。屋敷には祖父が集めた危険な動植物や標本などが残っていた。だから屋敷に人がはいり、暖房が使われると、冬眠(?)していた怪物が目覚めて、屋敷に来た人を脅かす。1巻同様、はらはらする物語になっているのは、悪者(今回は旅回りのフリント氏――歯をぬき、見世物興行するいかにも怪しげな人物)と、敵味方のわからない菓子屋の老女、いっしょに冒険にまきこまれるジェム少年(途中から行方不明になって母親を心配させる)などの要因が大きい。

  * * 

 少し気分を変えて、散歩でもしようか。

 ロビン・ショーさく『まほうのさんぽみち』(せなあいこ やく、評論社、2019年3月)は、父と子の日常を「散歩」から切りとったもの。彼らが歩くのはイギリスの町のようだが、歩きながら女の子が空想する内容には普遍性がある。水たまりからは(ジョン・バーニンガムの『いつもちこくの男の子』で男の子が出会ったみたいに)ワニが出てくるかもしれないし、草むらの向こうのお城のようなおおきなうちでは眠り姫が王子を、とちゅうの水槽では宝物が見つけられるのを、それぞれ待っているかもしれない。けれども女の子は父親とのさんぽを続ける。というのは、道の最後に散歩のいちばんのおたのしみがあるから。

 おたのしみが何かは、ここでは明かさないが、読み手を納得させるものになっている。

 これにたいして小林豊の『えほん東京』(ポプラ社、2019年3月)は、空想で見える風景を扱ってはいても、それなりの知識をもつガイド役が必要となる特別な散歩だ。

 桜の季節。おじいちゃんと散歩に出た孫の男の子は、なんとなく遠くへ行きたくなる。海なんかいいな。すると、おじいちゃんは、海なら目の前にあるという。2人で見慣れたお稲荷さんをくぐると…… 海の匂いがして、知らない景色が広がっている。「ここは品川の宿。東海道の宿場町だ」と、おじいちゃん。2人はミニ・タイムスリップをしたのだ。愛宕山をのぼれば、江戸湾も富士山もみえる。

 夏。ふたりは佃島から舟にのり、おとなりの国からの通信使の行列をみたり、両国橋のあたりで花火見物をしたり。秋には、ふたりは大きくなった町が江戸から東京へと名前を変え、戦争で破壊された様をみる。おじいちゃんが生まれ育った浅草の町で、自分の親を見つけ、子どもにかえって抱き着く一幕もある。

 2人の四季おりおりの散歩を描いたページが終わると、折りこみページがあり、旅をしたルートや、それぞれの旅に関する補足情報が手際よく収められている。力業というか簡単にはできない散歩の絵本だと思った。

 つぎは森山京の『おじいさんは川へ おばあさんは山へ』(ささめやゆき絵、理論社2019年7月)。パスティーシュものというか、よく知られた昔話の出だしを利用しつつ、読者の固定観念を打ち破っていく。62頁もあるし文字の量が多いから「絵本」というより、絵物語というべきかもしれない。

 おにぎり2個と、卵焼き2個というシンプルなお弁当をもって、川へ魚釣りにでかけたおじいさんと、山へキノコ採りにでかけたおばあさん。それぞれが熟知している場所なのに、きょうに限ってどちらも収穫がない。そこで、おじいさんもおばあさんも、少しだけ早めにお弁当を半分だけ食べ、食休みをしていると…… 

 おじいさんは、助けたカメに乗せられて空へ。おばあさんは天女のころもを借りてやはり空へ浮かぶ。ところがおばあさんが下へおりるために衣を手放すと、地面の穴に落下し、ネズミの嫁入りの「嫁」役を押しつけられる。おばあさんが困っていると、かつての飼い猫シロが現れて、ネズミを追い払ってくれる。

 おじいさんとおばあさんの経験は夢なのかどうか、定かでない。二人のエピソードを対称形にしているようで、読み手の予測を裏切る変化があって、波乱にとんだ一日をユーモラスに描き出している。あらためて、素敵な物語をかいてくれた森山京とささめやゆきに脱帽だ。

 マット・デ・ラ・ペーニャ作 クリスチャン・ロビンソン絵『カルメラのねがい』(石津ちひろ訳 鈴木出版2019年8月)。『おばあちゃんとバスにのって』でニューベリー賞を受賞したコンビの第2弾ときけば、それだけで期待が高まるが、期待にたがわない作品だった。

 主人公カルメラの誕生日の一日を描くこの絵本は、コラージュを利用したカクカクとした輪郭線を多用し、途中3か所に、カルメラの空想を切り絵で表現したページを混ぜている。切り絵は眺めていると3次元に見えてくる(立体感をもつ)のが不思議だ。

 切り絵のひとつめは <おやつマシン>、誰もが空想したくなる普遍的なものといえる。ふたつ目は多忙な母親が「すてきなホテルでゆっくりやすんでいるようす」とあり、母にたいするカルメラの感謝の気持ちがうかがえる。そして三つ目。「ようやく このくにに もどってくることのできた おとうさんが」という一文にはっとして、もう一度最初のほうの、誕生日ケーキの場面をみると、そこには母と兄、カルメラ(と犬)がいるだけで、父親は登場していない。母が多忙なことも、父の不在を埋めるため働いているからだと、改めてわかってくる。

 空想するとか、タンポポの綿毛に願いを寄せるというごくありふれた日常を描いているようにみえた話だが、じつはそうではなかった。自由に生きられない環境があることを踏まえているのだ。蛇足だが、表紙袖の作者、画家、翻訳者紹介欄でもタンポポと綿毛がうまく使われているのが、いいね!

