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ミョウガを物忘れの元凶にした犯人は誰なのか!?

夏場をメインにスーパーの棚に並ぶ香辛野菜のひとつにミョウガがあります。
刺身のつまにしたり、素麺や冷やしうどんなど冷たい麺類、冷や汁の薬味などに使うと、その香りとピリッとした辛味で食欲が増します。

たまに、ミョウガは日本固有の野菜という方がおられますが、実はアジア東部の温暖地方が原産地と言われており、中国中部から朝鮮半島南部、日本にかけて分布する、ショウガの仲間の宿根性の多年草です。

中国で六世紀前半に書かれた農業書『斉民要術(せいみんようじゅつ)』に、ミョウガの性状、栽培法や用途などの記載があることから、中国では古くから栽培され食用として用いられたと考えられています。

日本のミョウガが史料に登場するのは、中国で3世紀末に書かれた『三国志 魏書 巻三十 東夷伝』(通称:魏志倭人伝)の倭国の山野の産物を紹介するくだりで、

『三国志 魏書 巻三十 東夷伝』-国立国会図書館デジタルコレクション
※左ページ2行目に「蘘荷」の文字がある

有薑・橘・椒・蘘荷、不知以爲滋味
(ショウガ・タチバナ・サンショウ・ミョウガはあるが、その滋味を知らない)

『三国志魏書巻三十東夷伝』

と書かれているのが、最初の例とされています。

この時は、倭人は食用にしていないという書かれ方ですが、この後『本草和名』(920~923年頃成立)や『延喜式』(927年成立)に「蘘荷」に関する記述があることから、平安時代には食用に供されていたと考えられます。

ミョウガの名前の由来については、釈迦の弟子の一人「周利槃特(しゅりはんどく、チューラパンタカ、チュッラパンタカ)」が物忘れがひどく、自分の名前も思い出せないほどだったので名前を書いた札(名荷)をいつも下げていたが、彼の死後に墓の周りにたくさん生えてきた植物を「茗荷」と呼ぶようになったという逸話があり、ここから、ミョウガを食べると物忘れがひどくなるという迷信が生まれています。

これについては、江戸時代初期の笑話集『醒睡笑』(安楽庵策伝著、1623年)に、

『醒睡笑 巻之六』(寛永5年写本)ー国立公文書館デジタルアーカイブ(内閣文庫-和書)
※右ページ中央から茗荷の記述

一 振舞の菜に、茗荷のさしみありしを、人ありて小兒にむかひ、是をばいにしへより今にいたり、物よみおぼへん事をたしなむ程の人は、みなどんごん草と名付、ものわすれするとてくはぬよし申されば、兒きいて、あこはそれならくはふ、くうてひだるさをわすれうと、

『醒睡笑 巻之六』(寛永5年写本)

という記述があったり、

『醒睡笑 巻之六』(寛永5年写本)ー国立公文書館デジタルアーカイブ(内閣文庫-和書)
※右ページ7行目から茗荷の記述

あるとき児、茗荷のあへ物をひたもの食せらるる。中将見て、「それは周梨盤特が塚より生じて鈍根草といへば、学問など心掛くる人の、くふべき事にてはなし」といましめける

『醒睡笑 巻之六』(寛永5年写本)

という記述があったりしますので、江戸時代初期には広く庶民の間で受け入れられていた迷信のようです。

「茗荷」の語源の典拠に、この『醒睡笑』を引く辞書も少なくありませんが、『醒睡笑』の記述の一部は、室町時代後期に天台宗の僧・栄心によりまとめられた法華経の解説書『法華經直談鈔(ほけきょうじきだんしょう)』がベースになっているとの研究報告があったので確認してみると、確かに『法華經直談鈔 巻第六本』の19項目目「槃特之事」に

『法華經直談鈔 巻第六本』(寛永12年写本)-国文学研究資料館(新日本古典籍総合データベース)
※左ページ中央から「十九 槃特之事」

周利槃特ハ佛弟子ノ中ニハ極鈍根ノ人也 我名モ不知 札ニ書テ頸ニ懸テアルキ人ガ名ヲ問バ此札ヲ指出ス也 去ハ世間ニ名荷ト云草ハ名ヲ荷ト書タリ 是ハ槃特ノ廟ヨリ生草也 故ニ又ハ鈍根草トモ云也

