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豊後大友家臣団の戦国ネタ

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#大友家

女好き 志賀 親守(しが ちかもり)

女好き 志賀 親守(しが ちかもり)

志賀 親守(しが ちかもり)は生誕不明。没年不明。

大友三家(田北氏、詫摩氏、志賀氏)の一つ。北志賀家は南軍衆の筆頭である。大友の主力ともいわれる軍を率いる頭として活躍した武将。

1550年二回崩れの変
大友義鎮(おおとも よししげ)の家督相続に尽力。
1552年親度(ちかのり)に家督を譲って隠居。隠居というぐらいですからこの時、30~40代ぐらいだったのかなとか年齢の推測をしてしまいます。

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超最強 立花宗茂

超最強 立花宗茂

大友家の家臣で唯一大名家になり、取り潰しにあい。徳川家において復活した大名です。立花道雪に次いで好きな武将です。戦国最強武将の一人でしょう。

脚色して描けば、間違いなく大河ドラマ化できる武将です。

生誕は1567年、今の豊後高田市あたりの高橋紹運の長男として誕生。幼名 千熊丸。後に弥七郎。結構、改名が多く(18回ほど)。この方の人生もまあまあ節目の多いものなのだと窺えます。没年が1643年で7

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水軍 若林 鎮興(わかばやし しげおき)

水軍 若林 鎮興(わかばやし しげおき)

若林氏は元々下野国の豪族で、室町時代初期より前に大友氏に仕えた。豊後国佐賀関郷一尺屋を所領とし、その地理的要素も加わり、大友氏の水軍衆としてその中核を担った。大友宗麟の時代に重用され水軍の練兵や水運の交通を担った武将だと思われます。彼との出会いが大友宗麟の臼杵城移転や津久見の隠居を考えたのだと思われます。意外に大河ドラマ化できそうな人物です。

永禄12年(1569年)、安芸国の毛利元就が北九州へ

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最強 志賀親次(しが ちかよし)

最強 志賀親次(しが ちかよし)

大友親次は大友家臣。岡城城主です。生誕は1566年。死没は1660年。戦国時代には珍しく長寿の人です。94歳くらい生きています。大友後期家臣では立花宗茂に並ぶ最強の武将です。父は志賀親守。義母は宗麟の娘(正確には服部右京亮が父親)です。キリシタンで洗礼名はドンパウロといいます。19歳の時に義父の親度が主君の大友義統と不和となり失脚。家督を継承しています。

その後は1586年島津侵攻(豊薩合戦)の

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大友家に幽閉された男

大友家に幽閉された男

大友家に幽閉された男。謎の中国人、鄭舜功という方がいます。ウィキペディアでは冒険家となっていますが、普通に幽閉されて日本では臼杵からでていません。この人、のちに日本の風土記みたいな書物を残します。この人物、本国中国でも幽閉されて過ごします。もともと役人ではないようで、日本への使者というかスパイ的な位置にいたようです。当時の中国の政治に左右されたかわいそうな人です。中国から沖縄に着いたくらいが一番幸

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