 最後に『コリンのお店びらき』(ひこ・田中文、山西ゲンイチ絵、BL出版、2019年8月)を取り上げる。日本の物語なのに、コリンという名前なのかと、最初は首をかしげたが、国籍や文化にしばられない普遍性を象徴する名前として選んだのかもしれない。小学生になって、自分の部屋をもらったコリン。もう、だっこされて喜ぶような子どもじゃないぞ。

 両親がフリーマーケットを開くときいて、コリンもいっしょにやりたいという。彼はこれを機会にいらないものを「売る」気でいる。親は顔を見合わせる。ひとつはお金をちゃんと扱えるかという懸念、もうひとつは、自分たち親にとっては思い出の品が処分されるかもしれないという心配。それでもコリンが品選びをするのを止めはしない。

 マーケットが始まる。同じクラスのテンタが、妹にとおもちゃを欲しがるが、お金はもっていない。テンたにカブトムシのもけいと交換してくれといわれ、コリンはOKする。知らない男の子は、アヒルのおもちゃを選ぶ。アヒルのコレクターなのだそうだ。

 コリンは、マーケットで「売れた」ものを思い浮かべてみる。小さなころのものがなくなると、自分がちょっと大きくなった気がした。ところが父に、コリンのイスがほしいといわれて、困る。「すわれないから、もう いらないものだよ」というコリンにたいし、父親は自分にはいるものなのだと主張する。コリンは、今売ろうとしているものが、じつはかつて両親に買ってもらったものだと気づく。だが親の店には交換してほしい品物がない。困ったコリンが最後に選んだ解決法は、「もの」ではなかった。

 フリーマーケットに「不要となったもの」を出すことを介して、人と人のつながりが生まれることや、子どもと大人では成長にたいする感じ方が異なることを気づかせてもらえる絵本になっている。本日はここまで。 

(2019年9月)


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◆ぼちぼち便り◆ *作品の結末まで書かれています。

 

今回の読書会は『地図を広げて』(岩瀬成子/著 偕成社 2018年7月)を取り上げました。

 

中学1年生の鈴は父とふたり暮らしでしたが、父と離婚していた母が急死したため、4年ぶりに4歳年下の弟圭と3人家族になります。鈴は圭が毎週のようにおばあちゃんの家に行きたがることや、市街地図を買ってもらって毎日、帰宅後に自転車ででかけることに不安を感じます。そして、圭の後をついて行ったり、祖母の家に一緒に行ったりします。鈴はそれによって、圭や母との記憶を少しずつ取り戻すと同時に、母と圭と離れて過ごした空白の4年間も自覚し、自分と母の関係について思いをめぐらしたり、圭の孤独や不安を想像したりします。作品には、鈴の学校生活も描かれており、唯一の友人である月田と学校生活の息苦しさを共有したり、文芸部で白雪姫のパロディを誰の視点から書こうかと悩んだりもします(*1)。

 

全体的にはとても好評で、傷ついた子どもの心を描くという岩瀬さんのこれまでの作品の延長上の新しい境地だと思った。これまでは、子どもの気持ちがストレートに描かれていてそのひりひりした感じが印象に残ったが、この作品では子どもの気持ちが自然体で素直に描かれているように思った。文学的な作品で満足度が高かった。読みやすかった、などの感想が挙げられました。

 

作品は、鈴の視点で貫かれています。そのことによって、鈴の周りの人の事情や気持ちについて、著者がたとえ知っていても敢えて書かないという手法が興味深かったという意見がありました。その描き方によって、自分の中の感情が引き出されると感じた人、鈴の寂しさを感じ続けながら読み、ずっと音楽が流れている感じがしたという人がいました。また、鈴が自分の思考をすぐに言葉にできないもどかしさが繰り返し書かれていることに共感したという人もいました。

 

そして、以下のようなことを語り合いました。

 

鈴は、母との別れを二度体験します。一度目は両親が離婚したときで、二度目は母が死んだ時です。離婚の時、母は弟だけを連れて家を出たので、いくらその後、母が謝罪をしても、鈴にとっては、母親に置いていかれた、捨てられたという気持ちがあったと思われます。ですから、回想で語られるように、鈴は、母と弟のことを自分の記憶から消そうとしていました。ところが、母が死に、弟が同居することになって、二人のことを思い出さずにはいられなくなります。鈴にとって苛酷な状況であると言えます。この作品は、ある意味で、そんな鈴が、母を探す作品だということができます。鈴は、自転車に乗って町を巡り、弟圭が母と暮らした場所を訪ね、最後に二人で四人で住んでいたアパートに行ってみます。そして、祖母や友人などから鈴の知らなかった母の一面を聞きます。こうして母を一人の女性として見始めることができるようになって「お母さんと会うことは二度とできないけれど、お母さんはわたしの体のあちこちにひそんでいて、わたしといっしょに生きつづけるんだと思う。」(p.225)と考えることができるようになります。

 