『法華經直談鈔 巻第六本』

という記述がありました。

ここまで調べたところで、全国の図書館の参考相談事例を収集している「レファレンス協同データベース」を確認してみると、同じようなことを知りたい人はいるもので、2006年4月18日の岐阜県図書館での相談事例「『茗荷を食べると物忘れがひどくなる』という話の由来が知りたい。」がありました。
この岐阜県図書館の相談事例の回答プロセスを見ると、

室町時代の『庭訓往来註』には、周利槃特ではなく求名菩薩(ぐみょうぼさつ:ヤシャス=カーマ、弥勒菩薩(アジタ、マイトレーヤ)の前世の姿、文殊菩薩の弟子) の話として、同様の説話がある。
 同じ話で「法華経直談抄」を出典とするものもある。

レファレンス協同データベース

『庭訓往来』は、衣食住、職業、領国経営、建築、司法、職分、仏教、武具、教養、療養など、多岐にわたる一般常識について、手紙のやり取り(往来物)の形で書かれた読み物で、南北朝時代末期から室町時代前期の成立とされ、著者は南北朝時代の僧玄恵と推察されていますが、確証が無いため、公式には著者不明となっています。
読み書きの手本や一般教養の教科書として、武士の子弟の教育に用いられ、江戸時代には寺子屋でも広く使われたので、室町時代から江戸時代にかけて様々な写本が存在しています。

『庭訓往来 鶴屋金助版(天保6(1835)年)』十月三日の状の一部-京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
右ページ6行目下から4文字目から「茗荷」の文字あり

『庭訓往来註』は、その『庭訓往来』の各状について、本文の後に詳細な注釈文を入れた注釈本で、これも室町時代から江戸時代にかけて様々な注釈本が存在していますが、室町時代に最も使われたのは「真名注本」と呼ばれる漢文注のものとされています。

「庭訓往来註」(室町後期)十月三日の状の一部-国書データベース
最後の行に「茗荷」について注釈あり
「庭訓往来註」(室町後期)十月三日の状の一部-国書データベース
最初の行に「茗荷」について注釈の続きあり

室町時代に書かれた真名注本の『庭訓往来註』十月三日の状には、

昆布荒布黑煮ノ烏頭布(カチメ)蕗(フキ)薊(アサミ)蕪(カフラ)酢漬(スツケ)ノ茗荷(ミヤウカ)

『庭訓往来註』(室町後期)

という本文に続いて、

作茗非也 求名菩薩始也 故求名鈍而書我名荷行也 死後墳生草名何也 即号鈍根草也 是即求名菩薩釈迦如来時之弥勒佛是也

『庭訓往来註』(室町後期)

という注釈があります。

この注釈は、
「茗に作るは非なり。求名菩薩より始まるなり。故は求名、鈍にして我名を書き、荷ひて行くなり。死して後に墳に草を生す。名何と名づくなり。即ち鈍根草と号すなり。是れ即ち求名菩薩は釈迦如来の時の弥勒佛是れなり」
と読み、求名菩薩が死んだ後の墓に生えた草を「名何(みょうが)」と名付けたが、これが「鈍根草」というものであり、求名菩薩は、釈迦が真理に達した時の弥勒仏そのものである、という意になります。

ということで、確かに『庭訓往来註』にはミョウガの由来として求名菩薩の逸話が書かれていることは確認できたのですが、求名菩薩は弥勒菩薩の前身であり、弥勒は釈迦の入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われて悟りを開き多くの人々を救済するとされる未来の救済仏なので、求名菩薩の墓というのはちょっとイメージしがたいなと思うのです。

ちなみに、大乗仏教の代表的な経典である「法華経」を406年に鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳したとされる「妙法蓮華経」の「序品第一 答問序」には、

仏授記已。便於中夜。入無余涅槃。仏滅度後。妙光菩薩。持妙法蓮華経。満八十小劫。為人演説。日月灯明仏八子。皆師妙光。妙光教化。令其堅固。阿耨多羅三藐三菩提。是諸王子。供養無量百千万億仏已。皆成仏道。其最後成仏者。名曰燃灯。八百弟子。中有一人。号曰求名。貪著利養。雖復読誦衆経。而不通利。多所忘失。故号求名。是人亦以。種諸善根。因縁故。得値無量百千万億諸仏。供養恭敬。尊重讃歎。弥勒当知。爾時妙光菩薩。豈異人乎。我身是也。求名菩薩。汝身是也。