この作品はまた、圭を入れた三人家族が少しずつ形成されていく過程を描いた物語ということもできます。圭が鈴の家に初めて来るとき、鈴は「ふつう」を演じようとして落ち着きません。ここはとてもユーモラスなところですが、「演じる」のではなく、お互いの存在を自然に感じられるようになることが家族になっていく過程であるとすれば、結末で二人が月を見ながら冗談を言いあって家に入る様子はとても自然で、ほっとする結末になっています。そして、読者は作品を通して「ふつう」などないことを知るのです。この結末を迎えるまでに、鈴は、自分のテリトリーに入ってきた圭を受け入れるのみでなく、圭のテリトリーであった福山に行き、それから二人で過去のテリトリーであった4人で暮らしたアパートを訪ねています。そのほかにも、鈴と圭が「きょうだい」になる過程において、いろいろと象徴的な会話や出来事がありますが、鈴が、町を流れる川の堰をどう渡るかという点にも変化が見られます。最初は自転車を押して、次に、自転車に乗って一人で渡り、最後には圭と一緒に渡ります。一緒に何かをするという身体感覚が説明的な言葉でなく、つながりを感じさせる点がこの作品の魅力の一つです。

 

鈴はまた、文芸部に入って、「白雪姫」を父親の視点から描くことにしたり、白けムードで群れることが嫌いで、夜を怖がっている月田という友だちができたりすることで、自分自身を客観視しています。月田が鈴の家に遊びに来て料理を作ってくれる場面に鈴の子どもらしさが垣間見えたという感想もありました。

 

そして、鈴の視点で貫かれながら、登場人物の会話や行動からそれぞれの人物像が見えてきます。まず、弟の圭も、鈴と同じで、家族を2度失っています。圭はとてもまじめで、大人しく、けなげに見えます。しかし、一人で自転車で出かけていく意志の強さも見せ、携帯電話にあった母の写真を鈴に見せた時に「わかったでしょ。ぼくとお母さんはいっしょだったんだよ」(P.192)というように、悲しみを隠していることもわかります。圭が風を切って自転車に乗る様子が強く印象に残ります。圭は、自転車に乗って幼少の記憶をたどり、訪ねた軌跡を地図に赤い線で描いていきます。同じようなことをしていたという人もおり、思い出を見つけ、現実と過去をつなげるという行為であり、過去をなぞることで母との別れを納得する行為であるという意見が出されました。

 

大人も一人の人間として描かれている点がこの作品の魅力ですが、なぜ、両親が離婚をしたんだろうという意見も多く出されました。この作品から、両親ともどちらかと言えば孤独を愛する人たちで、特に母親は人との関わりに生きづらさを抱えながら生きていたことがわかります。推測の域を出ませんが、母にとって誰かとともに生きること自体が難しかったのではないかと思いました。母は野良猫を愛し、えさを与えます。それは、アウトサイダーである自分を重ねていたのかもしれません。

 

父が孤独を愛する様子は、例えば、4人家族の時はよく一人で川へ行っていた、言葉で表現することが苦手で、鈴は、車の中で父が聞く音楽で父の気分をうかがっている様子などから読み取ることができます。その父自身も作品中で、変化をしています。

 

鈴と圭にとっての救いは、父の友人の巻子さんと母の友人の野元さんです。どちらも子どもがおらず、子どもと対等な立場で関わっています。特に巻子さんは、芸術を愛する(絵画教室を開いている)自由人で、すばらしいタイミングで鈴と圭の前に現れます。そして、単純かつおいしそうな食事をふるまってくれます。具体的な食事場面が何度も描かれているのもこの作品の特徴です。生きることに直結する食べる場面が積み重ねられることで、読者は、日常の繰返しの中にしか、抱えている問題は解決しないということを感じさせられます。

 

この作品から「家族とは何か」「人と人との距離のありよう」について考えたという人が多くいました。家族は一緒にいることによって家族になっていく。登場人物が他の人との間に空間を持っているので、相手のことも受け入れたり、思いやったりすることができる。とりたてて事件も山もありませんが、深く読めば読むほど、鈴の心の世界に入り込み、鈴をはじめとする登場人物の微妙な心の様子や変化を感じ取ることができます。「地図を広げて」というタイトルが魅力的で、誰にとっても世界は広がっている、人と人とは時間と空間で距離を取りながらもつながっているということが感じさせられる作品だと思いました。

 

父が川にこだわり、母がのら猫、圭が地図にこだわったとすると、鈴は、物語を書くことにこだわっています。言葉で物語を紡ぐことの魅力が作品に込められているように思いました。扉を開けて圭が入って来るところから作品が始まって、最後は、鈴と圭が月田を駅まで送って家のドアを開ける寸前で終わります。空には母が好きだった月が浮かんでいます。一つ一つの描写が何通りにも読める深くて心に残る作品でした。

 

*1 紹介文は、『おすすめ!日本の子どもの本―JBBY選海外にも紹介したい子どもの本―2019』(JBBY発行)に執筆したものを加工しました。

 

<大阪国際児童文学振興財団からのお知らせ> 詳細はhttp://www.iiclo.or.jp/をご覧ください。

●第17回国際グリム賞 贈呈式・記念講演会 参加者募集

世界の優れた児童文学研究者を顕彰する第17回「国際グリム賞」(国際児童文学研究賞)の受賞者が、三宅興子教授(梅花女子大学名誉教授、当財団特別顧問)に決定しました。贈呈式および記念講演会を開催します。

講 師:第17回国際グリム賞受賞者 三宅 興子 教授

演 題:「イギリス児童文学史再構築論を通して、日本児童文学を再考する」

日 時:11月9日(土)午後2時~4時

会 場:國民會館 武藤記念ホール(大阪市中央区大手前2)

定 員:100人 (申込先着順)  参加費:無 料

主 催:一般財団法人 大阪国際児童文学振興財団/

    一般財団法人 金蘭会/大阪府立大手前高等学校同窓会 金蘭会

お申込み、詳細は ↓↓

http://www.iiclo.or.jp/07_com-con/01_grimm/index.html#17kettei

 

●講演会「紙芝居の歴史から子どもの読書文化について考える」参加者募集

講 師:浅岡 靖央 さん(児童文化研究者、白百合女子大学教授)

日 時:11月30日(土)午後2時~4時

会 場:大阪府立中央図書館 2階大会議室(東大阪市荒本)

定 員:60人 (申込先着順)  参加費:1000円

主 催:一般財団法人 大阪国際児童文学振興財団

後 援:大阪府立中央図書館

助 成:子どもゆめ基金助成活動

お申込み、詳細は ↓↓

http://www.iiclo.or.jp/03_event/02_lecture/index.html#kamishibaikoenkai

●「第36回 日産 童話と絵本のグランプリ」作品募集
アマチュア作家を対象とした創作童話と絵本のコンテストです。構成、時代などテーマは自由で、子どもを対象とした未発表の創作童話、創作絵本を募集しています。締め切りは10月31日(木)です。詳細は↓↓
http://www.iiclo.or.jp/07_com-con/02_nissan/index.html#36boshu

● 研究紀要の原稿募集
当財団では「大阪国際児童文学振興財団 研究紀要」第33号の原稿を募集しています。

 詳細は↓↓
 http://www.iiclo.or.jp/06_res-pub/04_journal/boshu.html

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以下ひこです。

 

【児童文学】

『隠された悲鳴』(ユニティ・ダウ:作 三辺律子:訳 英知出版)

 ボツワナで実際にある儀礼殺人(自らの子どもの良き成長のために、少女を誘拐し、生きたまま肉を切り取り、それを薬とする)の実話を元にした、現職大臣が書いた物語。

 国家奉仕プロジェクトに参加し、ある村を訪れたアマントルは、木箱に入った血塗られた少女の衣服、下着を発見する。どうやら5年前に行方不明になった少女のものらしい。警察からライオンに食べられたとお報告されていた村は騒然とする。服を脱がせて食べるライオンがいるか! しかし、警察は動かないどころかその証拠さえ持ち去る。裏には大きな陰謀があると思ったアマントルは証拠を盗みだし、友人の弁護士や検察官と真相を探り始める。

 こんなおそろしい「風習」と言っていいのかわかりませんが、あるのは知りませんでした。根底にあるのは女性差別・蔑視・嫌悪だと思います。

 

『ZENOBIA』(モーテン・ヂュアー:文 ラース・ホーネマン:絵 荒木美弥子:訳 サウザンブックス社)

 シリア内戦。戦火を逃れ少女アミーナは難民船に乗るが、転覆して海に沈んでいく。沈みながら彼女は、村での楽しかった日々から、難民船に乗るまでを回想していく。

 ここに救いがあるわけではないけれど、戦争が何を奪っていくかが、読む者の心に浸透していくグラフィックノベル。

 

『本気でやれば、なんでもできる!?』(ジョン・ヨーマン:作 クェンティン・ブレイク:絵 三原泉:訳 徳間書店)

 集中するのが苦手なビリーは、授業もままなりません。先生に、一生懸命頑張れば何でもやれるみたいな励まされ方をされ、その気になった彼に友達が、角を生やせる? なんてからかったから、やれると言ってしまうビリー。

 で、集中したら、あらら、だんだん生えてきたぞ。

 という、すごくいけてるお話です。

 鹿タイプの角なので、枝分かれして、どんどん大きくなって、頭が痛くなって、どうしましょう?

 

【絵本】

『人形の家にすんでいたネズミ一家のおるすばん』(マイケル・ボンド:文 エミリー・サットン:絵 早川敦子:訳 徳間書店)

 『人形の家にすんでいたネズミ一家のおはなし』2作目です。

 伯爵家が旅行に出かけると、それを待っていた秘書がお金儲けを始めます。参加料を取って、ネズミたちを一番多く写真に撮った人に賞金を与えるというコンテストです。なずみたちは撮られないようにを苦労します。

 賞金というのは嘘で、集めた参加料を奪って消えようと秘書はしているのですが、それを阻止すべくネズミたちが取った行動は?

 なるほど。

 かわいいネズミたちの知恵と、お屋敷の細かな描写をお楽しみくださいな。

 

『ハッピーボギー』(くりはらたかし あかね書房)

 ハッピーボギーはおばけなんですが、というか、おばけだからなんですが、切れたり、畳まれたり、中身がこぼれたり、なんだか楽しいことをいろいろしてくれます。もちろん、形だって自由になりますしね。読者の子どもが好きに描いてもいいんですよ。

 

『すてきって なんだろう?』(アントネッラ・カペッティ:文 メリッサ・カストリヨン:絵 あべけんじろう あべなお:訳 きじとら出版)

 いもむしは、おいしい葉っぱを食べて、眠って、快適な毎日を過ごしていました。ある日人間に「すてきな いもむしさんね」と言われて、すてきの意味を知ろうとします。

 熊は蜂の巣だというし、リスはかくれんぼうだというし、ネズミは雨宿りできるキノコだという。でもそれらは、「おいしい」だし、「楽しい」だし、「役に立つ」だし、すてきとは違うとカラス。そのカラスがいう素敵は、空き缶の「ピカピカ」だしね。

 哲学的な命題を楽しく展開していく絵本です。

さてさて、すてきとは?