「妙法蓮華経 序品第一 答問序」

と記されていて、これは、
「仏、授記し已って、便ち中夜に於て無余涅槃に入りたもう。仏の滅度の後、妙光菩薩、妙法蓮華経を持ち八十小劫を満てて人の為に演説す。日月燈明仏の八子、皆妙光を師とす。妙光教化して、其れをして阿耨多羅三藐三菩提に堅固ならしむ。是の諸の王子、無量百千万億の仏を供養し已って、皆仏道を成ず。其の最後に成仏したもう者、名を然燈という。八百の弟子の中に一人あり、号を求名という。利養に貧著せり。復衆経を読誦すと雖も而も通利せず、忘失する所多し、故に求名と号く。是の人亦諸の善根を種えたる因縁を以ての故に、無量百千万億の諸仏に値いたてまつることを得て、供養・恭敬・尊重・讃歎せり。弥勒、当に知るべし、爾の時の妙光菩薩は豈に異人ならん乎、我が身是れ也。求名菩薩は汝が身是れなり。」
と読み、確かに仏教の世界では、弥勒菩薩の前身である求名菩薩が物覚えが悪かったことは、よく知られた説なのですが、かと言って周利槃特と求名菩薩を同一視するのはいささか無理があるのではないかと思うのです。

なお、ミョウガにいつ頃から「茗荷」の字を当てるようになったのかを『故事類苑データベース』で調べてみると、前述の『庭訓往來』を筆頭に、あとは江戸時代の文献ばかりでした。

誰が最初に「庭訓往来」にこの註を付けたのかは定かではありませんが、室町時代に生きた誰かの勘違いではないかと思うのです。

ところで、東京都文京区に茗荷谷という地名がありますが、このあたりは谷地で、江戸時代初期にミョウガが多く作られていました。
その後、大正時代にかけて、江戸(東京)におけるミョウガの産地は、早稲田に移って行きます。

明治11年生まれの劇作家・小説家である眞山靑果(1878~1948)には、『茗荷畠』(1908(明治40)年)という作品があり、その中に、

「茗荷畑を突切つて、大隈伯の邸について曲ると、新開の早稲田鶴巻町になる」

「茗荷畑」(『日本文学全集 63 現代名作集(一)』(1970 筑摩書房)所収)

という一説があります。
ここに出てくる「大隈伯の邸」は、現在の早稲田大学早稲田キャンパスの一角にある大隈庭園あたりと思われますが、明治40年当時は、このあたりにミョウガ畑が広がっていたことがわかります。
今でも、「早稲田ミョウガ」は江戸東京野菜二十三品目のひとつに入っています。

現在では、ミョウガの主産地は高知県で、2020(令和2)年の「地域特産野菜生産状況調査」(農林水産省)によると、栽培面積106ha(全国の49.5%)、出荷量4,890t(全国の93.1%)にも達しています。
以前は夏場しか市場に無かったミョウガも、通年栽培で出荷してくれる高知県の生産者の皆さんのおかげで、一年中入手できるようになりました。

ということで、ミョウガが物忘れの原因であるかのような説を作り上げた真犯人を特定することはできませんでしたが、室町時代に庭訓往来に註を入れた誰かだろうというのは、おぼろげながらわかりました。

一方、近年の研究では、ミョウガには記憶力改善作用もあるという研究報告も発表されています。
韓国・ソウルにある慶熙大学校のHyo Geun, Kimらが2015年に発表した「Effects of Myoga on Memory and Synaptic Plasticity by Regulating Nerve Growth Factor-Mediated Signaling」という論文によれば、細胞実験とマウスによる動物実験で、ミョウガの熱水抽出物を投与した場合に、神経細胞の分化、増殖、維持に重要な役割を果たす神経成長因子(NGF)の増加が認められ、記憶力を評価する行動実験においてもミョウガ熱水抽出物による改善効果が認められたとのこと。

ミョウガにはこの他にも、抗アレルギー作用や抗肥満作用があることが報告されており、変な迷信に惑わされることなく(今時、そんな人はいないと思いますが)、積極的に食べたい香辛野菜なのです。


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