 

『たまごにいちゃんと たまごじいさん』(あきやまただし:作・絵 すずき出版)

 『たまごにいちゃん』を初めて読んだとき、孵化したくないたまごにいちゃんの気持ちがよく響いて、いい作品だなあと思ったのですが、それから次々と続編が生まれ、こんなにたくさんの作品世界になるとは、正直思ってもみませんでした。

 あきやまさんが生み出したこの世界は、子ども読者に私達の世界を語るための普遍性を持っているのだと思います。

 本作もまた素晴らしいです。なにしろ、にいちゃんの上を行く、じいちゃんに出会うのですから。じいちゃんは、じいちゃんになるまでずっと、卵から出ていないのでした。さすがに驚いてたまごにいちゃんは、たまごじいちゃんに誰にも相手にされないのではとか、さみしいのではとかいろいろ聞きますが、じいちゃんが言うには、んなもん、一人でもいいそうです。誰にも気にされないでも、んなもん大丈夫だそうです。

 素晴らしい!

 でも、オチはちゃんとありますよ。それはそれで、すごいです。

 このシリーズ、もはや、どんなテーマも描けそうです。もっともっと描いてください!

 

『うっかりおじさん』(エマ・ヴェルケ:作 きただいえりこ:訳 朔北社)

 色んなものをわすれているおじさん。

 まず、めがね。差し出してくれる誰かの手。でも、すぐに渡さない。次のページでは、ピントのぼけたおじさんの絵。どうやら誰かはおじさんのめがねをかけているみたい。もちろん、その場面の活字もピントが外れています。巧い描き方です。

 やっとまがねをかけたおじさん。今度はぼうし。誰かが見つかったけど、やっぱり自分でかぶっている。

 つまり、この絵本は、自由な視点から描かれているのではなく、おじさんの相手をしている誰かの視点だということです。

 ネクタイも、付けひげも見つけてもらったおじさん。これで出かける準備は万端。誰かに、君も出かけていいぞといいますが、ズボンをはいてないけどなあ~。

 おじさんもおじさんだけど、誰かさんも結構いじわる?

 ほんと愉快な絵本です。

 

『やさいばたけカーレース』(やぎたみこ 白泉社)

 どうして、こんなのを思いつけるのでしょう?

 野菜畑で、カメさん、ウサギさん、ネズミさん、モグラさん、ヘビさん、カエルさんたちがそれぞれ仕様の車に乗ってレースです。果たして優勝するのは誰?

 こういうお話は展開がすべてですが、作者の縦横無尽、発想の赴くままレースは進んでいきます。

 最後は、その勝ち方、ありか!

 いいんです。ありです。

 

『すきっていわなきゃだめ?』(辻村深月:作 今日マチ子:絵 瀧井朝世:編 岩崎書店)

 瀧井朝世による、「恋の絵本」シリーズ2。学校で「すき」っていうブームがあって、主人公には好きな男の子こうくんがいるけど言えなくて、そうこうしているうちにりなちゃんがすきって告白して、こうくんがやっぱり好きで。という展開の話。

この話の問題は、最初の方で語り手(主人公)がまるで女の子であるかのように(口調も)誘導しておいて、最後に男の子(ボク)であると明かすところです。もちろん語り手がいくらボクと言っていたって女の子である可能性は残されていますが。一方男の子である場合、物語はそれをわからないように展開していきますから、読者の心を揺さぶるのは、最後の最後で語り手が男の子であり、同性愛者(とまではまだ意識していないかもしれませんが)であるとわかる点にあるとなります。そこで読者の感情を揺さぶるのはアンフェアです。

マイノリティを描く作品に最低求められることは、それが何らかの解決を提示しているか、提示しなくても状況を見えやすいようにあぶりだしているか、マジョリティ読者にその差別を顕在化して彼ら(私も入ります)の既得権益を糾弾し、その心を動かそうとしているか、そのどれか一つでもあることだと考えていますが、ここにそれはありません。

むしろ、マジョリティが安全に心地よくマイノリティを眺めながら感動できる仕上がりになっていると言えるでしょう。それを差別的な展開と言ってもいい。

最初からジェンダーとセクシュアリティを明らかにしても展開出来る話なのに、最後のページまで徹底して、女の子であるかのように文も絵も表現しており、最後にオチのようにしてそれを明かさないと成立しないと思っているのなら、子どもをなめています。

最後のレインボーもなあ。

 

『すきなひと』(桜庭一樹:作 嶽まいこ:絵 岩崎書店)

 『すきっていわなきゃだめ?』とカップリングで出ていたので読む。

アニマ、アニムス。パラノイア。ナルシス。統合失調。

「すき」を探してさまよう乖離した自己。

 最後に統合。タスク終了。死。

 という、「すき」のお話ですが、それが個人という範囲か、ひょっとしたら世界かはわかりません。わかるのは、作り手の自己満足。絵本は懐が深いからこれもまあ、絵本なんでしょうね。

 

『ジュース』(三木卓:作 杉浦範茂:絵 すずき出版)

 暑い夏、リョウは元気に走るけれど、かげぼうしが追いつけない。暑さで疲れている。なんとか追いついたら、わざとじゃないけど走っている最中に蹴られて海に落ちてしまうし。もは頭にきたかげぼうしをなだめようと、リョウは缶ジュースを飲ませようとしますが、どうすれば出来る?

三木の短編を絵本化です。

 

『おばけ おばけ おばけ!!』(おざわよしひさ 岩崎書店)

 ティッシュペーパーを引っ張ったら、おばけが! 押し入れ開けたら、おばけが! ペン入れからペンを抜いたら、おばけが! もう、なんか、画面全体がおばけだらけで、どうしましょう。家の中はおばけだらけで、こわいぞ。やっと母親が帰ってきた! って、そんなに甘くはないぞ。

 潔い絵本です。

 

『ぐる~り すいぞくかん』(モリナガヨウ:作 ほるぷ出版)

2メートル60センチに広がる水族館のパノラマ絵本です。で、その裏面は職員がどんな仕事をしている方描かれています。両方知りたいよね。やっぱり。

 

『ハロウィンのおきゃくさま』(レオ・ランドリー:作 木坂涼:訳 光村教育図書)

 ハロウィン。おばけのオリバーは仲間たちをパーティに招待。ところが招待状の一枚を落としてしまい、それを拾った子どもたちが「トリック・オア・トリート」ってやってきます。

 彼らも大事なお客さま。一緒にパーティを楽しもう!

 

『とんでいったふうせんは』(ジェシー・オリベロス:文 ダナ・ウルエコッテ:絵 落合恵子:訳 絵本塾出版)

それぞれが大切に持っている思い出や出来事を風船として描いた絵本です。当然ながらぼくの風船の数は両親より少なくて、両親の風船の数もおじいちゃんより少ない。同じ色の風船は一緒に過ごした思い出です。

ところが、おじいちゃんはだんだん風船を手放して飛ばしてしまいます。それを望んでいるわけでもないのに。おじいちゃんの風船はどんどん少なくなっていき、みんなのこともわからなくなっていく。

悲しむぼくですが、でも、ぼくはしっかりとまだ、風船を握っています。おじいちゃんは手を離してしまったけれど、おじいちゃんとの大切な色の風船を。

風船を使うことで、老いと思い出とつながりを描いた絵本です。

 

『ワールドツアー めいろブック』(サム・スミス:文 ザ・ボーイ・フィッツ・ハモンド他:絵 宮坂宏美:訳 あかね書房)

 世界の観光地を舞台に、色んなクリア条件付きで迷路を脱出する絵本。よく出来ています。

こういうの、意地が半分、根気が半分でやりますが、年々根気は低下していく……。

 

『あなあなはてな』(はらぺこめがね:作 アリス館)

 食べ物のあなについて、はらぺこめがねさんが考察しています。というか、あなのある食べ物を楽しそうに描いています。ちくわ、ドーナツ、缶詰のパイナップル、マカロニ。別に順番に法則があるわけでも、選択に方針があるわけでもなく、とにかくあななのが、妙に楽しくて、明日はレンコンのきんぴらを作ることに決めました。

 

『エベレスト 命・祈り・挑戦』(サングマ・フランシス:文 リスク・フェン:絵 千葉茂樹:訳 徳間書店)

 エベレスト。それがどのようにして出来ていったか、名前の由来は? 高さはどんな風にして測られたか。気候は? 生息生物は? 伝説は? 登山方法は? と、エベレストを巡る様々なことが語られ、描かれ、身近にします。と同時に、その近寄りがたさもまた、ますますわかります。

 まるごとエベレストをお楽しみください!

 

『ちきゅう 45おく4000まんねんの おもいで』(ステイシー・マカナルティー:原作 デイビッド・リッチフィールド:絵 千葉茂樹:訳 小学館)

 『たいよう』、『つき』に続いて、完結です。毎回言ってますが、このシリーズは、たいようも、つきも、そして今回のちきゅうも、大変親しみやすくて、彼らによる宇宙の説明がすっと頭に入ってきます。

 知識物といえば、なんといっても「ちしきのぽけっと」シリーズ(岩崎書店)が最高ですが、これはまた別腹です。

 

『おばあちゃん、ぼくにできることある?』(ジェシカ・シェパード:作 おびかゆうこ:訳 偕成社)

 オスカーはおばあちゃんが大好き。いつも一緒に遊びます。おばあちゃんの素敵なところは、オスカーと子どものようにして遊んでくれること。

 確かに。これって、案外大人には難しい。私も得意な方ですが、持つのは3時間がせいぜい。

 そんなおばあちゃんが、だんだん忘れっぽくなって行きます。そして、介護施設に入ることに。おばあちゃんは楽しく過ごせるでしょうか?

 元施設職員だった著者なので、そこは詳しく描いています。

 

『ヒキガエルがいく』(パク ジョンチェ:作 申明浩・広松由希子:訳 岩波書店)

 力強く、リズム豊かに描かれた、ヒキガエルの行進。やがて池では蛙合戦が。

 命そのものが、これでもかと迫ってくる。そのドキドキはヒキガエルのみならず、人も含めた命そのものへと広がっていく。

 いい絵本を出してくれました。申さん、広松さん、岩波さん。

 

『ばいかる丸』(柳原良平 ポニーブックス 岩崎書店 復刻版)

 満州大連との航路に使われたばいかる丸が、その生い立ちから語られていきます。

 古くさい他の船と違う自分を誇らしく思うばいかる丸。しかし、数年も過ぎると、もっと大きな船が。自分が古く思えてしまいます。

 お客さんを運ぶ船だったはずなのに昭和12年、病院船に変えられます。戦争のおかげです。船体は真っ黒に塗られています。昭和16年。日本が世界と戦争を始めると今度は白く塗られて国際赤十字の病院船に。次々と沈んでいく戦艦たち。そして日本軍は、赤十字の病院船なのに、そこに兵隊を乗せて運ぼうとします。なんと卑怯でしょぅ。昭和20年、ばいかる丸は機雷にあたって沈没。

 戦後引き上げられ、捕鯨船となります。平和になりました。

 船を通して、この国の戦争にからんだ歴史を、柳原らしい、ひょうひょうとした批評眼で描いています。

 復刻、ありがとうございます!

 

『決定版! 怪盗こうもり男爵』(飛鳥幸子 立東舎)

 飛鳥は1949年生まれですから24年組と同い年ですがデビューは17歳。二年前に里中が16歳でデビューしていますから最年少ではありませんでしたが、漫画家を目指していた24年組の面々にとって同い年の飛鳥は憧れであり、目標であったでしょう。

 彼女の代表作『怪盗こうもり男爵』が全作品に飛鳥へのインタビュー、坂田靖子(きゃ!)からのファンレターマンガ、年譜もついた決定版です。

 まず、絵が巧い。石森章太郎や西谷祥子の影響を受けているようですが、後の24年組の初期作品が様々な影響を受けているのがわかります。

 設定が、1920年代のロンドン。二つの大戦の間、ひとときの優雅な時間にされています。おしゃれなんです。そして怪盗が主人公で、その正体はロマノフ皇帝のいとこ筋の貴族で、名前がアイザック・アシモフというのも、当時のまんが(まだマンガとは表記されていない時代)では、超かっこいいのです。もちろんアイザック・アシモフは、あのアイザック・アシモフから取っています。

 一話完結の事件の数々も、危機また危機の早い展開ですが、ちゃんと収まります。そのテンポもちょうどいい速さ。つまり、読者の読みよりちょい速めで、そのため次のページに急ぐのです。

 マンガへの情熱が冷めて飛鳥はあっさりとイラストレーターへと転向するのですが、それもまた、おもしろい作家だということですね。

 元ファンはもちろん、この辺りに興味がある人もぜひぜひ!

 

『チリとチリリ あめのひのおはなし』(どい かや アリス館)

 現代の『ぐりとぐら』の趣も出てきたシリーズ。今回は雨の中を走ります。途中で立ち寄るカフェの額縁は窓だったり、地面から雨が降ってきたり、雨にまつわる楽しい時間がいっぱいです。今回は、おまけの話の冊子もついてます。

 

『チェクポ おばあちゃんがくれた たいせつなつつみ』(イ・チュニ:ぶん キム・ドンソウウ:え おおたけきよみ:やく 福音館書店)

 おばあちゃんが端切れを縫ってつくってくれたチャクポ。風呂敷のようなもので、色んな者を包みます。オギは、それでお弁当を包んで腰に巻きます。でも、今日はわざと忘れてでかけます。だって、友達のダヒが真っ赤な通学鞄を買ってもらったからです。

 忘れ物だとおばあちゃんに追いつかれ、オギはいやいやチェクポを巻いて学校へ。

 机の横にぶら下げだダヒの鞄がきになって仕方ないオギ。

 子どものうらやましい気持ち。せつない気持ち。申し訳ない気持ち。そんな複雑な思いをドンソンは見事に表しています。

 派手さも、強烈な個性もさほどあるわけではありませんが、風景も、人の仕草も、画面構成もとても巧く、当たり前ながら絵本の画とはどういうものかを熟知しているような画家です。他も訳してください!

 

『絵で見てわかる 単位とはかりかた』(ロジャー・ホア:文 ベネディッタ・ジオフレット/エンリカ・ルシーナ:絵 福本友美子:訳 ひさかたチャイルド)

 単位というのはとても大事な指標で、物作りから戦争、そして私達の感覚までを支配しています。例えばメートルは、最初は赤道と北極点の/10000000分の一と定められましたが(今は光の進む長さで決められています)、それを決定するのはなかなか大変でした。その辺りは『子午線―メートル異聞』他、本が出ていますので読んでください。

 この仕掛け絵本のおもしろいところは、そんな単位の「はかりかた」について解説しているところです。長さ、面積、体積、質量、時間などなど。そのことで私達は、単位を手に入れます。

 

『ねこぼん』(はやしますみ 偕成社)

 タイトル通り、ねこさんたちのお盆です。といっても、私は、ねこさんにもお盆があるのをしりませんでしたから、そうなんやあ、と楽しく読みました。

 封入されている「ますます通信」に、この制作エピソードが書いてあって、こっちもおもしろいです。

 

『ぽっとん どんぐり』(いわさゆうこ 童心社)

 銀閣寺近くのノアノアってイタリア料理店でノンアルコールビールを飲んでいたら、うえからムクロジの実がぽっとん落ちてきました。これはまん丸の実で羽子板の羽の実の部分になります。これもどんぐりですよね、いわささん。

 寒い冬、クヌギの木を見上げた絵が扉です。見上げたと言っても人は描かれていません。寒々とした木。ページを繰ると、一編に明るくなって、春、夏、秋を駆け抜け、どんぐりが実ります。様々な木のどんぐりたち。

 楽しい。

 どんぐりのレシピもございます。

 

『たたたん たたたん』(内田麟太郎:文 西村繁男:絵 童心社)

 いい!

 内田は列車の音をたたたん たたたんと聞く。そして、なんの理屈も説明もなく列車は海へと進んでいく。車内には、金太郎や桃太郎や浦島太郎やカッパや花咲かじじいがいるが、気にするな。

 やっとたどり着いた竜宮城、どうしてか玉手箱が空いていて浦島はじじいになっている。まあ、そういうこともある。おとひめさんだってばばあだし。そんなもんだ。

 てな具合に、列車は、たたたん たたたんと進んでいくのだ。気にするな。

 

『ワニをつかまえたこざるのおはなし』(メイ・ダランソン:文 ケルスティ・チャプレ:絵 ふしみみさお:訳 徳間書店)

 1930年代の絵本です。

 遊びに夢中な子ザルは、仲間からはぐれて、川岸に行きワニに出会います。自分など食べ応えがないからついてこいと、縄を強い歯で加えさせてジャン靴へ。そこにはゾウがいて……。

 時代の素朴さがありますが、絵が古びていないのに驚愕。

 

『ナマコ天国』(本川達雄:作 こしだミカ:絵 偕成社)

 知らないことばかりだ!

 目、鼻、耳、脳もないんか。半分に割っても再生するのか。魚にはやばい毒で防衛、それでも突きに来る魚には、自分で穴を開けて腸を(このわただ)差し上げるんか。

年に一度しか食べないけど、尊敬しよう。

 

『なかよしの水 タンザニアのおはなし』(ジョン・キカラ:作 さくまゆみこ:訳 西村書店)

 ティンガティンガ絵本、第2弾です。

 川の水は、ワニは飲ませてくれません。誰かを犠牲にせよと言うのです。動物たちは、あいつがいいだの、こいつがいいだの言い争い。ノウサギが標的になりました。そんな騒ぎで、眠っていたライオンを起こしてしまってまた大騒ぎ。バッファローは洞穴に逃げ、ライオンはその入り口で待ちます。みんなの結束はどうなってしまうのでしょうか?

 なかよしを考える絵本です。

 

『よるのまんなか』(おくはらゆめ 理論社)

 よるのまんなかでは、色んなことが起こっています。怖いこと? いえいえ、楽しいこと。

 この本では、れいぞうこくんと、かまきりくんと、みずたまりと、赤ちゃんと、チューリップが体験した楽しい出来事が描かれています。夜も、真ん中辺りはたのしいのかあ。原稿を書けずにずっと起きていてはだめだなあ。

 

『マップス: 新・世界図絵 愛蔵版』(アレクサンドラ・ミジェリンスカ&ダニエル・ミジェリンスキ 徳間書店)

 ページ数が四割増えて、当然情報も国も増えて登場です。

 この絵本は、「国」の歴史、文化、人、気候諸々を大画面で見せてくれるところ。もちろん、それだけではまだまだ情報は足りませんが、そうして観てみることでなんとなく興味がわいてくる。

 日本を見ると、え~! こんな風に観られているんだと思えます。

 世界地図はまだまだ埋まっていません。

 豪華版。これが最後だ版。まだあった版。と描いていって欲しいなあ。

 

『ゆめみるどうぶつたち』(イザベル・シムレール:文・絵 石津ちひろ:訳 岩波書店)

 夜の眠りについた様々な動物たち。彼らは体毛を持っていますがそれを表情豊かで微細なスクラッチで描き出します。ああ、美しいし、怖いし、穏やかな息づかいも聞こえてきます。いつまでも観ていたい。

 

『PEACE AND ME わたしの平和 ノーベル平和賞12人の生きかた』(アリ・ウィンター:文 ミカエル・エル・ファティ:絵 中井はるの:訳 かもがわ出版)

 タイトル通りの絵本で、もはや説明は必要がないのですが、「12人の生きかた」なんです。みんな違うんです。私たち一人一人の「平和」は違うし、それをどう意識し、それでもどうつなげていくかが大切。

 

【そのほか】

『BOOKMARK』(金原瑞人・三辺律子:編 CCC MADIAHOUSE)

 金原、三辺が翻訳書の普及のために始めたCDサイズの小冊子「BOOKMARK」。人気が人気を呼んで5000部から今や8000部近くになる、手に入れるのも困難な状態です。

 そこでPDFで無料公開もしていますが、今度12号までをまとめた書籍ともなりました(電子もあり)。

けれんなく、すっきりと潔い装丁で、中身の思いそのものが反映したような仕上がりです。手軽で、その手軽感が、翻訳書も手軽に読んで欲しい感につながってい塩梅。

この本を手にして、翻訳書の世界へいらっしゃい!

小冊子は年二回、今も続いています。

 

『あまんきみこハンドブック』(あまんきみこ研究会 三省堂)

 わ、あまんさんのハンドブックや。どないしよう。って、どないにもならんけど、なんや嬉しい。

 あまんと、満州のことから始まるのがよろしいなあ。

 私にとって彼女は『車のいろは空のいろ』の文庫本との出会いが最初だった。それかなどこかで会って、話して、なんだか40年くらい付き合ったいる。今月も夕食ご一緒しながら、日常話をした。買い物はどうしているだとか、庭はだとか、なんだか一人暮らしの親を心配しているような塩梅だ。彼女と年に1、2度の会食と、時たまの電話でのおしゃべりは、私をぐうたら気分から起動させてくれる。っても、あまんさんのペースが遅すぎるので、たぶん自分のペースが速くなったと錯覚しているだけだろうけど。などといじわるも言ってみる。

 また、おいしいもん食べましょう!

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